海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「ヒズボラの勝利は、中東を変えた」と題する『ガーディアン』紙の記事。

2006年08月31日 | 国際政治
 レバノンの34日間続いた戦闘の煙が晴れるにつれて、倒壊したマンションや新しい墓にかかった費用を計算するのは間違いかもしれない。内閣から報道機関を経て苦々しい思いを抱いた予備役兵士にいたるまで、イスラエル全体が今議論している敗北によって一切が完全に変わった。世界中でイスラエルが勝ったと称している唯一の人物はジョージ・ブッシュである。そしてわれわれは「使命が完了した」という言葉の彼の定義をわれわれは知っている。(ブッシュ大統領が、イラク戦争の初期に早々と「使命が完了した」と空母上で宣言したが、それから3年経ってもイラク戦争は終わっていないことを指している。)
 今週、ヒズボラの指導者であるナスララー師が二人のイスラエル兵の拉致に対するイスラエルエの反応を過小評価したことに対して遺憾の意を表したという報道は誤解させるものだ。実際は、イスラエルがさもなければ、後で好きなときに侵入するだろうと確信していたので、抵抗運動が準備されたときに攻撃がはじまったことをナスララーは、神に感謝したのだ。
 もし、イラクの抵抗のもつれがブッシュの戦争がシリアに広がることを止めたとすると、ヒズボラの勝利は確かにイランへの攻撃について世界を考えさせた。だが、イスラエルとアラブ諸国の40年に及ぶ原型に起こった主要なずれは、隣人に対する恒常的なイスラエルの軍事的優越についての信念の破壊である。そして物柔らかなシモン・ペレス国防相からベンヤミン・ネタニヤフの馬鹿騒ぎを経てエフド・オルメルト首相の躓いた首相府まで、イスラエルの指導層に引き起こした傲慢の破壊である。
 無敵の神話は、二度と起こらない雑音である。先週、私はベイルートの下町ダヒアの瓦礫を通って、その中心が地震でやられたかのように見えるビント・ジュベイルのようなレバノン南部の町を見て回った。禁じられた兵器のくずが合法的な時限爆弾と同様に転がっていた。それは、国連やアムネスティ・インターナショナルによって戦争犯罪の証拠で
あると主張された。これは、イスラエルが国際世論において受けた打撃とともに、軍事的屈辱とともに蒙った副次的損害である。
 イスラエルは、ビント・ジュベイルを占領したと何度も宣言したが、実際にはイスラエルは、この町を維持したことはなかった。民家や学校や病院や道路や橋や国連監視所や発電所や潜在的にすべての給油所に何十トンもの爆弾を降らせたにもかかわらず、イスラエルは、ヒズボラ戦士が地上に出てきた場合に、彼らによって、激しい打撃を蒙った。もっとも、その間イスラエルは、世界に対して、自分たちはレバノン南部の住民を親切に招いて車に乗せ、少しの間、家を離れるに任せたと語ったのだが。
 皮肉なことに、ある人々は、最近の戦争の背後にある1世紀近い紛争の包括的な解決の可能性を垣間見させることが可能な窓を開いたと思っている。以前の状態が一掃されたからには、われわれはイスラエルにかっての南アのデ・クラーク大統領のような瞬間が生じるのを見るかもしれない。
 人種差別をしていた南アの白人種族の指導者(デ・クラーク元大統領はを指す)は、アパルトヘイトに批判的な反対勢力が無敵の少数派の地位を圧倒しそうになるまで待った。そして後では問題の解決がより好ましくなくなるという前提で権力の委譲を行ったのだ。イスラエルの軌道は、このような瞬間へと突き進んでいる。(以下省略)
[訳者の感想]筆者のジョージ・ギャロウエイは、[RESPECT,the Unity of Coalition]という社会主義と環境主義を党是とする政党の国会議員です。この政党は、イラク戦争に反対でした。
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「ドイツに二度と帰らない」と題する『シュピーゲル』誌の記事。

2006年08月30日 | 福祉と経済
ハンブルク発:かなり多くの読者の物語は、外国で百万長者になった皿洗いの伝説の現代版のように聞こえる。ある読者はメールに次のように書いている。「自分は最初タイでイカの販売店を開いた。後にはそこで不動産業者になった。」
もう一人の女性の読者は、ある夜、ロンドンにいかねばならないという夢を見た。そこで彼女は一度もイングランドに行ったことはないのに、荷物をまとめた。今日、彼女はいくつか夜間学校に通った後、相変わらずロンドンである欧州連合の機関に勤めている。ドイツにいたら彼女が経験したキャリアを、高校卒業証明書(アビトウーア)がなければできなかっただろうと思っている。
殆どすべての読者は、多くの国々では就職条件はドイツに比べてましであると強調している。ある、空調技師は、ドイツで身をすり減らす就職活動をした後、キャンピングカーでスイスに行って職探しをした。「私は12箇所で面接を受け、どこでも仕事を始めることできた。」
ある情報工学の専門家は、ドイツで7ヶ月、求職活動をしたがだめだった。そこで彼はインターネットの求職サイトである「モンスター・コム」に履歴書を送った。「短い時間の間に世界中からいろいろな就職口を見つけることができた。」アメリカで就職することに決めたが、「そこではドイツの2倍の給与がもらえる上、税金は一部しか払わなくていい」と彼は書いている。「一年後には、私は大きな庭とプールつきのちゃんとした家を手に入れることができた。」
誘惑的な求人は、当たらしふるさとでの非常に多くのカルチャー・ショックを埋め合わせる。米国に引っ越したある女性は、「ここではいくつかのことに慣れなければならない。たった1パックの卵を買うために車でスーパーマーケットへ出かける人や、酔っ払いが信号機の前で追突するから、必要な自動車保険を掛けなければならない。」
「特に初めから永遠の外国人としての地位に甘んじなければならない」と多くの人々は書いている。「われわれの金髪や、アクセントや身振りを見れば、われわれが外国人だと分かるのだ」とトリニダートに移住した読者は書いている。「しなければならない一番滑稽なことは、土地のしきたりに完全に服従しなければならないということだ。土地の人たちも、金髪のラスタファリなんかいないと言うことを知っている。」
彼らがどんな問題を抱えていても、帰国を考えているひとは、殆どいない。その代わりに、大抵の人たちが、もとの故郷に対して激しい憤懣を抱いている。「年金問題を考えてみなさい。ドイツでは私達の世代は、破産した年金制度と高齢者の貧困を目の前にしている」とスイスで広告業に従事しているある男性は言う。
