友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

未熟の晩鐘

2008年01月23日 23時15分04秒 | Weblog
 テレビから流れてくる若い歌手の歌を聴くと、歌もうまいけれど、本当にいい詩を作るなと感心する。まだ名前が覚えられないが、たとえばレコード大賞をとったコブクロの歌も、紅白に出ていた何人かの女性シンガーの歌も、心に響いてくる。以前、ここで書いたことのある『哀愁(エレジー)』は、歌っている平井堅の作詞と知って驚いた。

 長女から聞いた話では、私が「この詩はいいね」と言ったものの大半は、歌っている本人が作ったシンガーソングだそうだ。シンガーソングライターは昔からいた。私たちの若い頃はフォークソングが流行っていたけれど、彼らも自ら作詞作曲をしていた。考えてみれば歌が庶民のものになった時から、みんな自分たちで作り上げて歌っていたのではないだろうか。そうしてビートルズはイギリスの港町に留まらず、世界を風靡してしまった。

 中村中が15歳の時に作ったという『友達の詩』を聞いて、私は彼女(?)の足元にも及ばないなと思った。「大切な人は友だちくらいでいい 手をつなぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい」。これが15歳の詩かと感心した。どうしてこんな素敵に、恋の歌や悲しみや喜びの歌を今の若い人たちは作ることができるのだろうか。その感性の鋭さが胸を打つ。

 そんなことを思っていたら、小椋佳の最新アルバムが聞きたくなった。『未熟の晩鐘』の題名どおり、収められた歌はどれも人生の終末を感じさせる。タイトルとなった『未熟の晩鐘』では、「落日の影 否めず 残照か薄暮か」とあり、「悟りより 迷いを 背負う道の果て」「悟りとは 無縁の 未熟を愉しむ」と続く。『もうと言い、まだと思う』では、「もう やるべき事は何もかもやってしまったと言い まだ やりたい事のいくつかは果たしていないと 思う」「命の立ち位置 いつも坂道 もうと思えば下り坂 まだと思えば上り坂」と歌う。

 老年でありながらも、たとえば『自由と孤独』では、「自由のベクトル高く伸ばせば 孤独のベクトルより深み増す 自由と孤独 一枚の金のコインの裏表」と看破する。だからこそ『岩漿(マグマ)』ではどうしようもない心の動きを歌っている。「知性も理性も関わるのはほんの一部 意識の制御の及ばぬもの マグマの技 私の知らないそのマグマも私自身 欲望 情念 衝動など 胸底から休まず私を突き動かすマグマの熱」「そもそも理性や意志の働きでなく どうしようもなく人が恋しくなり マグマの力で人を愛し始める」。

 これも倫理を超えた歌だと推測しているのだが、『美味しい時間』では、「君に逢いたい 逢いたいと 動く心が今嬉しくて」「君に触れたい 触れたいと騒ぐ心が今嬉しくて」「君を讃えたい 讃えたいとはしゃぐ心が今嬉しくて」と吐露している。どうも人は年齢に関係なく、恋する人を追い求めてしまうもののようだ。理性と常識でこの気持ちを制御しているのだろうが、どうしようもなく狭間で揺れ動いてしまう。神に許しを乞うこと自体はおかしなことであっても、そう願わずにいられないのだと思う。
コメント (2)
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