友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

出会いに感謝

2008年01月10日 22時40分40秒 | Weblog
 古いカセットテープを整理し、音楽以外は大方を捨てた。私は取材の時にテープを持ち込むのは感覚的にいやだったので、その種のテープはほとんど無かったが、ほとんど無いということは多少あったということである。講演会とか座談会が主だが、記憶では一度も聞き直したことは無い。取材の時は、B5のノートを持って行き、行事ならその様子を、インタビューなら相手の言葉の中で印象的なものを書き綴った。取材で一番大事にしたのは、自分自身の感性だったと思う。

 狭い地域の新聞だから、行事は毎年変らない。すると様子だけを書いていると毎年同じことになる可能性だってある。そこでどうしても自分が印象に残ったことにポイントを置いて書くように努めてきた。自分の感性が、市民の皆さんに「なるほど」と共感してもらえるものであれば、良い記事が書けるはずと信じてきた。幸いなことに、大新聞でないが故に私には「記事にしてやる」という意識は全くなかった。いつも取材させてもらっている、ありがたいという気持ちだった。

 実際、新聞を始めた頃は取材拒否にあったこともある。地域新聞はゴロツキ新聞というイメージがまだ残っている時代だったから、役所の助役からの情報で出かけたのに、その機関も半分公であるにもかかわらず、のっけから「何も話すことはない」と高飛車に怒鳴られた。役所であっても、窓口の職員は胡散臭いといわんばかりの横柄な対応でしかなかった時期があった。新聞が何号か発行され、作っている私がどういう人間がわかると、向こうから声をかけてくれるようになった。

 それに広告収入でやっている新聞だったので、取材をさせてもらうことは本当にありがたかった。創刊号を発行し、第2号、第3号と傍目には順調に見えたかもしれないが、一人で撮影し取材して原稿を書き、レイアウトをして印刷屋さんに渡すのだが、なんと言っても広告が集まらなければ新聞が出せないのだから、とにもかくにも広告集めの毎日だった。100のお店や事業所を回っても、せいぜい1件か2件しか広告が集まらない日々だった。

 それでも、人の縁というものは不思議なものだと思うけれど、「こんなに広告が集まらなければ、今度の号で新聞は終わりか!」と、そこまで切羽詰っていた時に飛び込んだ事業所で、1年通しの契約ができたり、期待以上に大きな広告がいただけたりした。以来、まるで弟のように可愛がっていただいている人が何人かできた。兄貴のように慕ってくれる人も生まれた。営業をしたことはなかったが、その基本は人と人とのつながりだと理解できた。

 私が取材で用いたテープは講演会や座談会のものが主だったのは、役所や団体から「記事の内容が違う」とクレームがきた時の対応のためだったが、記事にクレームが来ることは無かった。「何も話すことはない」と高飛車に怒鳴りつけてきた人とは深い信頼で結ばれるようになり、この町にボクシングの世界チャンピオンが誕生した時には、一緒になってその祝勝会を企画してくれた。

 私が生まれ育ったところではないこの町に根を張ることができたのは、ここで素晴らしい人たちに出会えたからだ。人との出会いこそが人を幸せにする。私は本当によい人にめぐり合えたと心から感謝している。
コメント
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