 トリニダードへ移住した読者は、ドイツで彼が我慢できないのは、特につまらないことである。「例えば、仕事に出かける前に隣人がゴミ容器の前に立っていて、容器の満杯量が、清算のために測られるために、ゴミを押し付け回っているのを見る場合だ。」トリニダードにおける彼の新しい生活の最初の5年が過ぎようとしている現在、「結論として、どうしてもドイツに帰る必要がなければ、二度とドイツに戻らない。現在、朝、気温28度、南東からの微風と光り輝く青い空のあるトリニダードから挨拶を送る。これに付け加えるものは何もない。」
[訳者の感想]ドイツから出て行く人が増えているようです。日本人に比べると外国での生活に適応する能力は、ドイツ人のほうが優れているようです。
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「ヒズボラは、ドイツに入り込んでいる」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2006年08月27日 | 国際政治
8月26日発:、『フランクフルター・アルゲマイネ日曜版』の情報によると、多数の過激イスラム主義民兵のヒズボラは、8月初め、レバノンからのドイツ国民の短期的な避難行動を利用して、ドイツに入国している。その際問題なのは、個々の場合だけではない。
避難行動は非常に短期的に組織され、6千200人という数はあらゆる予想を超えていたので、詳しい吟味は、可能ではなかった。そういうわけで、一連のドイツ国籍を持たない人達がドイツ連邦に入国し、その中にはヒズボラのメンバーもいた。
 「連邦政府は、この状況で慎重に考慮しなければならなかった」と避難行動におけるベルリン政府のやり方をショイブレ連邦内務相は正当化した。「勿論、ドイツ国民が戦争から抜け出すのを助けなければならない。するとわれわれが入国の際パスポートの替わりの文書を発行した人達がやってくる」とショイブレは言った。「われわれはケチケチしている訳にはいかない」と大臣は付け加えた。
 シーア派の「ヒズボラ」は、ドイツに900人のメンバーを持っている。彼らはうまく機能している支援組織を利用し、ドイツを休息所として利用しており、イスラエルの外でテロはしないと言っている。「これまで治安当局は、ヒズボラがテロを企てていないということを前提にしていたが、彼らはここで寄付を集めるべきではない」とショイブレは憂慮して言った。
 レバノンからの帰国者は、大多数ドイツ系レバノン人である。「ついでに言うと、ドイツ国籍を持った人々もヒズボラのメンバーでありうる。彼らの入国を妨げることはできない」とショイブレは、連邦政府の困った立場を指摘した。内務省と治安関係の役所では、脱出作戦の前にヒズボラのメンバーも入国するだろうという憂慮があった。
 ショイブレは、7月末に週刊誌『シュピーゲル』との対談で、帰国者に注意しなければならないということを指摘していた。「その際、連邦警察は、外務省の同意を得て、特に監視する必要があるが、これまでは問題はない」と述べた。
 戦争状況のために徹底した吟味は十分でなかったと言われている。憲法擁護官は、本誌に対してヒズボラ指導者がメンバーの入国の背後にいたかどうかを疑っている。
 ショイブレは、ヒズボラに門戸を開放することを恐れて、レバノンからの避難者に一時的にドイツでの庇護を保証することに対して強硬に反対した。そのために、彼は「緑の党」の党首クラウディア・ロートに激しく批判された。「彼の態度は、精神的冷酷さとキリスト教的隣人愛の欠如と人道的責任の欠如の現れである」とロート女史は言った。
[訳者の感想]ドイツは中東諸国からの移民をいろいろな形で認めて来たので、ドイツ国籍を持ったレバノン人もパレスチナ人もいるはずです。先日のようなレバノン人による列車爆破テロ未遂事件が起こると、ヒズボラのメンバーがドイツ国内にいるということが一般のドイツ人の間にかなり不安を呼んでいるのも事実だろうと思います。
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「容疑者、部分的に自白」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年08月26日 | テロリズム
ベイルート/コンスタンツ発:二つのローカル列車に爆弾が置かれて三週間半がたったが、テロ容疑者のジハード・ハマドは、ベイルートでの尋問で部分的白状をした。レバノン内相アーメド・ファトファトは、「われわれは彼がトランクを列車に置いたというハマドの自白を得た。だが、彼はその中に何が入っていたか知らないと述べた」と言った。まだ、何も明らかになっていないが、ハマドのコンピューターの中に捜査官は、テロネットワークのアルカイダとの結びつきを示すものを発見したそうである。
ファトファト内相は、前日、警察に出頭したハマド容疑者の尋問が継続されていると述べた。
ドイツ人の捜査官が尋問に同席することを許可したと彼は言った。尋問は、容疑者がよく知られた過激派組織に属しているかどうかに集中している。レバノンの治安当局からの情報では、ハマドが目下主たる容疑者である。
コンスタンツとレバノンにおけるもう二名の容疑者の逮捕は、最初に逮捕された二人に共犯者がいたという推測を強めている。連邦刑事局局長のイェルク・ツィールケは、テロリストの広範なネットがあることを前提にしている。ドイツに共犯者と援助者がいることは確からしい。
 金曜日にコンスタンツで逮捕された男は、あるテロリストグループのメンバーで数件の殺人未遂と爆発物の爆発未遂容疑で逮捕された。彼はキール中央駅で逮捕されたユスフ・モハマド・アル・ハジディブ容疑者の周囲にいたと連邦検事局は、述べている。逮捕命令については、週末に決定される。ボーデン湖にある学生寮が捜索された。
 連邦検事局の伝えるところによると、この容疑者が失敗に終わった列車爆弾テロに荷担しているかどうかは、まだ決定されない。役所は、コンスタンツで更に二人の兄弟が逮捕されたという『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事については、金曜日夜に、否認した。「ドイツ通信社」(dpa)の情報によるとコンスタンツでは、ラップトップが一台押収された。そのコンピューターは、アル・ハジディブ容疑者のものだという疑いがある。
7月31日に二つのトランク爆弾がノルトライン・ヴェストファーレン州で二つのローカル列車に載せられたが、技術的な失敗で爆発しなかった。ツィールケは、ARD放送で、これまでの捜査で、連邦刑事局はドイツ国内にテロリストの細胞があることを前提にしていると述べた。それがレバノンの「ヒズブ・ウト・タハリル」という組織と繋がりがあるかどうかは、まだ明らかになっていない。
