夢を見たのか、現実だったのか、定かではないが、中学か高校の社会科の問題で「現代社会の特徴を述べよ」というものがあった。1917年のロシア革命で世界は大きく変わろうとしたが、1991年のソ連邦の崩壊以後、世界はアメリカを頂点とする同一経済となった。中国もベトナムもキューバも「社会主義国」と言うけれど、アメリカ経済に依存した国家となっている。
中国を訪れた時、大都市にはマクドナルドがあり、若者たちの服装は日本や韓国の若者と変らなかった。けれども農村は昔ながらの生活であり、その差の大きさには驚いた。日本に働きに来ている中国人やベトナム人に、社会主義国家建設の意気込みを聞いたことはなく、彼らの関心はいかにして働いてお金を貯めるか、ということだった。
世界経済はどうやら曲がり角に来ているようだ。アメリカ経済が思わしくない。その影響が出てきているという。アメリカが悪くても中国やインドが急成長しているから、まだまだ経済活動は伸びると見ている人もいる。私は経済について全くわからない。お金を預けただけで、なぜ利子がつくのか、理解できない。物を売ってなぜ利益が出るのかがわからない。お金を貸してくれた人、物を売ってくれた人への感謝をお金にして返すということなのだろうか、と考えたが、交換の証であったお金とは何なのか、わからないままだ。
日本国内の経済活動が減速するのは当然だと私は思っている。どんなに生産を上げても、物を買う人がいなければ、経済は成り立たない。日本は人口減にあるのだから、物を買う人が少なくなっているということだ。そこで、少子化はダメだと産めよ増やせよとやるか、日本がダメなら外国があると輸出に力を入れるか、その二通りしかない。でも、地球の人口は爆発的に増えている。このまま、人口が増え続ければ、その分の食料や水をまかないきれるか心配されている。先進各国が国内経済の停滞から競って輸出に力を入れているのだから、摩擦は相当大きくなるだろう。それにエネルギーである原油や天然ガス、資材である鉱物資源、これらには限りがあるから争奪戦が始まっている。
大変な時代だと思う。世界中の人々が、少なくとも世界の国家の指導的な役割を担っている人々が、時刻の利益だけでなく、50年後百年後の世界のために政治を実行してほしいと思う。片島紀男さんという人が書いた『トロツキーの挽歌』はまだ半分ほどしか読めていないが、トロツキーがスターリンとの闘いに勝利していたなら、世界はどのようになっていただろうと思ってしまった。歴史に「なら」はなく、トロツキーの暗殺を打ち消すことはできない。けれども、トロツキーに限りない敬愛と哀惜を抱いた人物が元NHKディレクターだったということは興味深い。
今朝の中日新聞を見ると、犬山市の田中市長は瀬見井教育長を辞任に追い込もうとしている。大衆に目先の利益でなく、人の社会の理想を語ることは難しい。キリスト教でいう「原罪」というのは、実はこのような人間そのものの存在を言っているのかもしれない。
中国を訪れた時、大都市にはマクドナルドがあり、若者たちの服装は日本や韓国の若者と変らなかった。けれども農村は昔ながらの生活であり、その差の大きさには驚いた。日本に働きに来ている中国人やベトナム人に、社会主義国家建設の意気込みを聞いたことはなく、彼らの関心はいかにして働いてお金を貯めるか、ということだった。
世界経済はどうやら曲がり角に来ているようだ。アメリカ経済が思わしくない。その影響が出てきているという。アメリカが悪くても中国やインドが急成長しているから、まだまだ経済活動は伸びると見ている人もいる。私は経済について全くわからない。お金を預けただけで、なぜ利子がつくのか、理解できない。物を売ってなぜ利益が出るのかがわからない。お金を貸してくれた人、物を売ってくれた人への感謝をお金にして返すということなのだろうか、と考えたが、交換の証であったお金とは何なのか、わからないままだ。
日本国内の経済活動が減速するのは当然だと私は思っている。どんなに生産を上げても、物を買う人がいなければ、経済は成り立たない。日本は人口減にあるのだから、物を買う人が少なくなっているということだ。そこで、少子化はダメだと産めよ増やせよとやるか、日本がダメなら外国があると輸出に力を入れるか、その二通りしかない。でも、地球の人口は爆発的に増えている。このまま、人口が増え続ければ、その分の食料や水をまかないきれるか心配されている。先進各国が国内経済の停滞から競って輸出に力を入れているのだから、摩擦は相当大きくなるだろう。それにエネルギーである原油や天然ガス、資材である鉱物資源、これらには限りがあるから争奪戦が始まっている。
大変な時代だと思う。世界中の人々が、少なくとも世界の国家の指導的な役割を担っている人々が、時刻の利益だけでなく、50年後百年後の世界のために政治を実行してほしいと思う。片島紀男さんという人が書いた『トロツキーの挽歌』はまだ半分ほどしか読めていないが、トロツキーがスターリンとの闘いに勝利していたなら、世界はどのようになっていただろうと思ってしまった。歴史に「なら」はなく、トロツキーの暗殺を打ち消すことはできない。けれども、トロツキーに限りない敬愛と哀惜を抱いた人物が元NHKディレクターだったということは興味深い。
今朝の中日新聞を見ると、犬山市の田中市長は瀬見井教育長を辞任に追い込もうとしている。大衆に目先の利益でなく、人の社会の理想を語ることは難しい。キリスト教でいう「原罪」というのは、実はこのような人間そのものの存在を言っているのかもしれない。