常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

孔子の晩年

2020年01月03日 | 論語
六十にして耳順う、七十にして矩を踰ず。孔子は自らの生涯のうち、その晩年をこんな言葉で表した。孔子は中国の春秋時代、紀元前442年魯の国に生れた。諸国が分立し、下剋上が方々で起こる乱世であった。人倫は地に落ち、政治は千々に乱れた。貧しい家の子に育った孔子は、学問を修め、三十代には優秀な学者として認められるようになった。孔子を慕う弟子も増え、人望は国の内外で高まっていった。世の中を正し、政治を担うことに熱意を持った。一学者を、そう決心させるほどに、世は乱れていた。三十にして立ち、四十に惑わずの年代である。

五十五歳の孔子は大きな転機を迎えた。盧の君主定公が、名声高い孔子を、国の大司寇(法務大臣)に抜擢したのである。その時、政治の実権は三桓と呼ばれる公族の三家が握り、国の政治をほしいままにしていた。定公は孔子を登用して、この三桓を抑え、自らの力を回復することを期待したのである。孔子は、この国にかっての周王朝の時代の政治を取り戻そうと懸命の努力をした。孔子の理想が高いほど、実際の政治を握る三桓の壁は厚く、これを破ることに失敗してついに国を去ることになった。一学者の説く理想論や力では、力の及ぶところではない。五十にして天命を知る、すなわち自らの力の限界を知ったのであった。

国を去った孔子が次にとった行動は、中原に乱立する諸国を、遊説して「仁」と「礼」の政治を説いて、受け入れてくれる君主を探すことであった。論語に現れる魂の叫びは、この苦難の時代に多く吐かれた。実に14年間、時には迫害を受け、暴漢に襲われ、食べるものさえない苦しい遊説の旅であった。元気者の弟子の子路さえが、弱音を吐く苦しさであった。その苦難のなかで、孔子は泰然自若として仁、人間への愛、そして文学、音楽を語った。しかし、そんな年月を過ごしても孔子を受け入れてくれる国はなかった。深い失望のうちに、放浪の旅を終え、孔子は魯に帰る。かって、孔子を尊敬していた季康子が総理大臣の地位につき、その呼びかけに従ったのである。耳順とは、その言葉は聞き入れたことを意味するのであろうか。時に孔子は、七十歳を迎えようとしていた。

73または74が孔子の死んだ年であるが、このほぼ5年間、古典である五経の編纂に力を尽くした。先ずは弟子たちの教材として、さらには後世の人々への教材として残すことである。詩経をも今日に見られるように編纂した。

孔子の死に臨んで、ひとつの伝説がある。ある朝、孔子は早朝に目を覚ました。手を後ろに組み、杖をひきづりながら散歩した。そして、こんな歌を歌った。「泰山はそれ頽れんか」ああ、あの大きな山が崩れそうだ。「梁木はそれ壊れんか」家の梁が落ちてくる。「哲人はそれ萎んか」と歌って家に入った。聞きつけた弟子の子貢が、先生の死が近づいているのではと不安になり、大急ぎで師の家に駆け付けた。子貢をみて
孔子は「子貢よなぜもっと早く来なかったのか。昨夜、わしは夢を見た。この座敷の真ん中でごちそうを貰う夢を見た。」そのごちそうは死者に備えるごちそうを意味しいた。その日から病床について孔子は七日間昏睡して死についた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 冬の千歳山 | トップ | 穏やかなお正月 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