ハマド容疑者は、爆発しなかったトランク爆弾が発見された直後にレバノンへ旅行した。
彼の父は自分の息子は政治的な活動家と何らの連絡を持っておらず、過激なイスラム主義組織である「ヒズブ・ウト・タハリル」とも結びつきはなかったと述べた。
[訳者の感想]最初は列車テロは、素人に近い若者のとっさの犯行のように見えましたが、その後の展開を見るとかなり大きな組織があるように見えます。
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列車テロの第二の容疑者、無実を主張」と題する『シュピーゲル』紙の記事。

2006年08月25日 | テロリズム
カールスルーエ発:二つの列車に仕掛けられたトランク爆弾の発見から3週間半たって、第二の容疑者が逮捕された。国際的な逮捕命令によって追跡されていたジハード・Hは、連邦検事局の述べるところによると、レバノンの港町トリポリで今朝、警察に出頭した。連邦検事のライナー・グリースバウムは、追跡のための写真の公開後、強力な追跡圧力によってこの20才の男を逃げ切れないと思わせたと説明した。レバノンの治安当局の述べるところによると、彼は警察で自分の無実を主張した。
 これに対して、アラビア語の「アルジャジーラ」テレビ局は、ジハード・Hは、国際警察の示唆によって逮捕されたと報道している。20才の男性は、1週間前からレバノン北部で捜索されていたとテレビ局は述べている。アッカール市にある彼の家族の家は、捜索を受けた。そこでは、捜査官はジハードの居場所については何も述べない容疑者の父シャヒードにしか会えなかった。シャヒードと母のブシュラ・ジャベルはテレビで彼らは息子の罪を信じないと強調した。
 後にジハード・Hをトリポリにおびき出すことに成功し、彼はそこで逮捕された。『ヴェルト』紙も容疑者は、一週間前からレバノンの秘密警察によって所在が突き止められていたと報道している。
 連邦検事局は、この男の引き渡しに努力している。ドイツはレバノンと容疑者の引き渡し協定を結んでいないと連邦法務省は本誌に語った。「刑事事件に関する外国との交渉手引き」によると引き渡しは契約なしの基礎でも可能である。法律上の共助は、外交的な手段で伝達が可能である。
 8月24日の晩に、連邦検事局の代表と連邦刑事局の数名の役人は、レバノンの首都ベイルートに行った。そこでは、役所と引き渡しと容疑者の尋問とレバノンでの可能な捜査について協議されるとグリースバウムは述べた。
 治安当局からの情報によると、最初の容疑者のユセフ・モハマド・E・Hは、ノイミュンスターではなくて、ベルリンのモアビットで拘留されており、連邦刑事局の担当者が尋問している。テロリストグループのまだ未知の構成員の追跡は連邦検事局によるとまだ続いている。
 先週土曜日に逮捕されたユスフ・モハマド・E・Hとジハード・Hとは、特にテロリスト・グループのメンバーに属しており、いくつかの殺人未遂の容疑がある。ジハード・Hに対する容疑は、ケルンにある彼の住居の捜査に基づいているとグリースバウムは述べた。捜査官は、そこでガスボンベや導線や黒い粘着テープに対する受領書を確保した。
DNAテストに適した素材も見出された。容疑者は住居から「明らかに慌てて出て行った。」
 ジハード・Hは、最後にケルンのエーレンフェルト地区に住んでいた。そこで彼はユスフ・モハメド・E・Hと一緒に二つの爆弾を作製したと言われている。それは7月31日にノルトライン・ヴェストファーレン州のローカル列車内で爆発する予定であった。連邦検事局によると、ジハード・Hは、爆弾の入ったトランクをローカル列車でアーヘンからハムまで輸送したと言われている。彼の同国人は、爆弾をメンヘングラートバッハからコブレンツ行きの列車に載せた。両方の容疑者はケルン駅で監視ビデオ・カメラに写った。爆発物が爆発しなかった訳は、テロリストが組み立ての際、手違いを犯したためである。
[訳者の感想]列車爆破テロ未遂事件の容疑者が両方とも見つかりましたが、まだ他にテロリストが何人かいるようです。
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「ジョージ・ブッシュと彼の仲間は、阿呆で気が狂っている」と題するインタービュー。

2006年08月24日 | イスラム問題
経済史家のダグラス・ノースは、中東紛争の解決手段として金を提案している。アメリカの実際の中東政策に対してこのノーベル賞受賞者は、重大な非難をした。このアメリカ人が彼の意見でもって社会哲学への境界を乗り越えたのは、これが初めてではない。ノースは、ヨーロッパとアメリカにおける長期的な経済発展についての研究で有名になった。この研究でも既に彼は形式的な規則と非形式的な規則の役割を強調している。非形式的な規則に数えられるのは、法規則と並んで、倫理的規範と習俗やしきたりである。
--ノースさん、経済学者としてあなたはどうしたら中東紛争を処理できるかお考えはありますか?
ノース:勿論あります。イスラエル人に50億ドル(5,800億円)やりましょう。パレスチナ人が彼らの経済を発展させ、イスラエル経済と結びつくように、彼らは25億ドルをパレスチナ人にやるとします。イスラエルとパレスチナとの経済的統合が、この地域の平和を確保するために必要です。これについては問題はないでしょう。このような解決が両者に及ぼす長所は、巨大なものです。それではなぜそうしないのですか?
--でもそんな金額はどこから出るのですか?
ノース:米国はこれほど馬鹿げたことのためにこれほど多額のお金を出しています。だったら、50億ドルぐらいは調達できるでしょう。
--それでうまく行きますか?
ノース:本質的な問題があります。交渉をする人たちには国民を集団的に善い振る舞いへと義務づけることは残念ながら恐らく可能ではないでしょう。特に未来のために義務づけることは可能ではないでしょう。この認識は重要です。
--ということは、私たちはもっと深く掘り下げなければなりません。では、兵士を誘拐し、航空機を空中で爆破するように人間をし向けるこの原理主義はどこから来るのでしょうか?
ノース:原理主義はどの宗教の中にもあります。そして宗教は至るところに存在します。
信仰体系を使って、合理的でない物事を説明しようとしなかった人間社会はありません。あなたがどれほど馬鹿げた物事を信じているかは、私にはどうでもいいのです。だが、あなたが信じていることを信じるように私を強いるとすると、そのとき問題が生じます。不寛容に基づく干渉は、歴史の過程で、あらゆる宗教にから出てきました。イスラム教からだけでなく、キリスト教からも出てきました。
--人間を「正しい信仰」へと強制することは、何の役に立つのですか?
