わたしのブログの存在をリアル人は知っているのに、それでもブログを「書く」ということはどういうことか。
お天気の話や時事ネタ、スポーツ、推し活を書いても、書く方は面白くない。
読む方はもっと面白くない。
まだブログを始めていなかった頃、母に連れられ参加したテーブルマナー講習会で、初めて顔を合わせた女性のブログを知った。
年齢はわたしより10歳弱ぐらい歳下?
その人はやがてわたしのブログにも訪れ、やりとりをしたことがある。
わたしの憧れの暮らしをされていた。
華美なものに囲まれ、日々、高級素材を駆使したグルメな食卓、ティータイム、、、マリーアントワネット的なゴージャスライフ。
でも、読むのをやめた。
おそらく、さらっと読む分には楽しいが、深く読むと、自分の信条との違いが浮き彫りにされ、心地よくなくなるからだろう。
なんでも、表面的に、さらっと、が無難。
決して否定するのではなく、目の保養になる上澄液だけを養分にいただくとよいのではないだろうか。
自分と他人との違いを見つけて、刺激材料にするのもよし、自分の道を再確認し、肯定するのもよし。
あまり深く入り込むと必ず嫌な面や受け入れられないところが見えてくる。
長所短所、どちらも含めて人は形成されている。
追求するのは、ほどほどがよい。
これは、他人に対してだけでなく、自分に対してでもある。
腹八分目。足るを知る。
ブログに話を戻す。
ものすごく近い関係の超・身内(わたしと同じ学年)がいて、ブログを書いていた。
わたしのパソコンやインターネット関係はすべて彼女の手解きから始まっている。
お互いのブログの存在は知っている。
具体的には、蝶ブログを彼女は知っているが(ふとしたことで、わかったそうだ)、わたしは彼女のブログ名を知らなかった。
あえて知ろうとはしなかった。
彼女は日々、あったことを書き連ねているので、それを知ることはお互い、色々まずいから。
彼女はわたしの母と同居していたこともあり、わたしは実家の生活にはあまり首を突っ込みたくなかった。
その後の話はあるのだが、まだ書く気持ちにはならない。
わたしの中で、完全に消化できたことなら書くが。
一生、書かないことは、山のようにある。
捏造や嘘は決して書かないが(勘違いや覚え間違いはあるかも)、書かないことも結構ある。
こころの奥にしまって鍵をかけていることは表には出てこない。
時効が来たら出るのかも知れないが、それはわからない。
話はまたまた逸れる。
趣味分野のお遊びのことは、どんどんブログに書いて発散している。
わたしの趣味はブログでもあるし。
小説を書くという手もあるのだが、虚実とり混ぜるのが、なんだか作り物には気が乗らない。
ドキュメンタリーが好きな所以だろう。
小説を読むより、ウィキペディアで事実を調べていって、自分の頭の中で、当時(歴史上)の事実ストーリーをつなげていくが面白い。
史実上の人物を扱う小説は作者のフィルターがかかっているので、その色に影響されたくないなら、何人も別の作者の手による人物小説を読むのが良いかも。
あちこち情報を調べて、それを元に自分が組み立てるため、自分のフィルターがかかる。
意外に楽しい。
ChatGPTは、要らないかも?
いや、もっと充実するかも?
自分で調べて組み立てるところに妙味がある。
とかなんとか、今、有吉佐和子の古い作品を読んでいる。
昔の仮名遣いが難解。
それを見た次女が言っていた。
昔の単行本が嫌いな理由は、字が小さいこと、なんだそうだ。
あんなに若い次女でさえ字が小さく感じるなら、わたしはどうなのか。
わたしは逆老眼で、メガネを外すと小さい字もオッケーなのだ。
近距離以外は、ぼけぼけぼんやりであまり見えないが。
なので、パソコンよりスマホのほうが、見えやすい。
ちなみに、わたしのことをスマホ狂のように言う人(Aさん)がいるが、無視している。
話はまたまた変わるが、
その人こそ、わたしからすると、すごく恥ずかしい。
先日、コンビニでおにぎりを買った時、その人はスマホで払おうとした。
なんと言ってスマホを出したか?
「おサイフケイタイで」
これには店員さんが、は?という顔。
「おサイフケイタイ?」
と復唱されていた。
わたしは、ひっくり返りそうになった。
それじゃわからない。
電車の改札口をお金しか入れてないサイフをタッチして入ろうとするようなもの。
かざすバーコードなりQRコードなりを画面に出して準備しなければならない。
後ろにも人は並んでいる。
政府広告である、コンビニレジ前の高齢女性が支払いに戸惑っていると、後ろのコワ面の兄ちゃんが「大丈夫だよー」と、優しく待ってくれる、あれ。
人は見かけによらないし、そんなにビクビクオドオドしなくてもいいんだよ、
という、あれ。
あのラップ仕立ての広告が頭をよぎった。
が、、、
Aさんは日頃からわたしに「スマホばかりいじっている」と非難めいたことを言う割に、その一方で、自分もスマホでチャレンジしてみようという気はあるようだ。
が、気持ちはあっても、あまりにも人任せ。
前もLINEがうまく繋がらず、待ち合わせリアルタイム連絡が取れないで困った時があった。
そのLINE復旧の時の提案が、なんと、携帯電話会社の店舗に出向いて、やってもらおう、というものだった。
わたしは、これにも、のけ反った。
違うでしょう?
解決方法、そんな携帯電話会社じゃないでしょう?
まずは原因や対策を、googleなどで検索してからでしょう?
あまりにも丸投げしようとする姿勢に驚いた。
わたしが調べている間も、まったく自分の携帯に触れようともしない。
まだあ?と、何もせず問うてくる。待ちの構え。
しかも、原因はAさん側にあったにもかかわらず、まるでわたしが犯人かのような悪びれない態度。
あれには参った、懲りた。
そういう意識なので、コンビニレジでも平気で「おサイフ携帯で」などと言ってのける。
その次の、d払いやPayPay、楽天ペイなどの画面を全く用意していない、その神経たるや、強者である。
前に支払えた店もあったから、とご本人の弁。
ではあるが、、、せめて、かざす画面は用意していただきたい。
不慣れなことも少しずつチャレンジするのは結構な試みである。
子供に設定してもらったくせに自慢するよりは、ずっとマシ。
だが、、、元々どんくさく、同じぐらいわたしも不慣れで不得意なのに、それでも頑張って使いたい箇所は使いたいと努力しているのに、人に丸投げするのはやめてほしい。
しかも、わたしを、一日中スマホをいじってゲーム狂でもあるかのごとく言うのはどうかと。(ゲームは嫌い)
やはり頭の柔軟性や回転の良さは年齢にもよるが、生まれつきのものもある。
わたしは、家族の中ではとんでもないダントツ劣等生であるが、一歩外に出ると、わたしがイライラする場面にも遭遇する。
もちろん、イライラされる場面はかなりある。
人には優しくしないといけない。
へんに丸投げのくせに(自分でできないくせに)、マウント取りたがる(優越感に浸りたがる)人がいるが、疲れる。
家族メンバーは厳しいが、マウントを取りたがるキャラクターは一人もいない。
童話「幸せの青い鳥」の青い鳥は家にいるパターンのようだ。