ビル・ゲイツが離婚した。
夫婦として今後の成長が見込めないかららしい。
潔い。
しかし、そういう成長の見込めない夫婦、山のようにいるだろう。
おちおち、老いぼれてもいられない。
相手がビル・ゲイツなら、まあねえ、、、そういう人と結婚したわけだから、、、。
やはりカップルには、バランスというものがある。
結婚に求めるものが違っても離婚しない夫婦は、わんさかいる。
夫婦で下山ということもある。
「おい、そろそろ行くぞ」
「あなた、一人で下山してね、わたしはまだ風景を眺めていたいから」
なんていうのもある。
「あなた、とっとと下山してよ」
「いや、わしはまだまだだ」
と、タイミングが合わないことは、世の常。
面倒だから、別の山に別々に登る、とか、一人は登山、一人はケーブルカー、なんていうのも。
ちなみに、なんにも悪いことをしていないおじいさんに、やたらキツイ口調でおじいさんに当たる、おばあさんをよく街で見かけるが、積年の怨みなんだろう。
憎しみ合うぐらいなら別れたらよいと思うが、世の中、なかなか理想と現実は一致しないことが多い。
お互い傷つけ合うなら、距離を置く。
お互いのため。
労わりあう、、、なんてのは理想である。
その心境に達するには、まだまだ海を越え山を越え、、、自分が弱り切らなければ到達しそうもない。
今日、LINEで長女が見せてくれた広告、どこのステキなリゾート地かと思いきや、、、
今春、ニューオープンのお墓だった。
何人様でもオッケーだそうな。
まるで北海道縦断ガーデンツアーのような夢のあるネーミング、キャッチコピーに、美しい風景。
しかも、立地も至便。
ぜひ、行きたい気になった。
わたしは婚家の墓にとりあえずは入る予定だが、離婚したらぜひ、この爽やかなお墓に入りたい。
が、今はまだ具体的な見通しは見えない。未定。
そこで、まだ墓を持っていない長女一家に、半世紀後にまだこの墓地経営が破綻してなかったら、ぜひ入ったら?と勧めておいた。
婚家では宗教上、嫁に出た娘や、長男ではない分家した子供は、同じ墓に入れないことになっている。
直系のみ。
いかにも直系先祖供養を柱にしている決まりごとである。
夭折した子供は同じところに入ってもオッケーらしい。
直系以外は、独立して墓を確保しなければならないらしいが、昨今では墓にこだわらない風潮も出始めている。
直系の子孫が墓じまいするケースもあるし、何かとたいへんだ。
離婚したら、婚家の墓には入れないとすると、わたしは墓なしでもよい。
どうせ、自分はわからないのだから。
遺言としては、、、なるべく遺族の手がかからないように対処していただけたら、それでよし。
間違っても、電車の荷物棚に遺骨を置き去りにして電鉄会社に迷惑をかけないように。
空から散骨も、海に散骨も、自分の骨をあまり撒き散らしたくない。
不用品は有料、無料、分別ゴミで出す時代。
わたしの骨など誰も要らないだろう。
骨や墓などのモノとして遺らなくてもいいから、記憶や思い出の一端として、こころの片隅にしまい、ふとした時に断片に触れてくれたらよい。
と、綺麗事を書いてみた。
わたしの宗教観はまだ完成されていない道途中である。
にもかかわらず、宗教行事を行う立場にあり、こころで納得しないまま、慣習に従っている。
地元の葬儀屋さん、セレモニーホールの担当の若いおにいさんは、実に頼りになり、なんでも知っている。
なので、彼のアドバイスに従っていれば、ほぼ間違いない。
仮に細かい慣習やルールを完璧にこなさなくても、わたしはその土地に住んでいないという逃げ道がある。
そうやって宗教色が濃かったものが薄まり分散されていくのだろうか。
そう言いながら、荘厳な歴史的な大規模霊地を訪れると、こころが洗われるような気になる。
無意識に刷り込まれたものが誘引されているのだろう。
あまり、細かく詰めずに、大まかな路線で、踏み外さず行けばどうにかなりそうだ。
なんだ、結局、従来通りか。
断捨離をしようとして、押入れのものを全て出し、きちんと箱に詰め替えてまた押入れに入れ直すようなものか。
しても、しなくても、なんにも変わらないことに時間を割いて、あまりある持ち時間を減らしているのだろう。
とはいえ、一見、無駄な作業、無駄な時間だが、ぼんやりしていたものが、だんだんハッキリしてくる効果がある。
人生には無駄はないと思っている。
無駄時間こそ、大切なことを発見する貴重な時間だ。
結局、一生かかってなにをしてたの?である。
が、何にもしなくてもいいじゃないかと思う。
偉人になりたい?
先駆者、開拓者になりたい?
自分が出来ることをするなら、駅前で毎日ゴミ拾い清掃ボランティアでもかなり素晴らしい。
、、、と、話が逸れに逸れてブログ〆に収拾がつかなくなり、困っている。