ノース:それは社会の内的な団結と関わりがあります。社会はある共通の分母を必要としているのです。それを作り出す一つの道は、人々に共通の信念体系を与えることにあります。それはインフォーマルな制度です。その都度の信念体系がどのように見えるかは、その都度の文化や社会の経験と関係があります。共通の信念体系への衝動が、そういうものとして形式化されると初めて、それは原理主義へと堕落します。
--不寛容な信念体系が貫徹された場合、車輪はその場合でも逆転できますか?法律のような形式的制度は、政治的決定によって変えることができます。ある社会の信念体系のようなインフォーマルな制度はこれに対してコントロールすることができません。
ノース:勿論何かをすることはできます。何よりも先ずどうしてどういうことになったかを理解することが大事です。この点では、ブッシュ大統領と彼の仲間は、非常に阿呆で馬鹿げています。意見の違う人たちを全部殺すことはできないです。彼らを理解しようとすする場合、彼らのすることを是認することはできません。だが、ともかくも彼らとコミュニケーションすることはできます。
--経済的にうまく行かない社会の人々は宗教的原理主義になりがちなのでしょうか?彼らには他に結びつきがないから、彼らは何かそれに代わるものが必要なのでしょうか?
ノース:良い質問です。でも、それは確かではない。われわれは人間の決断の基礎やメカニズムについては非常に僅かなことしか分かりません。特になぜ、よりによって西欧で良い教育を受けて、金を儲けている人間が成熟した年齢でイスラム教に改宗し、テロリストになるのかを説明することはできません。
--にもかかわらず、イスラム社会は、その宗教のせいで、経済的に劣っています。それには何が欠けているのでしょうか?
ノース:彼らの信念体系に基づいて彼らには西欧で形成された本質的な制度が欠けているのです。西欧では、繁栄への努力が自己貫徹するように、教会も配慮しました。われわれが知っているよう形での企業が存在しません。つまり基本的に無限の寿命をもった企業が存在しません。イスラム社会の企業はすべて小さくて、その所有者と共に死ぬのです。イスラム社会が自己を解放し、個人の寿命を超える経済形態を展開するとき、つまり非人格的な匿名の交換過程を許す経済形態を展開するとき、イスラム社会は初めて前進することができます。複雑な社会は、匿名の交換過程を許す制度を必要とするのです。ついでに言うなら、中国にもそれが欠けています。
--でも中国は経済的には遥かにうまく行っています。
ノース:確かにそうです。中国は気が違ったみたいに差を詰めています。だが、いつか、彼らは根本的なディレンマと対決しなければならないでしょう。彼らがこれまで着手した改革は、すべて人格的交換の原理に、重要な人物との接触に基づいています。それは非常に大きな経済には適合しません。彼らはそれから決別して、すべの人に普遍的で請求可能な平等な権利を保証する制度を定着させなければなりません。さもないと、その過程はいつか転覆します。そのとき、体制は自分の権力的地位を確保しようとする利潤追求者のために窒息するでしょう。民主主義的プロセスを導入しなければ、うまく行かないでしょう。政治的には中国は依然として共産主義的独裁制なのです。
[訳者の感想]8月20日付けの『フランクフルター・アルゲマイネ』紙に載ったインタービューです。このダグラス・ノースというノーベル賞を受賞した経済史家を私は知らなかったのですが、彼の考え方はとても面白いと思ったので、このインタービューを訳して見ました。
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「傲慢な戦争指導」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2006年08月23日 | 国際政治
書類の上では、イスラエル陸軍は「第二次レバノン戦争」に負けなかった。だが、高望みの期待は裏切られた。ヒズボラの同盟者であるイランが間もなく原爆を所有し、地域全体を炎に包ませるかもしれないから、イスラエルの多くの人たちは、速やかな戦略と指導の転換を要求している。劇的にすることに関心のあるイスラエルの報道機関が、目下の信頼の危機をどの程度煽っているかは明らかではない。だが、パレスチナ人に対する彼らのしばしば意気阻喪させる投入を理由とする兵士による批判において将軍達と大臣達は連携しているので、今や批判はあらゆる方面から来ている。
いろいろな新聞の公開状では、予備役旅団のチームや将校は、司令官の指揮の拙さを批判している。「彼らの不決断は、実行されなかった作戦計画や取り消された戦闘命令において、受動性であることが明らかになった。戦争目標は一度も明確に規定されなかったし、戦闘行為の間に変更された。」「槍の穂先」旅団の手紙は、指導部に対する挑戦である。
彼らは「兵士としてイスラエル市民の防衛という正しい事柄のために命を危険に曝す覚悟をもって動員命令に従った。」
今や次のような気の滅入る感情が起こった。つまり、「われわれの上の階級には、不十分な準備と不真面目さと見通しの欠如と合理的決断への無能力が支配的である。このことは次のような疑問に導く。われれは何のために動員されたのかという疑問だ。」書簡は、「国家の委員会による徹底的で実質的な調査を要求することで結ばれている。「そのような調査でもって、戦闘者であるわれわれと高位の者達の間の信頼の危機は取り除かれる。」
元モサドの長官であったシャヴィットは、この問題を違った見方をしている。『マーリブ』紙に彼は次のように書いている。「イラン危機のせいで、イスラエルの国家はこの贅沢をするわけにはいかない。われわれはこの沼地が乾くまで、毎年沼地の中に立ち止まっていてはならない。」国家の委員会の調査結果が公表されるときには、本来何が問題だったか、誰も思い出さないだろう。自分はそのことを1973年の「ヨムキップル戦争」の後で出された「アグラナート委員会」についての経験から知っている。イスラエルの平和運動の父であるユーリー・アヴネリも『マーリヴ』紙で同じような意見を述べた。1982年の「第一次レバノン戦争」の後で出された「カハン委員会」も、それに対してなされた期待を満足しなかった。(中略)
ハルツ総参謀長は、ギヴァト・オルガでの兵士との会合で非難を耳にしなければならなかった。「総参謀長、私の兵士は、高位の司令官をもはや信じることができません。」最近の戦闘では、武器が不足しており、食糧や水の供給も不足していた。「水のない兵隊は、負傷した兵隊を助けるために、脱水状態で何キロも後退しなければならなかった」と将校の一人は言った。
二人の予備役兵は、オルメルト首相が辞任するまで、首相府の前に座り込むつもりである。オルメルト首相とペレス国防相は、国民の信頼を失った。「政府を置き換える以外の選択はない」と『イデフィオト・アハロノート』紙は書いている。(以下省略)
[訳者の感想]イスラエル国内では、今度の「レバノン戦争」がイスラエル人が期待したような結果をもたらさなかったことに対する批判がわき起こって、軍も政府も窮地に立たされているように見えます。
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「アラブ世界の沈黙は、過激派と呼ばれる人々に最後の言葉を委ねている」と題する記事。

2006年08月22日 | 国際政治
イラクでは人殺し達が毎日何ダースもの民間人を、スンニー派のムスリムだという理由で虐殺している。アフガンニスタンでは、自殺テロは日常茶飯事だ。ガザ地区では150万人のパレスチナ人が罠に捕まっていて、イスラエルの攻勢と直接の援助を凍結するという米国と欧州連合の決定によって妨げられている。イスラエルとレバノンとの敵意の突然のエスカレーションは、シリアとイランを地域紛争に引きずり込むかもしれない。そして、イランの核危機は未解決のままである。
 1967年以来、中東がこれほど多くの高度の危機にさらされたことはない。それらの危機は、多くの糸によって結びついていて、部分的解決をより困難にし、この地域をますます速やかに深遠に引きずり込んでいる。
 多くの西欧の観察者にとっては、被告人については疑問はない。被告人は、イスラエルを破壊し、西側陣営を不安定にすることを目指すヒズボラである。政治家やメディアの間の分析は、米国のネオコンの分析に近い。新たな世界大戦が始まったのだ。
 米国のネオコンのイデオローグであるウイリアム・クリストルは、誇らしげに「これはわれわれの戦争だ」と宣言した。その理由は、彼が西欧を不安定にしようという全面的な試みに直面して、エフド・オルメルト首相に率いられたイスラエル政府は、疑いもなく、「正しい側にある。」レバノンが爆撃されてもサンクトペテルブルグでの会合で出されたG8の声明は、「イスラエルに自衛の権利がある」ことを認めた。
 7月12日のイスラエル軍のパトロール部隊に対するヒズボラの攻撃は、死者6名、拉致された兵士2名という結果になった。これは孤立した事故ではない。イスラエルとレバノンの国境では、小競り合いはありふれたことである。5月26日にイスラエルはイスラム・ジハードの指導者を暗殺した。レバノンの武闘派は、まだ、イスラエルの監獄にいる。
 ヒズボラの急襲が非合法だったと認めても、レバノンの組織的破壊をどう考えたらよいのか?国際法のもとでは、このような作戦は戦争犯罪に数えられる。二人の兵士を救うためという目的がイスラエルの爆撃で引き起こされた死や破壊を正当化すると思う人がいるだろうか?レバノン人の命は、イスラエル人の命よりも価値がないのか?
