☆桑田佳祐は凄い。
サザンを結成してから30周年が経つが、いつも変わらずに、いい楽曲を提供し続けてくれている。
変わらないということは、時代に合わせて、常に変わり続けているということだ。
趣きは違うが、私は、スタローンにも、同じ思いを感じる。
やはり30年以上活躍し続けており、時代は巡り、人の情動にも変化があるだろうに、常に、人間の感情を最高潮に盛り上げる作劇の作品を撮り続けてくれている。
◇ ◇
昨年の良作『ロッキー・ザ・ファイナル』(クリック!)に続いて、スタローンの代名詞「ランボー」、その二十年ぶりの新作である。
相変わらず、最小限の物語的起伏で、こちらの感情を盛り上げてくれる。
だが、作品全体を通して、こじんまりとした印象を感じた。
それは、前時代的な兵器を用いるミャンマー軍が相手だからであろう。
州警察(『1』)やベトナム軍(『2』)、ソビエト軍(『3』)に比べ、ハイテク性に欠けた敵であった。
それ故に、つくりものではない、生々しい戦場が感じられた。
私は、それで戦争のリアリティの切れ味が増したと肯定的に捉えている・・・。
◇ ◇
そのリアリティとは、何に代表されるのだろうか・・・。
・・・「肉片」と「腐臭」であった。
この作品で描かれるミャンマー軍は、極悪非道であった。
『プライベート・ライアン(1998)』以降、『ブラックホーク・ダウン』など、戦場での臨場感は、解像度の高い映像、大気を振動させる音響で、これでもかと表現されてきた。
(厳密にはジャンルは違うが^^;)それ以前の戦争映画『ランボー3』までなどと、格段なる表現の隔たりが見られよう。
しかし、今回の『ランボー』は、その臨場感ある映像表現の洗礼を受けた後の戦場を「肉片」と「腐臭」で表現してくれた。
それは、バーホーベンが『スターシップ・トゥルーパーズ』で示したものと似ていよう。
あの作品の、夥しき「肉片」の散乱こそが、バーホーベンは、「幼き日に経験した戦場の姿だった」と語っている。
スタローンは、謙虚な人間である。
先の大戦の経験はないにせよ、充分なリサーチを行い、バーホーベンの言うが如き「肉片」に、「腐臭」をプラスし、戦場のリアリティとしたのだろう。
・・・「戦場のリアリティ」などと、作劇テクニックのように記すことこそ失礼だろう。
スタローンは、今回の物語の中でランボーを、「暴力をもって暴力を駆逐する(理想主義者たちの)守護者」として描いている。
ミャンマー軍の残虐を<現実>として描き、ランボーの非情な応戦を<現実>として描き、そして、やや老いたランボーは、その理想主義者にも「現実には必要となる防衛としての暴力」を行使させる羽目になる。
悲劇の物語である。
しかし、スタローンは、何よりもエンターテイナーである。
ミャンマー軍を悪鬼羅刹に描いている故に、ランボーの活躍に、私は大きなカタルシスを得るのだ。
◇ ◇
今回の物語は、あえて、ステロタイプな展開を外している点もあった。
例えば、冒頭のスネークハンターとしてのランボーのシーン。
従来のスタローンだったら、もっとねちっこく、コブラとランボーの対決を描いていただろう(例:『3』の冒頭の賭けファイト)。
しかし、そこでの盛り上げはなく、ランボーは淡々とスネークハントの仕事をこなしている。
私は、スタローン、ランボーともどもの老いと感じた^^
だが、鍛冶場のシーンなど、アクション要素のないシーンで、妙に画面に引き込まれる。
これこそが、スタローンの老成なのだろう。
◇ ◇
ランボーは、ミャンマーに入りたいからガイドをしてくれとの、白人のキリスト教支援団の依頼を逡巡の末に受ける。
しかし、タイからミャンマーへと船で進んで行く中で、海賊に出くわす。
ランボーは、諦観を秘めつつ、海賊と話し合おうとする・・・。
当然ながら、そんな話を聞いてくれる相手ではない。
行き詰る「刹那」が流れる・・・。
『最後の戦場』には、そのような「時間の凍結」が何度も描かれる。
ランボーは、西部劇の抜き打ちのような素早さで、相手たちを瞬殺する。
・・・これが、今回のランボーの切れ味である。
◇ ◇
更に、ランボーは、支援団を送り届けた後、川に浮かんだままの海賊船の処理(死体も含め)をする。
火葬に付すのだ。
こんな、アフターケアに気を使う性格ではなかったはずだが・・・^^;
シリーズの中でランボーは、「やったらやりっぱなし」のハズだったが・・・。
20年の時の流れは、ランボーの仕事に、きめ細やかを加えていた。
(『ランボー』感想、続きます^^v 2008/05/25)
