価値観
めんどくさそうな作業(製本)を先送りにし、でも、視野に入れ、・・・
にもかかわらず、ブログを更新する。
ある近しいリアル人の方のブログを延々とさかのぼって読んだ。
もう、そのブログは更新されないのだが、閉鎖もされない。
ブログを開設されて8年ぐらいになるのだろうか?
その中に、わたしが3年前、お送りした写メールがアップされているのを偶然、発見した。
その扱いには、悪い印象は受けなかった。
ブログ記事量があまりにも膨大すぎて、なかなか目を通すことができなかったブログだが、
時間がある時に、少しずつ読んでいる。
ほんの稀に、わたしの関わったこともアップされている。
あ、これ、わたしだ~。
なんだか、不思議な気持ちだ。
・・・
学生時代の友人から、「実家に遊びに来ない?」と、複数の友人宛に一斉メールが入った。
「○○ちゃんは遠いから、このお誘いメールを送ってません」
「△△ちゃんは、その日、仕事で無理だそうです」
とも追記されていた。
わたしは、時間が取れたら参加する気、満々である。
わたしの実家にも、何年か前に、彼女たちを招待し、遊びに来てもらった。
実家が元気な状態で存在するうちに、一度、呼びたかった。
彼女たちの記憶にも留めてほしかった。
なので、今度は、彼女が呼びたがっている、ということは、なんらかの心境の変化かも知れない。
今は、お一人で住んでおられるお父さんが、もし他界されたら、あのご実家は消滅するのかも知れない。
その前にぜひ、知っておいてほしい、と思われたのではないだろうか。
彼女のルーツ、生きてきた証の一部のようなものを。
家は、どんどん消えていく。
継ぐ人のいないお墓も、どうなるのだろう。
彼女は、お子さんのうちの誰かに家を継いでほしいのかも知れない。
彼女は、二人姉妹の長女、子供さんは、全員娘さん。女系家族だ。
よほどの財産でも残さない限り、跡を継いでほしい、と頼みにくいとわたしは感じる。
お金があっても、継いでくれるとは限らない。
強い信念もって、マインドを引き継がせることに成功しているのなら、どうにか願いは叶えられるかも知れないが。
わたしは、もはや、自分の中では、家を継ぐという意識が薄れている。
義務放棄は決してしないが、
さらっと、薄味で、簡素に簡単に、引き継げるものであればまあ考えられなくもないが、
重すぎるものを押し付けるのは、押し付ける側はいいが、押し付けられる側になると、重圧である。
時代も変わり、価値観も多様化、ライフワークも様々になり、住居も好きに選べる。
住みもしていない土地に愛着が育つだろうか。
昔ほど、イエ意識も、家に対する愛着も信念もないように思う。
ハード面、ソフト面、両方、バトンタッチは、なかなか上手く理想的には行きにくい。
自分の今後は、見通しがつくが、その他の皆はどうなるのか?
次男や三男、四男・・・、未婚の人々の墓は?
人の心配している暇があれば、自分のことをもっとちゃんとしなさい、という声が聞こえてきそうだ。
散骨だって葬送セレモニーだって、なんだって、自分でデザインする時代。
いろんな生き方がある。
その中で、跡を継いでほしい、と願うのには、
相当の自分なりの理由、自分に対する説得力や信念が必要だ。