新島襄(1843~1890)の幼名は七五三太(シメタ)という。彼の祖父は孫が四人続けて女の子であったので、男の孫を心待ちにしていた。五人目の孫が生まれたとき男の子であったので、祖父は嬉しさに思わず「しめた!」と叫んだのでこんな珍しい名になったという。父母の七五三太に対する期待は大きく、侍の長男として厳しい教育が授けられた。漢学と武道、がその教育の中心であった。だが時代は幕末で、欧米の圧力もあり鎖国から開国へと舵が切られようとしていた。
七五三太は14歳のときにはオランダ語を習い始め、物理学や天文学のテキストを読めるようなる。七五三太の関心は西洋の科学、とくに航海術を学習してオランダの軍艦に代表される西洋の脅威から日本を救うことであった。万延元年(1860)にはオランダ軍艦に載って日本の使節団がアメリカへ渡ったが、これが七五三太のみた初めての軍艦であった。この年七五三太は18歳、アメリカ渡航の夢は大きく膨らんだ。
七五三太が最初に乗った船は、松山藩の帆船快風丸であった。この船はアメリカで建造されたもので、七五三太は備中の玉島から江戸を往復する船に乗る許可を藩主からもらった。元治元年(1864)には七五三太はこの快風丸で、江戸から箱館まで帆走している。この間、船の同乗者から、『ロビンソン・クルーソー』の日本語訳を借り、渡航の夢はますます膨らんで行った。だが、この時期は特別の許可がない限り、海外へ出国はかたく禁じられていた。
だが偶然が重なって、箱館から向かった上海で七五三太は喜望峰からボストンに至るアメリカ商船の船長の船室係として雇ってもらうことができた。実は雇っていた中国人を首にしたので、代わりの者を探していたのである。親には渡航することは伝えなかったが、七五三太の行動でこうなることを予想していた。密航者新島が船賃を払う代わりに、船長の部屋の清掃や整理整頓をすることになった。船長は新島という名が発音しずらかったので、「これから君をジョーと呼ぶ」と言い渡した。新島襄という名はこうして名づけられた。
アメリカで養父母を得るまで、新島襄が舐めた辛酸は筆舌に尽くしがたい。新島襄は日記に「日々難渋なる働きをなしつらさのあまりに」と詞書をつけ和歌を書きつけている。「寒梅」など名詩で知られる新島襄であるが、その船中の仕事の過酷さに、詩心はどこかに置き忘れたような和歌である。
かく迄と兼て覚悟はせしなれどかくかくと如此と思ハじ
新島襄が船中肌身離さず持ち、読み継いだのは『ロビンソン・クルーソー』であった。父母を思うかたわら、挫けそうになる初心を振るい起こしたのは、この物語であった。キリスト教に改宗し、教育者としての学問を身につけて帰国し、同志社大学を設立した新島襄の渡米は、全く薄氷を踏むようなものであった。その行動が、ひとつ別の方に転がれば、異国の土になってしまったであろうことは容易に想像できる。
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