友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

微力だけれど無力ではない

2007年08月09日 22時13分55秒 | Weblog
 8月9日は、長崎に原爆が投下された日です。長崎の高校生が、核の廃絶と世界平和の実現に向けて、1万人署名を行っているそうです。署名なんぞで平和が実現できるものかとおっしゃる人も多いと思います。私も署名活動はマスターベーションだと思ってきました。しかし、じゃー何ができるのかとなると答えが出せなくて、自分には何の力もないと落ち込んできたものです。

 ところが、長崎の高校生の合言葉は「微力だけれど、無力ではない」というものです。ドカーンときました。1960年代から70年代にかけて、反戦運動が盛り上がりました。運動に参加した若者たちは、数からすれば圧倒的に少数でしたが、当の若者たちは「微力だ」とは思っていなかったのです。ところが、どんなに叫んでもジグザグデモをしても、当たり前のことですが何も変りません。彼らは「無力」であることを思い知らされたのです。

 社会に対する鬱憤と自分たちの無力の中で、ある人は開き直って社会的な地位を得、ある人は社会のはみ出し者になっていきました。自分たちに力があると思ってしまったがために、無力とは全く無縁だったはずなのに、何も変らない現実を前に、どんどん無力感に押しつぶされ、社会に対して何かをするという気力も失ってしったのです。

 でも、考えてみれば、高校生の言うとおりです。一人ひとりの人間は全く微力です。微力な人間がどんなに多く集まっても、たかが知れています。それでも、無力ではありません。しかし、60年代から70年代の若者たちは、力がなければ無力と規定してしまっていたのです。「微力だけれど、無力ではない」。なんと素晴らしい言葉かと思いました。

 大宇宙から見れば、私たちの存在など小さなものです。そんな大宇宙の歴史の中の今を私たちは生きているのですから、個人が直面している問題などたいしたことではないし、意味も無いことです。人類的な課題、核や戦争や食糧危機や公害やなどなどの問題も大宇宙では小さなことに過ぎないかもしれません。

 しかし、私は今に生きています。100年前のことは知識で知っているだけです。これから先の100年は、今の知識で憂いているにすぎません。でも、今生きているのは私です。100年前にいませんし、100年後もいません。私は社会のことに関心を持っていますが、同時に私の個人的なことにも深い関心があります。わたしの友人もカミさんがいながら、もっとも大事な女友だちの一挙手一投足に振り回されています。振り回されているというより、女友だちとのやり取りに満足している様子です。いずれにしても、人の関心は突き詰めれば個人的です。

 確かに人の存在はまことに小さきものかもしれませんが、その小さき私から見ることが大事だと思います。愛することも愛されたいと思うことも、今を生きている自分の欲することです。そこが人間の人間たるゆえんだと私は思っています。
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