蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

人生書き散らし

2014-06-28 | 人生

わたしのブログ、お読みになられる方のみ、お読みになっていただけたら・・・と思う。
(当たり前のことを書いています・・・)

とある近しいリアル人のブログ、もう決して更新されることはないが、
ちょっとずつ読んでいる。
読まないときもある。(そのほうが多い)
なにしろ、膨大な記事量なので、読む気力を溜めるのに、それまでに時間がかかる。
だが、閉鎖されていないでの、読む側は、悠長に構えている。

ある日、突然、閉鎖されるかも知れないのだが、今のところ、そんな気配がないので、
気が向いたら、ゆっくり訪れている。

・・・

人生って・・・
と、とつぜん。

若い人が言う人生と、中年が言う人生、老年、死の床の人が言う人生とでは、違う。
中学生スイマー(水泳選手)がオリンピックでメダルを取ったとき、
「人生で一番、嬉しいです」と言っていた。
早い時期にピークを迎えたら、あとは長い道だろう。

人生のスタンスは、人によってちがう。
なにを軸に置くか、である。

多くは共通すると思う。
愛情、豊かな生活、生きがい。
程度の差は少しあったとしても、日本の場合、総中流なので、ほどほどの生活は保障されているようなもの。
戦争時や、昔の時代なら、人権意識も今と違い、悲惨な生活だった。
だが、一部を除き、当時は皆、そうだった。

衣食住、事欠かなくなり、生活の質は向上した。
が、同時にこころの問題が発生する。

生きるために必死な時代は、余裕がないので、食べることで精一杯。
余裕が出てくると、人は上を見たり、疑問を感じたり、不安を感じたり。

貧困、病、老い、戦争・・・これらの不安から逃れるために、宗教(信仰)にしがみつく。
それらがひと段落し、生活は満たされても、こころに、ふっと隙間風が吹く。
その活路を見出そうとする


成功している人は、意外に熱心な信者であったりする。
といっても、得たいの知れない新興宗教ではなく、昔からの「神頼み」に近いもの。
たとえば、企業の屋上や社屋に設置されている神社(お社)や、家の中の神棚、・・・
街のちょっとしたところに混在して存在する、お地蔵さんや、小さいお社、
お花が供えられていたり、立ち止まって拝んでみたり。

おそらく、不幸だから、しがみついているわけではないと思う。
日常の一こま、こころが落ち着くのだろう。やすらぎの一こま。
企業に関しては、社員の精神を束ねる求心力の役目を果たすのだろう。
しかし、家族まる抱え、まるごと面倒を見ていた終身雇用制も崩れ、今は、強烈な求心力の代わりに、成果主義となっている。
ドロップアウトする人や、ついていけない人、割り切りの精神に、こころが殺伐とすることもあるだろう。
だが、へんにぬるっと暖かかったり熱過ぎたりする温度より、
自分なりのクールな温度のほうが、好きな人もいるだろう。

・・・

自分の好きなコースをチョイスするには、ある程度のお金が必要である。
介護施設ひとつにしても、そうだ。
最終段階の看取りの場である病室でさえ、個室と相部屋がある。
(最期は、別部屋かも知れない)

そこそこのお金が確保できないとなると、ほどほどの欲求に抑える。
財布と相談。
あるいは、精神論を持ち出し、自分をなだめる。

お金とリンクしない欲求は、あるのだろうか。
健康か。
いくらお金を使っても、お金があっても、保険の利かない自費治療ができたとしても、
根本的には翻すことはできないと思う。

人間関係は、そこそこお金で解決できるように思う。
付き合いたくなければ、代用品で済ますことができる。
義務も、代理人を雇って、自分の変わりに動いてもらえる。
マンパワー代金。
ほんとうに気に入った人とだけ付き合うのにも、(気に入らない人と付き合わなくていいようにするには)
お金が必要かも知れない。

欲求の質のレベルがどんどん上がるのは、ある意味、不幸を招く。
質の高いものを知らなければ、現状で満足できる。
しかし、人間は、困った生き物であり、自分の首を自分で締める愚かな行動をとる。

質の高いものを知っている、評価できると、自負している人々(とあるブログに書かれていたのと同じ)
彼らは、ほんとうに素晴らしいのか。
人の数だけ評価は分かれると思うが、評価する人数が増えてくると、そこそこ体系立てることができるのだろう。

・・・

わたしの困ったことは・・・
他の人にとって良いと思うことは、さほど自分のこころは動かず、さして取り入れようと思わないこと。
羨ましくない。
自分が良いと思うことは、さほど他の人は良いと思わないかも知れない。
変人として映るかも知れない。つまり、超少数派である。マイノリティ。

歴史上の人物を見ても、
その人が生きている間には、まったく評価されず、変人、奇人、狂人扱いされていた人が、
後の世で、認められるケースは多々ある。

なにもわたしは、自分が悲運の天才だと言っているのではない。
ちょっと変わり者かも知れないな~と、危惧しているのだ。
杞憂であればよいが。

才能を認められない天才や、お金に恵まれない天才。
そういう人の才能にしびれる反面、もう一方では、
お金がすべてだ、と商魂丸出し、銭ゲバ根性で成功した人も評価する。
両方、ほどよくブレンドが最も良いことぐらいは、わかっているが、理想だけ言ってもはじまらない。

・・・

わたしの話は、現実味がない。
あいかわらず、雲の上で霞を食べている。
毎日、図書館に足しげく通って、空想、妄想を膨らませている、夢見る暇人のごとく。
ただし、わたしは、図書館は嫌い。
実際の人物たちに接するのが、好き。
人物が無理なら、足跡、作品に触れる。
文字などの平面的なものだけではなく、立体的でリアリティがあるものが臨場感、迫力があって、
わたしの薄ぼんやりした脳への刺激には良い。

・・・

つまらないことを書いた。
がりがりに痩せた、偏屈じいさんの、独り言みたいになっている。

・・・

最後にもうひとつだけ。

パリで一人、うろうろする自分は、場に合っていないと昨年、二度目に行ったときに感じた。
パリは、老女一人は似合わない。
変わり者の意固地な孤独人みたいな自分が、見えた。

というのは、似たような年齢の一人歩きの女性を見て、おそらくわたしもあんな風なんだろうと、
非常にがっかり肩を落とした。
決して、わたしの望むところのものではない、憧れのパターン、テイストではない。

次回、行くときは、また行動パターンを、自分好みの方向性に向くよう、練ってみよう。
なにもパリである必要はないような気もした。
(パリは、一人でどうにか、どこにでも行きたい住所のところに行けるから選んだだけなので)

偏屈じいさんから、とっくに夢見る年齢を過ぎた甘党のおばぁさんになっている。

 

・・・

好きなことを書き散らし、ああ、すっきり。
バイキングで、「ああ、食べた食べた」とお腹をさすりさすり、ゲップをするかのごとく。

では。

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