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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ステキな霊園広告

2021-05-08 | 人生
ビル・ゲイツが離婚した。
夫婦として今後の成長が見込めないかららしい。
潔い。
しかし、そういう成長の見込めない夫婦、山のようにいるだろう。
おちおち、老いぼれてもいられない。
相手がビル・ゲイツなら、まあねえ、、、そういう人と結婚したわけだから、、、。
やはりカップルには、バランスというものがある。
結婚に求めるものが違っても離婚しない夫婦は、わんさかいる。
夫婦で下山ということもある。

「おい、そろそろ行くぞ」
「あなた、一人で下山してね、わたしはまだ風景を眺めていたいから」
なんていうのもある。
「あなた、とっとと下山してよ」
「いや、わしはまだまだだ」
と、タイミングが合わないことは、世の常。
面倒だから、別の山に別々に登る、とか、一人は登山、一人はケーブルカー、なんていうのも。

ちなみに、なんにも悪いことをしていないおじいさんに、やたらキツイ口調でおじいさんに当たる、おばあさんをよく街で見かけるが、積年の怨みなんだろう。

憎しみ合うぐらいなら別れたらよいと思うが、世の中、なかなか理想と現実は一致しないことが多い。
お互い傷つけ合うなら、距離を置く。
お互いのため。
労わりあう、、、なんてのは理想である。
その心境に達するには、まだまだ海を越え山を越え、、、自分が弱り切らなければ到達しそうもない。

今日、LINEで長女が見せてくれた広告、どこのステキなリゾート地かと思いきや、、、
今春、ニューオープンのお墓だった。
何人様でもオッケーだそうな。
まるで北海道縦断ガーデンツアーのような夢のあるネーミング、キャッチコピーに、美しい風景。
しかも、立地も至便。
ぜひ、行きたい気になった。
わたしは婚家の墓にとりあえずは入る予定だが、離婚したらぜひ、この爽やかなお墓に入りたい。
が、今はまだ具体的な見通しは見えない。未定。
そこで、まだ墓を持っていない長女一家に、半世紀後にまだこの墓地経営が破綻してなかったら、ぜひ入ったら?と勧めておいた。

婚家では宗教上、嫁に出た娘や、長男ではない分家した子供は、同じ墓に入れないことになっている。
直系のみ。
いかにも直系先祖供養を柱にしている決まりごとである。
夭折した子供は同じところに入ってもオッケーらしい。
直系以外は、独立して墓を確保しなければならないらしいが、昨今では墓にこだわらない風潮も出始めている。
直系の子孫が墓じまいするケースもあるし、何かとたいへんだ。

離婚したら、婚家の墓には入れないとすると、わたしは墓なしでもよい。
どうせ、自分はわからないのだから。
遺言としては、、、なるべく遺族の手がかからないように対処していただけたら、それでよし。
間違っても、電車の荷物棚に遺骨を置き去りにして電鉄会社に迷惑をかけないように。
空から散骨も、海に散骨も、自分の骨をあまり撒き散らしたくない。
不用品は有料、無料、分別ゴミで出す時代。
わたしの骨など誰も要らないだろう。
骨や墓などのモノとして遺らなくてもいいから、記憶や思い出の一端として、こころの片隅にしまい、ふとした時に断片に触れてくれたらよい。
と、綺麗事を書いてみた。

わたしの宗教観はまだ完成されていない道途中である。
にもかかわらず、宗教行事を行う立場にあり、こころで納得しないまま、慣習に従っている。
地元の葬儀屋さん、セレモニーホールの担当の若いおにいさんは、実に頼りになり、なんでも知っている。
なので、彼のアドバイスに従っていれば、ほぼ間違いない。
仮に細かい慣習やルールを完璧にこなさなくても、わたしはその土地に住んでいないという逃げ道がある。
そうやって宗教色が濃かったものが薄まり分散されていくのだろうか。

そう言いながら、荘厳な歴史的な大規模霊地を訪れると、こころが洗われるような気になる。
無意識に刷り込まれたものが誘引されているのだろう。

あまり、細かく詰めずに、大まかな路線で、踏み外さず行けばどうにかなりそうだ。
なんだ、結局、従来通りか。
断捨離をしようとして、押入れのものを全て出し、きちんと箱に詰め替えてまた押入れに入れ直すようなものか。
しても、しなくても、なんにも変わらないことに時間を割いて、あまりある持ち時間を減らしているのだろう。
とはいえ、一見、無駄な作業、無駄な時間だが、ぼんやりしていたものが、だんだんハッキリしてくる効果がある。
人生には無駄はないと思っている。
無駄時間こそ、大切なことを発見する貴重な時間だ。

結局、一生かかってなにをしてたの?である。
が、何にもしなくてもいいじゃないかと思う。
偉人になりたい?
先駆者、開拓者になりたい?
自分が出来ることをするなら、駅前で毎日ゴミ拾い清掃ボランティアでもかなり素晴らしい。