 イスラエルの攻勢の結果はまだ不確かである。ヒズボラ(神の党)は、レバノンの最大の政党であって、12人の国会議員を出している。それはシーア派社会に深く根ざしており、2000年にレバノン南部を解放したという巨大な名声をエンジョイしている。それはミシェル・アウン将軍の率いる「自由愛国運動」や「レバノン共産党」や「シリア社会主義ナショナリスト党」と連携している。ヒスボラをイランあるいはシリアの手中にある手先だと主張することは馬鹿げている。
 ガザ地区、ヨルダン川西岸地域、東イェルサレム、ゴラン高原の占領は、殆ど40年続いている。国連安保理の多くの決議にもかかわらず、米国、ロシア、欧州連合、国連によって承認されたロードマップでは、パレスチナ国家は、パレスチナにおける状態が悪化しないならば、2005年の終わりには設立されていただろう。
 だが、2005年には進歩はなされなかった。イスラエル政府は、ヤセル・アラファトが平和の障害であると繰り返し説明した。だが、彼の死とマームード・アバスとの交替は、アリエル・シャロンに彼の一方的な政策を放棄するように強いることはできなかった。
 政治的指導者やメディアが勇気ある行為だと賞賛した、2005年のイスラエルのガザ地区からの撤退は、オスロ合意の中で残っていたものを破壊した。つまり、平和は両者の話し合いによって達成されるという原則を破壊した。ガザに居住するパレスチナ人にとって、イスラエル人の退去は、彼らの窮境を改善するものを何も残さなかった。それは彼らの立場を一層悪くした。西岸地域におけるイスラエルの定住のペースは加速された。「平和プロセス」は国際社会が使う空虚な言葉に過ぎなかった。これらの事情のもとでは、ハマスが1月の総選挙で勝つのは驚くに足りない。けれども、西欧は、選択を間違ったと言う理由でパレスチナ人を罰した。フランスの賛成を得て、欧州連合は、パレスチナ当局から直接援助を奪い、生活条件を悪くし、既に弱体化していた行政組織を邪魔した。(中略)
 このイスラエルの攻撃、発電所や官庁の爆撃、政治的指導者の逮捕、家々の破壊、民間人を人間の盾として使うことも、戦争犯罪であるとされる。ジュネーブ協定の管理人であるスイス政府は、7月4日に、「イスラエルが民間人と社会基盤を護るために国際法で必要とされている予防事項を守らなかったことは疑いない」と述べた。
 パレスチナ人とレバノン人に対する戦争は、同じ戦略の一部である。それはイスラエルの利害だけを満足させる解決を押しつけようとしている。けれども、過去40年間、イスラエルの政策は、これほど一致した西欧の支持を得てきた。ヴァティカン政庁など僅かの不同意の声しかわれわれには聞こえない。
 アラブ世界はまたもや介入することができないということを証明した。米国と同盟しているアラブ諸国は、ワシントンに圧力をかけることはできないと感じた。彼らがしたことは、ヒズボラとハマスとを非難し、暗黙の内にイスラエルの侵攻を正当化することだった。サウディ・アラビア外相のサウド・ファイサルは、非アラブ諸国に紛争に介入しないように要望した。これは明らかに米国ではなくて、イランを念頭に置いている。
 エジプトの新聞『アル・ハヤト』のコラムニストであるバドラカンは、次のように書いた。「大西洋からペルシャ湾にいたるすべてのアラブ人は、平和プロセスが死んだも同然だと言うことを知っている。だが、アラブ人達は、平和プロセスが死んだということを決して認めなかった。それは頑固さのためではなく、彼らが自分たちが沈み込んだ沼地からどうやって抜け出せるか分からないからである。そえゆえ、好むと好まざるとに関係なく、最後の言葉は、われわれが過激派とか冒険屋とか呼ぶ人々に任された。」
 ハマスは、20年間のイスラエルの占領の後、1987年に最初のインティファーダの波に乗り始めた。ヒズボラは、1982年のイスラエルのレバノン侵攻の後で、占領軍に対する戦闘を始めた。この新たなレバノンの廃墟からどんな新たな過激派が台頭するだろうか?
