友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

どうでも良いことにこだわる

2007年08月23日 20時26分29秒 | Weblog
 蝶の幼虫はまださなぎになっていない。バリバリと音を立てて、ミカンの葉を食べている。周りが静かなら、本当にせわしなく葉を食べる音がよく聞こえる。一息に食べ、そしてしばらくじっとしている。音には敏感に反応する。眼もみえるようで、近づくとピタリと動かなくなる。緑色の保護色は、じっくり観察しないとどこにいるのかわからないほど巧妙だ。枝を移動する速度は思ったよりも早い。1時間前はこの枝の先の葉を食べていたから、きっとその辺りにいるだろうと思ってみるといない時がある。前にいた枝からかなり離れた枝に移っているのだ。

 食べたフンはお尻からムクムクと排出されるが、下に敷いた新聞紙に落ちてきた時にはもう、べたべたしたものではなく、乾燥していてちょっと固い。実によく食べるから実によくフンも出す。臭いはないような気がする。さて、今晩こそは孵化してくれるかと楽しみにしているのだが、結果についてはまた、明日報告する。

 こんなどうでも良いことにこだわることはないのだけれど、こういうのは性分のように思う。小学校の時に、いつも夏になると遊んでいた川のことが気になったことがあった。それで急に、上流はどうなっているのか見てきたくなった。自転車に乗って、川の堤防を行けば上流へいけるだろうと考え、一人で出かけていった。堤防の道はしばらく続いたが、やがて途切れた。仕方ないから、その日はそれで引き返し、次の日にその地点から上を目指して自転車を走らせた。堤防の道が無いということは、川に沿って走ることができないので、走っているうちにどこを走っているのかわからなくなる。

 お百姓さんに道を尋ねて代わりにウリをもらった。のどが渇いていたから食べればよかったのに、そのまま家に持って帰った。何度か繰り返して、川の上流を目指したが、結局行き着くことはできなかった。今のように道は舗装されていなかったし、自転車も快適なものではなかったから、走ることは大変だった。それに地図がなかったので、多分こちらだろうとカンが頼りだった。人に尋ねることも滅多にしなかった。絶対しなければならないことではなかったので、適当に走り、今日はここまでと引き返した。川の上流を探すはずで出かけていたのに、自転車で出かけることが目的になっていたのだ。

 高校3年生の時も、父親が佐渡島からくれた絵葉書のことがひっかかって、どうしても日本海が見たくなった。父親がくれた絵葉書には「日本海の海の色は太平洋の海の色と違い、黒い」、そんなことが書かれていた。その絵葉書がいつのものだった覚えていないが、日本海の海の色が黒いということが、長い間気になっていた。高校の3年の夏は大学入試に向けた補習がみっちり組まれていた。高校の予備校化に反対し、学校新聞とは違う新聞まで作って配布していたのに、補習を受けるのは卑怯者のように思い、気になっていた日本海を見てこようと、一人で出かけた。

 勉強になることか、実用的なことにこだわっていれば、また少し人生が変わっていたかもしれない。いつも子どもたちに、「今ある自分は過去の自分が選択した結果なんだよ」と言ってきた。いいことも悪いことも、人はいつも自分が決めてきている。「そんなことはない。決められた」と言う人もいるかもしれないが、決められたことを受け入れたのは自分だ。本当にイヤならば、違うことを決めればいい。どうでもいいようなこともまた振り返ってみれば結構楽しいことが多い。
コメント
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