スマホ画面にチラチラ出て来る広告。
目障りだが仕方ない。
なかに、富裕層とは?みたいなキャッチーな文字が目に入った。
富裕層にも、超富裕層と、富裕層と、準富裕層があるそうな。
世界分布をグラフなどで表示してあった。
レギュラー、準レギュラーみたいなかんじか。
その下には「アッパーマス」「マス」と続き、ボリュームゾーンを形成し、その下には、また云々かんぬん。
純資産の額で分けられている。
収入は低くないが忙し過ぎて使えないため資産額が跳ね上がる職種もある。
まあそれはそれとして。
面白かったのは、富裕層と、非富裕層のライフスタイルの違い。
余暇の過ごし方。
富裕層は、祈り、ボランティア活動、社交、運動、となっていて、非富裕層は、TV鑑賞、昼寝、休憩、なにもしない、、、とのこと。
これ、笑った。
監視カメラで撮影された?
わたしは、TV大好き、昼寝大好き、なにもしないことが生活信条で、いつも休憩している。
ボランティア活動は大大大苦手。
なんらかの見返りを期待してしまう。
祈りは苦しい時の神頼み。
お賽銭はいつも横で家族が、自分の財布からわたしの分を出してくれる。
神様にしてみると2人分ゲットだから収支としては悪くないはずだ。
わたしがまだ自分のポケットにこっそり入れないだけマシ。
たったひとつだけの救いは、趣味が社交ダンスであること。
しかし、これもあと5年出来たら良いほう。
ではあるものの、わたしの、薄ぼんやりした計画では、社交ダンスを卒業した後は、祈りに移行しようかと思っている。
だが、お遍路さんや、四国巡礼のバスツアーとかではなく。
もう四十八箇所、ペタっとお寺のハンコをずらずら押してもらっているものは、姑の分も、姑の姑の分も、ある。
ではあるものの、あれは自分で集めてこそ意味がある。
わたし独自の分は自分でハンコ集めに回らなければならないのか?
わたし、そういうの、大大の苦手。
「姑」や「姑の姑」のもので代用しよう。
ご利益がなくても事前、自己承諾済み。
ルーツ現地に滞在して、ファミリーヒストリー情報収集的な動きをしそうだ。
決してお遍路さんではない。
自分のルーツを探ればよいのだろうけれど、自分の方は調べる資料が手元にあまりない。
これといった資料はないが生き証人として、親戚がたくさん近隣に住んで現存している。
その点、夫側なら、色んなものがあって楽しい。
だが、代々、みなさん、隠居したらそれらを楽しみに取っておこうと本格的に手をつけなかったが、実際、隠居すると忙しくて、それどころではないようだ。
バトンリレー、順送りとなっている。
わたしもおそらく実際にその時期になると、目の前のことに時間や気力を奪われて、遠い過去のことなど二の次になりそうだ。
そういえば、先日、土蔵の地面にいきなり唐突にダンボール箱が置かれているのを発見した。
何かしらと持ち上げようとすると、ずしっと重い。
そっと段ボール箱の蓋を開けると、ぎっしり昔のアルバム。
明治生まれのおじいさんの学生時代のもの。
まあなんと美しい女学生さんが、プロマイドのように映っていた。
モノクロで風情あるが、あれ、誰?
おじいさんの好きだった女子学生?まさか?
時間もなく、めんどくささもあり、そのままにしておいた。
まさに、玉手箱。
煙とともに出てきた明治〜大正のお嬢さんたち。
(アラジンの魔法のランプのような召使は出てこないものの)
着物姿ではなく制服がかえって新鮮だった。
(制服は、母世代だったか?)
しかし、本格的に隠居してしまうと、過去のものばかりをほじくり出しても何にも面白くないかも。
まだ活動中の今だからこそ、昔のものに興味があるのだろう。
活力を得る原動力やヒントが詰まっている。
もう自分自身に動きがなくなったら、祈りに移行するかも。
エネルギーを発揮する先がないから、自分にチャージ。
これはお金のある無しには関係がない。
自分の行き先を整備するためだ。
成仏した暁に棲む場所を確立しておかなければ。
というか、成仏したらどこに棲んでも良いのでは。
「無」の行き場は必要ないのでは?
綺麗さっぱり魂が未練を残さず天国に行けますように、と、毎日お祈りする?
ではあるが、姑はそうやって毎日、祈りの時間を設けていたが、はてさて、自分の思うような最期を迎えることが出来たかどうか。
還暦過ぎたら自分の生命を自分の力で閉じてはいけない、と、ある文芸人(裕さん)がブログで言っていた。
自己チューは、やはりよくない。
役に立たなくてもいいから、足手まといにはならないよう、迷惑をかけないよう、天国まで楽しく暮らしたい、、、が、それはあくまでも理想。
素晴らしいおばあさんやおじいさんたちを見てきても、最後の最後まで理想通りにはいかない。
現実はまた別だ。