サザンを結成してから30周年が経つが、いつも変わらずに、いい楽曲を提供し続けてくれている。
変わらないということは、時代に合わせて、常に変わり続けているということだ。
趣きは違うが、私は、スタローンにも、同じ思いを感じる。
やはり30年以上活躍し続けており、時代は巡り、人の情動にも変化があるだろうに、常に、人間の感情を最高潮に盛り上げる作劇の作品を撮り続けてくれている。
◇ ◇
昨年の良作『ロッキー・ザ・ファイナル』(クリック!)に続いて、スタローンの代名詞「ランボー」、その二十年ぶりの新作である。
相変わらず、最小限の物語的起伏で、こちらの感情を盛り上げてくれる。
だが、作品全体を通して、こじんまりとした印象を感じた。
それは、前時代的な兵器を用いるミャンマー軍が相手だからであろう。
州警察(『1』)やベトナム軍(『2』)、ソビエト軍(『3』)に比べ、ハイテク性に欠けた敵であった。
それ故に、つくりものではない、生々しい戦場が感じられた。
私は、それで戦争のリアリティの切れ味が増したと肯定的に捉えている・・・。
◇ ◇
そのリアリティとは、何に代表されるのだろうか・・・。
・・・「肉片」と「腐臭」であった。
この作品で描かれるミャンマー軍は、極悪非道であった。
『プライベート・ライアン(1998)』以降、『ブラックホーク・ダウン』など、戦場での臨場感は、解像度の高い映像、大気を振動させる音響で、これでもかと表現されてきた。
(厳密にはジャンルは違うが^^;)それ以前の戦争映画『ランボー3』までなどと、格段なる表現の隔たりが見られよう。
しかし、今回の『ランボー』は、その臨場感ある映像表現の洗礼を受けた後の戦場を「肉片」と「腐臭」で表現してくれた。
それは、バーホーベンが『スターシップ・トゥルーパーズ』で示したものと似ていよう。
あの作品の、夥しき「肉片」の散乱こそが、バーホーベンは、「幼き日に経験した戦場の姿だった」と語っている。
スタローンは、謙虚な人間である。
先の大戦の経験はないにせよ、充分なリサーチを行い、バーホーベンの言うが如き「肉片」に、「腐臭」をプラスし、戦場のリアリティとしたのだろう。
・・・「戦場のリアリティ」などと、作劇テクニックのように記すことこそ失礼だろう。
スタローンは、今回の物語の中でランボーを、「暴力をもって暴力を駆逐する(理想主義者たちの)守護者」として描いている。
ミャンマー軍の残虐を<現実>として描き、ランボーの非情な応戦を<現実>として描き、そして、やや老いたランボーは、その理想主義者にも「現実には必要となる防衛としての暴力」を行使させる羽目になる。
悲劇の物語である。
しかし、スタローンは、何よりもエンターテイナーである。
ミャンマー軍を悪鬼羅刹に描いている故に、ランボーの活躍に、私は大きなカタルシスを得るのだ。
◇ ◇
今回の物語は、あえて、ステロタイプな展開を外している点もあった。
例えば、冒頭のスネークハンターとしてのランボーのシーン。
従来のスタローンだったら、もっとねちっこく、コブラとランボーの対決を描いていただろう(例:『3』の冒頭の賭けファイト)。
しかし、そこでの盛り上げはなく、ランボーは淡々とスネークハントの仕事をこなしている。
私は、スタローン、ランボーともどもの老いと感じた^^
だが、鍛冶場のシーンなど、アクション要素のないシーンで、妙に画面に引き込まれる。
これこそが、スタローンの老成なのだろう。
◇ ◇
ランボーは、ミャンマーに入りたいからガイドをしてくれとの、白人のキリスト教支援団の依頼を逡巡の末に受ける。
しかし、タイからミャンマーへと船で進んで行く中で、海賊に出くわす。
ランボーは、諦観を秘めつつ、海賊と話し合おうとする・・・。
当然ながら、そんな話を聞いてくれる相手ではない。
行き詰る「刹那」が流れる・・・。
『最後の戦場』には、そのような「時間の凍結」が何度も描かれる。
ランボーは、西部劇の抜き打ちのような素早さで、相手たちを瞬殺する。
・・・これが、今回のランボーの切れ味である。
◇ ◇
更に、ランボーは、支援団を送り届けた後、川に浮かんだままの海賊船の処理(死体も含め)をする。
火葬に付すのだ。
こんな、アフターケアに気を使う性格ではなかったはずだが・・・^^;
シリーズの中でランボーは、「やったらやりっぱなし」のハズだったが・・・。
20年の時の流れは、ランボーの仕事に、きめ細やかを加えていた。
(『ランボー』感想、続きます^^v 2008/05/25)