、、、と、話が逸れに逸れてブログ〆に収拾がつかなくなり、困っている。





時間を無駄に使う贅沢

2021-05-08 | わたし
テレビっ子になっている。
ついでに、ラジオっ子にもなっている。
さらについでに、インターネットでウィンドウ・ショッピング。
つまり、買わないで見るだけ。
その他にも、メールでお知らせがあったT-POINTの期限切れポイントをチェックするため、Yahoo!からログインするのにやたら手間取り、あきらめかけた頃にやっと入れた、、、。
そうしていたら、あっという間に1日が過ぎてしまった。
確実にボケそうな近未来の影がヒタヒタと忍び寄る。

菅総理の緊急事態宣言延長の生記者会見から始まり、ニュース、人生レシピ(ちょこっと)、関西熱視線、ニュース9、その後に続く、今夜22時に見た、NHKドラマ「半径5メートル」。
初めて見たが、ドラマは第2回目だった。
子育てが終了した50歳の妻と、同世代、編集者の夫。
夫婦別寝室、○ックスレスになって久しい夫婦。
お互いが向き合う。
50歳で子宮の病気(癌)になり、手術で子宮を取ることになる妻。
「子宮を取ったからといって女性ではなくなるわけではありませんから」と主治医に言われる。
ちなみに、かつてわたしは、閉経した女性は女性じゃないという呪縛にとらわれていたが、たんなる思い込みだった。

ドラマの若いほうのカップルも、なかなかかわいかった。
恋愛の経験不足っぷりが、コミカルで面白い。

で。
昨夜、見た、これまたNHKテレビの「クローズアップ現代」は深刻な重いテーマだった。
「子供が親を捨ててもいいか?」
虐待されて育てられた子供が、高齢になった親の介護をする立場になっても、憎しみが消えない。

わたしがつい最近、自分のブログに「わたしは親に叱られて縮こまって育った」と書いた。
さらに、「半世紀以上前のことを引きずり、親に責任を押し付けるのは間違っている。性格を修正するのには余りある時間が経っているのだから、自己責任だ」とも付け加えた。
しかし、心理カウンセラーによると、自己責任でもあるが、多少は親の責任にしてもよいようだ。
だが、そうすると、わたしも子供たちに責められそうだ。
完璧とは程遠い、適当な母親だったから。
親を責めると、自分も責められる。
順送り。
虐待されて育った子供は、自分の子供にも虐待するらしい。
わたしは虐待されたわけではないので、子供に手を挙げたことは一度もない。
むしろ、自分がされて嫌だったことを、子供にはしたくないと思った。
だから、出来が悪いだのアホだの、絶対に子供には言わなかったし、それ以前にそんなことは思わなかった。
能力基準は自分だったので、ほとんどの人は出来が良いように感じる。
しかし、ちょっと手を抜き過ぎて放任主義に走り過ぎ、ややもするとネグレクト一歩前だったかも知れない。
が、子供たちは幸運にも病気も怪我もせず、みんな大きくなった。

放任はわたしの親がそうだったから、これまた順送りかも知れない。
放任主義の割にはレールを敷いていたように思うが。
大きな大きな籠の中の鳥だったかも知れない。
籠を取り去っても、そこから動かず羽ばたかなかったのは、自己責任か、あるいは親による洗脳が解けなかったからか。
未だに洗脳は解けていない部分がしっかりあり、けしからん先入観やとても感じ悪い意識(ホンネ)を持っている。
子供には黒いホンネは言えても娘婿の前では言えない。
自分でも良くない意識、考え、思いだと自覚しているからだ。
わたしが子供にはけしからんことを言うとしても、子供たちは反面教師として学んでくれることだろう。
わたしが親の言動を見聞きして、反面教師にしたように。
洗脳されている部分と、反面教師にしている部分がある。
それらはわたしの芯を形成しているように思う。

親のわたしに影響を受けた子供たちも同じくそうかも知れないし、子供と孫の親子関係もそうかも知れない。
順送り。
だとすると、良い繰り返しは、好循環を生み出す。
虐待は虐待を生み出すように、プラスはプラスを生み出す。
わたしは凡人なので、可もなく不可もなく、平凡に何事もなく平穏無事が順送りされたらよいと考える。

親を捨てたいほど親は憎んでいない。
健康に生み育ててくれて感謝している。
親にはいささか欠点も不満もあるが、想定範囲内である。
わざわざ捨てなくても天寿を全うする年齢に達すると、引き止めても勝手にあの世に行く。
なので、わたしは別に親を捨てたいという思いは持っていない。
まともに、可もなく不可もなく育てられたようだ。

親を恨む子供を取り上げたテレビ番組を見て、ぜひこのテーマを書きたいと思ったが、書いてみると、あらら、、、蓋を開けると、自分にはなんにもなかった。
よかった、、、。