[訳者のあとがき]この論説の筆者であるアラン・グレシュは、『ル・モンド・ディプロマティック』誌の中東専門家です。彼の近著として、『イスラム、共和国、世界』という本が挙げられています。
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「ドイツの列車爆破テロ未遂事件」についての『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2006年08月21日 | テロリズム
連邦検事のモニカ・ハルムスは、土曜日に、問題の男は、レバノン出身で、キール大学の学生であり、学生寮に住んでいたと述べた。彼はイスラム主義のネットワークのメンバーであるそうだ。この21才の男は、二人の容疑者の内の一人であるとハルムスは述べた。爆発物を乗せたトロリーから採取されたDNAと指紋が逮捕された容疑者のものと一致するだろう。彼は日曜日に捜査判事によって尋問を受ける予定である。
その男は、キール駅で列車から降りようとした際に、逮捕された。逮捕に導いた詳細については捜査当局は何も述べなかった。当局の推定では、ドルトムントとコブレンツの犯行容疑者においては、個人的な犯行ではなくて、テロリストの背景をもった集団が問題となっている。「持続的な構造を示す犯行集団が問題である」とハルムスは述べた。第二の容疑者については追跡が行われているが、彼の身元を特定する証拠はまだない。
連邦刑事局(BKA)局長イェルク・ツィールケの言葉によると、イスラム主義的な背景があるという認識はない。「それは捜査される」とツィールケはキールで述べた。第二の容疑者はキールから来たのではない。ツィールケは、監視を怠ってはならないと警告した。「第二の容疑者はまだ歩き回っている。」この男が何をたくらんでいるかは分からない。逮捕された男性は、監視ビデオカメラに写っていたドイツ・ナショナル・チームのトリコットのシャツを着ていた。
二つの列車に爆弾を仕掛た犯人を追跡するために、警察は、土曜日朝、キール中央駅を約5時間封鎖した。目撃者によると、彼はプラットホームで手錠をかけられた男を見た。朝9時に最初の列車が再び発車した。「キールでは、警官の投入処置は連邦刑事局の捜査と連携して行われた」と警察の報道官は述べた。
捜査官は、逮捕後キールにある容疑者の住居とある学生寮の建物を捜索した。この捜索は、土曜日午後まで続いた。キール中央駅で逮捕された際、レバノン人学生は、トランクを携帯していたが、その中には爆発物は発見されなかったと、連邦刑事局は述べた。この若者は供述によると、レバノン出身で、2004年にドイツに入国した。彼は滞在許可証を持ち、キール大学でメカトロニクスを学んでいる。
投入されている間、捜査官は疑わしい対象を探した。発見物および逮捕についての公式の
発表はない。ハンブルク行きの列車に乗ろうとした目撃者は、乗客が4時少し過ぎてからローカル列車から降りるように要求されたと述べている。彼は警官達がプラットホームでトランクと屑篭を調べているのを見た。
キール中央駅では、9時以後次第に旅客が増えた。ただ、3番線と4番線は、赤白のまだらの帯で封鎖されたままであった。多くの旅客は、捜査官達が白い上っ張りを着て、手荷物を調べているのを見た。駅が封鎖されている間、ハンブルクとリューベック行きの列車は、フリントベックとキールの間、及びライスドルフとキール間はバスを運行した。
アンゲラ・メルケル連邦首相は、キールでの逮捕にほっとした反応を見せた。メルケルは、逮捕をテロリズムに対する戦いにおける大きな成功だと評価した。ドイツの治安当局は、素晴らしく職業的に協力し注意深く行為したと評価した。
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の内務相ラルフ・シュテーガーは、100人以上の警官が投入されたと述べた。彼の意見によれば、「ビデオによる監視は、正しく且つ重要である」ことが明らかになった。社会民主党のディーター・ヴィーフェルスピュッツは、公共の場所でのビデオ監視を強化するのに賛成した。
爆弾の脅威の後で、ハンブルク中央駅は、土曜日には完全に閉鎖された。「われわれは匿名の電話を受けた」と警察の報道官アンドレアス・シェップフリンは報じた。建物全体でその後立ち退きを実行された。この時点に駅構内にあった6っつの列車のうち、4っつは発車が許された。「目下二つの列車が駅構内に停車している。だが、人間は中にはいない」とシェップフリンは述べた。
近距離と遠距離の列車とも中央駅には到着していない。「Sバーンは、運行しています」と駅の広報係は言う。駅の周囲も厳重に警備された。専門家が建物の捜査を始めた。
[訳者の感想]ドイツでも列車テロが計画されたようです。未遂に終わって何よりだと思いました。爆弾はトランク内に仕掛けられていたようです。ビデオカメラによる監視がテロを未然に防ぐのに役立つということが立証されたようです。
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「パキスタン、テロリズムに関して西欧を非難する」と題する『オブザーバー』紙の記事。

2006年08月20日 | テロリズム
イスラマバードからラワルピンディに通じる道路脇ではためいている旗には、ジアウル・ハク将軍の顔が描かれている。彼は10年以上軍政を敷き、1988年8月17日に奇妙な状況で飛行機が爆発して死んだ。路傍の旗は、彼の殉教死を悼んでいる。もっとも旗があるといういことは、普通のパキスタン人が彼の無慈悲な政権に対して感じるノスタルジアよりは、彼の息子が現在政府の大臣であることに関係がある。
飛行機の爆発は、パンジャブ州のバハワルプールの空港で起こった。この町は、たまたま、ラシド・ラウフが去る8月9日にテロ未遂事件で逮捕された場所である。だが、多くのパキスタン政治家や解説者によると、ジアウル・ハクと現在の捜査との結びつきはもっと深い。
先週末、ベナジル・ブット元パキスタン首相は、彼女の父の政権を1970年のクーデターで倒したジアウル・ハク将軍はソビエト連邦に支援されたアフガン政府を倒すために、米国とムジャヘディンとを援助する鍵となる役割を演じたと『ニュース』紙に書いている。
この同盟は、ムジャヒディンに近代的な武器と技術をもたらしただけではなく、「私の国を平和な国からカラシュニコフとヘロイン中毒とイスラム教の過激な解釈の社会に変えた。」こうして、現在の収穫の種子が当時蒔かれたと彼女は示唆している。彼女の見解は、今週、市場やシンク・タンクや政治家や解説者の間に多くの反響を見出した。
「われわれは怪物を作り出した。そして、われわれはそれをどう扱ったらよいか分からないのだ」と「アワミ国民党」の上院議員であるアスフンジアル・ワリは言った。彼は14才で彼の政治的信念のために投獄され、それ以来何度も逮捕された。「ソビエト連邦に対する戦争は、難民を戦士に変えた。」
