友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

お墓参り

2007年08月12日 23時28分25秒 | Weblog
 お墓参りに行ってきた。墓石に手を合わせて、うやうやしく頭を下げるけれど、それは儀式でしかない。私がお墓に参るのは、血がつながって今生きている者の共通の元を見せることと、親睦のためだ。たくさんの人がお墓参りに来ていたが、死んでいった人の魂がその墓石に宿っていると思っている人は少ないと私は思っている。我が家は禅宗だが、真宗では墓石も設けないという。『千の風になって』ではないけれど、お墓に死んだ人々がいる、おっと失礼、死んだ人の魂が宿っているとは思えない。

 死んでしまうとどうなるのか、その先のことはわからないが、この地上にたくさんの命が生まれ、そして朽ちていったことは確かだ。全て、生を受けたものには魂があるとしても、それはにぎやかなことだとくらいにしか思えない。余りににぎやか過ぎて困るのではないかとさえ思ってしまう。酸素と水素がぶつかって水となり、水もまた酸素と水素に戻っていくように、ものは生まれては消えていくのだろう。

 人は考える「力」を与えられた。だから、死後の世界までもいろいろと考える。考えるけれど、それは想像でしかない。4次元の世界のほかに、5次元の世界があることが、理論的には証明されているようだ。これを実験で証明しようとする試みも行われるという。すると、宇宙そのものも生まれては消滅するものなのかもしれない。

 人の感情というか、人と人の関係とか、人と人が作り出している社会との関係は、ほとんど進歩が無い。4千年も前の、昔話が今なお、人の心をとらえるのも、感情に共鳴するからであり、理解できるからだ。人間は科学を大いに進歩させた。その進歩のおかげで、便利になった。時間も短縮された。便利になり、時間も短縮されて、人は進歩したのか?幸せを増幅できたのか?

 墓石を見ると、父の弟は昭和19年9月に亡くなっている。父は明治生まれだから、招集はされなかったが、大正3年生まれのカミさんの父親は、30歳かそれに近い時に召集されて、「国の防衛に備えられた」と言っていた。昭和5年生まれの姉は、女子高等学校では勉強よりも竹ヤリでも軍事訓練ばかりしていたそうだ。父は「日本は負ける」と言っていたと姉から聞いた。叔父が戦死したために、兄が家業の材木屋を継いだ。父は自分の身代わりとなった兄に対し、死ぬまで負い目があったように思う。

 私にとっては反面教師だった祖父も、よく映画に連れて行ってくれた祖母も、父も母も兄も、亡くなって何十年にもなるが、どこかで生きていると考えたことは一度も無いし、魂が見守っていると思ったことも一度も無い。死んだ先のことまではわからないし、わからなくてもいい。今、この時間に生きていることで充分に満足している。

 だから、私が死んでも葬式は要らない。お墓も要らない。何もしなくてもいい。わざわざ誰かに知らせる必要も無い。私が年賀状を送っている人に、「父は亡くなりました」とだけ書いて送っておいてくれればそれでいい。
コメント (2)
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