蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

政府には大いに失望した

2021-05-27 | 時事&世の中
コロナ渦におけるオリンピック開催は、わたしは絶対に反対である。
この時期、他国で開催されたとしてもどうかと思うのに、よりによって自国で。
スポーツ文化は、人の犠牲や、生活を困窮させてまで死守すべきなのか?
芸術家や、夕鶴のおツウさんが我が身を削って作品を造るのは、わかる。
当事者のエネルギーを自分の身から出している。補給している。

その補給元が他人からだったとしたら?
例えば、おツウさんが、悲鳴をあげる親友や親戚の羽根を抜いて夜な夜なはたを織っていたとしたら?
自国民の、忍耐や生活を犠牲にしてまで開催するものだろうか?
しかも他国の人から、「日本人は犠牲には強い」なんて、犠牲を強いられてまで。
日本人に犠牲エールを送るのなら、じゃあ、おたくさまの国で開催なさったら?
日本への一般人入国をストップさせて、自国を守ろうという超大国もあるのに。

なぜ、反対なのか?
開催されないと寂しい、、、なんて、そんな子供のような感想の方もおられるが、、、
寂しい??!!
自分の子供の運動会さえ開催されずに辛抱しているのに。
自分の幸せを犠牲にしてまで他人の幸せを応援できるか?

なぜ開催を反対するのか、その理由を考えてみてほしい。
お金ではない。
まだ、コロナワクチンも遅遅で高齢者にさえ接種が十分行き渡ったっていない現状。
飲食店や商業施設は閉まり、行政施設も利用出来ない。
市民もさることながら、飲食業の人々は先の見えない深刻な犠牲を強いられている。
コロナのために、我慢を強制され、反対しているのだ。
自国民に犠牲を強要するその一方で、人流活性化の極め付けである国際イベント開催、、、。

人流を抑えるために我慢に我慢を重ね辛抱していたのに、また緊急事態宣言延長で我慢も延長。
限界に達しそうだ。
こんな状態でなぜオリンピック???
コロナのこと、自分の身に起きているリアルな犠牲のことを考えたことがあるのだろうか。

確かに楽しいことは無いより有る方がよい。
だが、自分が辛抱するのではなく、他人を辛抱させ、他人に犠牲を強いるようなことを、自分の楽しみのために進めるなんて、わたしには理解できない。

全ての人が納得して丸く収まることなどない。
にしても、、、
オリンピック違約金?
こんなコロナ事態が起きるとは世界中の誰もが想像できなかった。
コロナ渦に自国で開催したくないというのは、契約違反なのか?
人道的にはどうなのか?
開催によるコロナ拡大の対策費は?

ソフトバンクの孫さんも反対を表明している。
政治家は反対と言えない縛りがあるのだろうか。
頼りにしていた小池都知事でさえ、安心安全の開催に向けて全力で頑張ります、などと淡々と同じ言葉を繰り返す。
あれだけステイホームを都民に訴えていた人が。
コロナのための犠牲なら仕方ないにしても、コロナ渦オリンピックのために犠牲を強いられている。
怒り心頭である。
国民の声を政治や政策に反映させるのが政府や政治家ではないのか。
誰のためのオリンピックなのか?
誰が決めるのか?

国民への説明は、開催を前提とした、「安全安心の開催を、、、」と機械的に言うだけ。
反対意見に対する説明は無し。
政治には全く無知無関心なわたしだが、今回ばかりは、反対を唱える野党の声は、身体と心に染み渡る。

感情論だけでなく、開催するメリットとデメリットを数値、データ実数、経済指数、予想指数、医療を含め予想社会図をきちんと理論的に納得できるように示してくれたらまだしも、開催までに2ヶ月を切るこの秒読み段階では不可能。
押し切るか、断念するかが舵取りの重要な判断であるが、いずれにせよ叩かれるのは目に見えている。
歴史を振り返り、どう評価されるか、であるが、歴史のそのリアルタイムの当事者、国民にとっては、後に評価なり、社会的意義なりを説かれても自分の生活は返ってこない。
50年後に国に補償や謝罪されている様々な国家的被害者の皆さんは大勢いて、彼らの失われた人生は戻って来ない、、、。
当時の責任者はこの世にいないことが多い。

「責任者、出てこい!」
と、肩をいからせ揺らしながら発する、昭和のぼやき漫才、人生幸朗さんのギャグは、なかなかのものである。