ソビエト連邦に対する戦争の間、CIAは推定30億ドル(3,450億円)の援助をアフガン・ゲリラと外国から来た戦士に供給した。彼らはいまだにパキスタン西北部のアフガンとの国境地帯に住み着いている。推定25,000人の「アフガン・アラブ人」はサウディ・アラビア、エジプト、アルジェリアなどからやってきた。過激化し、軍事化された原理主義者の予備軍の創設が1980年代にパキスタンが米国の圧力に屈したせいだとと非難されるならば、現在のテロの陰謀とタイミングについての懐疑が増大する。
これらの陰謀は、ブッシュがテロに対する恐怖を維持するのにじゅうようである。だから、アメリカの公衆は絶えず恐れているのだ」とイスラマバードにある「戦略研究所」の所長であるシレーン・マザリは言う。アルカイダの関与については、マザリ博士は「さまざまのグループを引きつけるブランド名になっていると私は思う」と言う。
『ネーション』誌の漫画家であるマクシムは、ある大胆な解釈を行ったが、それは多くの聴衆を見出している。彼の漫画は、英国、米国、イスラエルの印の付いたミサイルを見て、「本当のムスリム破壊の大量破壊兵器だ」と考えているいるアラブ人を描いている。この見解に賛成する人は多い。イスラマバードのフダ・モスクのイマムを務めるシャフィク・アーメドは、「この陰謀は、レバノンで起こっていることから国際社会の注意を逸らせるたくらみであるように見える。ムスリムがテロの犠牲となり、9.11の背後で殺されている。誰もムスリムの問題に関心がない。国連でさえ関心がない。われわれは不正義と戦うなら、天国へ行けると信じている。もし、われわれがこれらの残虐な力に対して何かができなければ、われわれは神に彼らを破滅させてくださいと祈るかもしれない。」
21才の学生ウスマン・ムーサは、パキスタンが西欧ではテロの震源地であると考えられていることに対する反感を反省する。「英国で生まれそこで教育を受けた人々が英国でやっていることのためにパキスタンを非難してはならない」と彼はジンナー市場で車に荷物を積みながら言った。「なぜ人々はいつもパキスタンを見るのか?」
[訳者の感想]パキスタンがテロの温床になっているという考え方について、パキスタン人がどのように考えているかがよく分かる記事だと思います。
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「あるムスリム青年への手紙」と題するタリク・アリの文章。

2006年08月19日 | イスラム問題
(前略)
私は2001年9月11日以来、世界のさまざまな場所でわれわれの国民の多くに出会った。一つの質問がいつも繰り返された。「われわれムスリムがこんなことをするほど賢いとあなたは思いますか?」私はいつも「そうだ」と答える。それから私は誰が(テロに)責任があると思うかと尋ねる。すると答えは決まったように「イスラエルだ」と言う。「なぜ、イスラエルがあんなことをしたのか」と尋ねると、「われわれの信用を傷つけ、アメリカ人にわれわれを攻撃させるためだ」という答えが返ってくる。私は穏やかに彼らのそうあって欲しいという願望を暴露するが、会話は私を憂鬱にする。なぜこれほど多くのムスリムがこの無気力に沈んでいるのか?なぜ彼らはこれほどの自己憐憫の中で転げ回っているのか?なぜ彼らの空はいつも陰鬱なのか?なぜいつも誰か他人が責められるべきなのか?
われわれが語るとき、私は彼らが本当に誇りに思うただ一つのムスリムの国もないという印象を受ける。南アジアから移住した人々は、サウディ・アラビアや湾岸諸国でよりも英国でより良い待遇を受けている。何かが起こらなければならないのはこの点である。
 アラブ世界は変化を熱望している。何年もイラク人やシリア人やエジプト人やヨルダン人やパレスチナ人との議論で同じ問いが出され、同じ問いが回帰する。われわれは窒息しかけている。われわれは何故息ができないのか?すべてが動かないように見える。われわれの経済、われわれの政治、われわれの知識人、何よりもわれわれの宗教が変わらないのだ。パレスチナ人は毎日苦しんでいる。西欧は何もしない。われわれの政府は死んでいる。われわれの政治家は腐敗している。誰かがイスラム主義者に対して敏感だとしたら、それは驚くべきことだろうか?他の誰かが今日何かを提供するだろうか?それは米国だろうか?それは民主主義さえ望まない。小さなカタールにおいてさえ。非常に単純な理由で。もしわれわれがわれわれ自身の政府を選んだとすると、彼らは米国がその基地を閉鎖することを要求するかもしれない。彼らはアルジャジーラ局が彼らとは別の優先順位を持っているという理由でアルジャジーラ局を妬んでいる。アルジャジーラ局がアラブ・エリート内部の腐敗を攻撃したときは、都合が良かった。トーマス・フリードマンでさえ『ニューヨーク・タイムズ』紙の論説欄でアルジャジーラを褒めちぎった。彼はそれがアラブ世界に民主主義が到来する兆候だと考えたのだ。だが、彼はもはやアルジャジーラを賞めない。なぜならば、民主主義とは違った考えをする権利を意味し、アルジャジーラ局は、米国のネットワークで公開されないアフガン戦争の写真を掲載するからである。ブッシュとブレアは、カタールに非友好的な放送を停止するように圧力をかけている。西欧にとっては、民主主義はブッシュやブレアが信じているのと同じことを信じることを意味している。それは本当に民主主義だろうか?(中略)
西欧はアフガニスタンを攻撃している間は、イランに優しかった。イランは戦争に必要だった。帝国主義的原理主義者は、「悪の枢軸」について語る。それはイランを含んでいる。
ある話をさせて欲しい。2,3年前私はロサンジェルスであるイラン人の映画制作者に会った。彼の名前はモスレム・マンスーリと言う。彼は制作中のドキュメンタリのために撮影されたインタービューを持ってなんとかイランから逃げ出した。彼はテヘランに住む三人の売春婦の信頼を得て二年近く撮影した。彼は私にその場面を見せた。(省略)
 アメリカのネットワークのどれも映画を買おうとはしなかった。彼らはハタミ大統領の政権を不安定にすることを望まないからだ。映画制作者自身イラン革命の子供である。イラン革命がなければ、彼は映画制作者にはならなかっただろう。彼は非常に貧しい家庭の出であった。彼の父はモスクの時報係であった。彼の教育は超宗教的であった。今、彼は宗教を嫌っている。彼はイラクに対するイランの戦争で戦うことを拒んだ。
マンスーリは言う。「イラク戦争が終わったとき、政府は法律を作って人々が古い出生証明書を新しい証明書と変えることを要求しました。私が出生証明書を変えに行けば、私がニセの身元証明書を諦めなければならないだろうということが分かっていました。他方、大学の費用はとても高額だった。そういうわけで、私は軍務につきました。除隊になった後、私は職を探し、たまたま、リポーターを探していた映画雑誌を見つけました。政府と無関係な映画制作者と文学者にインタービューしようとしました。もし私が何かを書いたら、政権は、自分たちが批判を許し、それゆえ自分たちは民主的だと言って、手柄にすることができるでしょう。映画は国家によって統制され、映画制作者は体制の制限によって縛られていたのです。
