2002年のことだったから今から九年前、オフ会に参加した。
朝日新聞筋がネットウヨクと称する人たちの集いである。
何度でも書くが私はネットウヨクであったし、これからも
ネットウヨクであり続けることに変わりは無いだろうと。
まあオフ会だ。
集まるにあたって何かしら本を持ってくるよう提案したところ
朝日新聞系週刊誌の特集冊子を持ってきた人がいてその内容が
その場で高評価だったと記憶している。
朝日新聞筋はまれに思い出したかのようにまともな事を書く。
それらを以って朝日新聞を信奉する人たちは国の内外を問わず
多いが、そういう人たちはいっぺん死んだ方が良いと思う。
問題はそこではない。
何故まともが続かないのかだ。
さて公開処刑文化。
公開処刑と書くとイランのような国を想定する人が多数
と思われる。
だが西側でもある現象を公開処刑と表現したりする。
スキャンダルである。
私はアメリカにある高額訴訟も公開処刑文化に含めている。
これに関しても異論は少ないのではと思う。
公開処刑を求める人たちが居る。
そしてそれに応じる人たちが居る。
大衆が悪人を欲するから高級人がそれを与える。
これが今日ジャーナリズムとされるものの本質だろう。
御使いたちがそこに居るのなら彼らも同様にクズだ。
1. 悪人が居る
2. 悪人が悪さをする
3. 社会が悪くなる
4. 正義の味方が居て悪人を処断する
5. 社会が平和になる
公開処刑の典型だ。
これをこうしよう。
1. 悪人が居る
2. 悪人が悪さをする
3. 社会が悪くなる
4. 説得する
5. 社会が平和になる
結果は同じだが作用は違う。
次はどうだろう。
1. 悪人が居る
2. 悪人が悪さをする
3. 社会が悪くならない
4. 正義の味方が居て悪人を処断する
5. 社会は変わらない
政治家の浮気騒動などがこれの例だろう。
騒動があってもなくてもマスコミは大衆に浮気しろと言う。
最初と後の二つのパターン、違いは何か。
娯楽性だろうと見る。
娯楽の中の正義がいつの間にか社会正義として君臨している。
何故そうなるのだろうか。
朝日新聞筋がネットウヨクと称する人たちの集いである。
何度でも書くが私はネットウヨクであったし、これからも
ネットウヨクであり続けることに変わりは無いだろうと。
まあオフ会だ。
集まるにあたって何かしら本を持ってくるよう提案したところ
朝日新聞系週刊誌の特集冊子を持ってきた人がいてその内容が
その場で高評価だったと記憶している。
朝日新聞筋はまれに思い出したかのようにまともな事を書く。
それらを以って朝日新聞を信奉する人たちは国の内外を問わず
多いが、そういう人たちはいっぺん死んだ方が良いと思う。
問題はそこではない。
何故まともが続かないのかだ。
さて公開処刑文化。
公開処刑と書くとイランのような国を想定する人が多数
と思われる。
だが西側でもある現象を公開処刑と表現したりする。
スキャンダルである。
私はアメリカにある高額訴訟も公開処刑文化に含めている。
これに関しても異論は少ないのではと思う。
公開処刑を求める人たちが居る。
そしてそれに応じる人たちが居る。
大衆が悪人を欲するから高級人がそれを与える。
これが今日ジャーナリズムとされるものの本質だろう。
御使いたちがそこに居るのなら彼らも同様にクズだ。
1. 悪人が居る
2. 悪人が悪さをする
3. 社会が悪くなる
4. 正義の味方が居て悪人を処断する
5. 社会が平和になる
公開処刑の典型だ。
これをこうしよう。
1. 悪人が居る
2. 悪人が悪さをする
3. 社会が悪くなる
4. 説得する
5. 社会が平和になる
結果は同じだが作用は違う。
次はどうだろう。
1. 悪人が居る
2. 悪人が悪さをする
3. 社会が悪くならない
4. 正義の味方が居て悪人を処断する
5. 社会は変わらない
政治家の浮気騒動などがこれの例だろう。
騒動があってもなくてもマスコミは大衆に浮気しろと言う。
最初と後の二つのパターン、違いは何か。
娯楽性だろうと見る。
娯楽の中の正義がいつの間にか社会正義として君臨している。
何故そうなるのだろうか。