友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

買い損ねたお正月飾り

2008年01月05日 18時07分07秒 | Weblog
 大晦日から3日までの間、何人もの人が我が家にやってきたが、口に出して言う人はいなかった。玄関の正月飾りと鏡餅のウラジロが今年は用意できなかったのに。30日に年賀状を書き終え、スーパーに買い物に行ったのだが既に売り切れていた。正確に言えば、気に入らない正月飾りならまだ残っていたが、買う気にはなれなかった。ウラジロも他の店を探せばあったかもしれないが、その余裕も、そうしてまでも買い求めようという気持ちもなかった。

 本当は気付いていた人は何人かいたのかもしれないが、「お正月飾りはどうしたんですか?」「今年はウラジロがありませんね?」とは聞きにくいものなのだろう。お正月飾りもウラジロも無くても別に気にならないが、ただなんとなく淋しい気がする。それでも玄関に入れば、シンガポールに住む次女のダンナのご両親から送られたランがこぼれんばかりにいけてあり、居間には中国の凧や正月飾りの絵や小物が飾り付けてあるから、お正月の雰囲気がないわけではない。

 30日に家に帰ると、玄関前に見事なミカンが1袋置いてあった。どなたかが持ってきてくれたものだと思うけれど、手紙も電話もないのでお礼もできないでいる。その袋の中にこれまた見事な青々とした葉付きのミカンが6つあった。カミさんが「お鏡さんに丁度いいじゃない」と言うので、鏡餅の上に飾ろうとしたが、鏡餅が小さいために不安定で上に載せられない。仕方ないので、鏡餅の隣に置くとてつもなくヘンな鏡餅になった。

 ところが宴会のための居間の方は何とか鏡餅の上に大きなミカンを飾ることができた。お酒が進み、笑いが絶えない宴たけなわの頃、この鏡餅を見て数人のご婦人たちがドゥーと笑う。何がおかしいのかと思ったら、この鏡餅はこの家を象徴しているというのだ。美しいミカンが小さな鏡餅の上にデンと構えているので、「まるでここの夫婦のようね」と笑いころげているのだ。

 私はまた、本来は鏡餅の上には橙でなければならないのにミカンで代用していることが、「代々が台無し」と笑っているのかと先回りして考えてしまった。古くからの習慣を大切に思いながら、少々実行力に欠ける我が家である。「適当でいいんじゃないか」と言ってしまう自分と私以上に無頓着なカミさんだから、やっていけるのかもしれない。

 娘たち二人も、私たちの血を受け継いでいるのか、小うるさいところがある反面でどこか間が抜けている。「それでいいんだよ、完璧にできるよりも完璧を目指そうとする方が大事なことさ」と言えば、孫娘はすぐに「努力しなければ結果は付いてこないよ」と言い返してきた。最も私の苦手とするところを突いてくる。お手上げの1年となることが目に見えるようだ。
コメント
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