友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

自分の世界へ戻ろう

2008年01月22日 22時49分07秒 | Weblog
 最善を尽くしたつもりでも、人から見れば却ってそれは腹立たしいことだってある。私は近頃、腹立つことが無くなってしまった。むしろ、心の行き違いの悲しい思いが強い。政治のことでも、制度のことでも、腹が立つというより何だか悲しいね、そんな気持ちの方が強くなった。

 愛知万博がまだ決定される以前のことだが、反対派の人々が万博事務局の現地視察の際に、その人たちが乗ったバスの前に立ちふさがり、横になって運行を妨害したことがあった。新聞は「反対派の非常な行為だ」と報じたが、私はこの記者をよく知っていたから余計に、この記事には腹が立った。

 力の無い者が力の有る者に、自分のあるいは自分たちの意思を伝えようとする時、非常な行為のほかにどんな方法があるとこの記者は考えたのか。新聞は力の有る者よりも力の無い者に手を貸すべきではないのか。そもそも新聞の果たしてきた役割は、事実を報道するだけでなく、事実の奥にある問題を解き明かすことのはずだ。

 親しかったその記者が、問題を掘り下げるのではなく、一刀両断に反対派の行為を非常と決め付けたことが腹立たしかった。自治体が市民のためにあるのではなく、力を持った一部の人々のために運営されてしまっている現実に腹が立った。それは故意というよりも知らず知らずのうちに、円滑に運営していくための方策となってしまったがために、甘い蜜となり、それをよいことに意識して集まってくるものがいることに腹が立った。

 けれども今、新聞記者は彼なりに問題を掘り下げた上で、やはり反対派の行為は非常なものだと考えたのかもしれないと思っている。なぜなら実力行使による阻止行動は、テロと同じ構図だと考えているようだから。行動ではなく思考でものごとの解決を図るべきだと主張しているから。

 私もただの一人の市民となり、年老いたせいもあって、何事にも無頓着になりつつある。腹が立つことがだんだんとなくなってきている。私の小さな世界、私だけの世界に舞い戻ろうとしている。子どもの頃のように、何事にも自信が無く、引っ込み思案で、自分だけの世界に引きこもろうとしている。
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