私がメールジューイやマフマルバフやキアロスタニのような映画制作者とインタービューすれば、結局政治体制の利益になるでしょう。(中略)私が書くどんなシナリオも決してイスラム検閲局の許可を得ないでしょう。私の時間とエネルギーは浪費されるだろうということが分かっていました。そういうわけで、私は1994年から98年まで映画を撮影し、イランからこっそり持ち出しました。一つは、『クローズ・アップ』で、もう一つは『自由の詩人、シャムロー』です。
最初の映画はクローズ・アップと呼ばれたキアロスタニのドキュメンタリー・ドラマの主人公であったホセイン・サブジアンの生涯についての映画です。後のほうは、ある家族の物語です。その家族は、自分の物語を売って自分は有名なマフマルバフであると考えることによって彼の映画の一つのスポンサーになろうとするのです。彼は自分の家族と4日間暮らし、最後に家族は彼が全部をでっち上げていることを悟ります。家族は彼を逮捕させます。カイロスタニの映画の後、何年か経って、私はサブジアンに会いに行きました。彼は映画が好きですが、彼の妻と子供は彼に不満で、結局、彼と別れるのです。今日、サブジアンは、テヘラン近郊の村に住んでいます。彼は自分の映画に対する愛は悲惨以外の何にもならなかったという結論に達しました。私の映画の中で、彼は次のように語ります。『私のような人間は、われわれが生きているような社会では破滅させられる。われわれは決してわれわれ自身を演じることはできないのだ。二つのタイプの死者がいる。寝ている死者と歩いている死者だ。われわれは歩いている死者なのだ。』」
 その両親が西欧へ移住したムスリムとイスラムの家に今なお住んでいるムスリムの間には大きな違いがある。後者が遥かに批判的である理由は、宗教が彼らのアイデンテティにとって不可欠ではないからである。彼らがムスリムであるということは自明なのだ。
私はマグレブからフランスへ来たムスリム、アナトリアからドイツへ来たムスリム、パキスタンやバングラデシュから英国へ来たムスリムに語りかけた。彼らは私がよく知っているカシミールやパンジャブの元気な農民よりも遥かに正統派で厳格だ。英国首相は単一信仰派の信者だ。米国大統領はどの演説も「神がアメリカを加護したまわんことを」というお祈りで終える。オサマ・ビン・ラディンは、どのテレビ・インタービューもアラーの賞賛で終える。彼ら三人はそうする権利を持っている。丁度、私が啓蒙主義の価値の最も多くのものにコミットし続ける権利をもっているのと同様に。啓蒙主義は、宗教を批判した。二つの理由で。第一にそれがイデオロギー上の妄想であるという理由で、第二に、それが迫害と不寛容の力をもった制度的圧制のシステムであるという理由で。そうだとしたら、どうして私は宗教批判を控えなければならないのか?(以下省略)
[訳者の感想]イスラム知識人の声を聞く機会が余りないので、この本を読んで見ました。タリク・アリは、元々はパキスタン共産党に属した人のようです。宗教としてのイスラムに対して批判的であると同時にアメリカのキリスト教的原理主義に対しても批判的であるという彼の立場は面白いと思いました。こういう人がイスラム国で主流になることは絶対にないでしょうが。


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「江沢民の著作、歴史にある場所を占めるか」と題する『ガーディアン』紙の記事。

2006年08月18日 | 中国の政治・経済・社会
それは『ハリー・ポッター』を押しのける本の宣伝である。べたほめの書評、新聞一面の見出し、テレビの先頭記事、世界で最も人口の多い独裁国家の主席による必読書の推薦。
批判するものにとっては、降格か投獄か出版許可の取り消しの可能性を加えると、江沢民前国家主席の選集が数ヶ月間は中国ではベストセラーのリストの先頭にあるだろうと信じる十分な理由がある。
三巻に分けて出版され、203の演説と記事と書簡と布告の集まりは、持ち運ぶのも難しい。だが、先週の発行以来、著作は、共産党のイデオロギー的な基礎付けの一つであると激賞された。毛沢東と小平の似たような著作とともに、それは党に対してバイブルのような力を持った著作であって、すべての図書館、大学、兵営に置かれることが保証されている。
胡錦涛主席は、この本について議論するように、今日(8月15日)党中央委員会の特別委員会を招集した。彼は党のメンバーに江沢民氏の言葉を学習するように呼びかけ、中央委員会は「中国的特徴をもった社会主義の偉大な目標」を押しするめるよう決定したと述べた。
『江沢民選集』は、江沢民が最後の重要なポストを支配していた1980年から2004年までをカバーしている。「新華社通信」は、7000語の要約を公表し、前主席が問題を引き起こす争点を再吟味するよりは、むしろ彼の遺産を擁護することに焦点が置かれていると示唆した。江沢民は、WTOへの中国のアクセスによって面目を施した。1989年の天安門事件に続くオリンピック誘致と経済成長によって面目を施した。天安門事件については全く言及されていない。
共産党が市場経済を取り入れるという江沢民によって擁護された政治理論に大きな部分が割かれている。
この著作が公刊された日、「新華社通信」は、北京からチベット人自治区の首都ラサまでの書店に
できた人の列について報道した。奇妙なことに、同じ日、北京の最大の書店の一にいた外国のジャーナリストは、期待された顧客の殺到が実現しなかったので、落胆を表した。
初版の7万5千部が軍関係のために確保された。人民解放軍の機関誌は、「将校と兵士は、この上品に装丁された本を受け取って得意だった。そして、互いにその精神的精髄を十分に把握するために熱心に研究することを誓った。」
この著作の政治的意義は、議論の余地がある。何人かの解説者達は、江沢民が、キーとなる人事と政策が決定される来年開かれる第17回党大会の前に自分の影響を再確認しようとしているのだ考えている。
[訳者の感想]江沢民の選集が出版されたという記事は日本の新聞にも出ていましたが、その背後にどういう意図があるのか分かりませんでした。ガーディアン紙に優れた中国関係の記事をしばしば書いているジョナサン・ワッツ記者の記事です。
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「中国の大学での混乱」と題する"Economist"誌の記事。

2006年08月17日 | 中国の政治・経済・社会
河南省のロンフという静かな田園都市にある「シェンダ経済貿易経営大学」の学生達は、中国では最も特権的学生である。そうだとすると、彼らはなぜ夏の初めに暴れまわったのか?六月に数千人の学生が彼らのグランドで荒れ狂い、窓ガラスを割り、警察の車に石を投げた。これは1980年代以来中国で報道された大学のキャンパスでの最大で最も無秩序な抗議の一つだった。
一見、暴動の原因は、目に付かないように見える。シェンダ大学の学生達は、大学の厳格な管理に対して不満であった。それには朝6時半に始まる必修の体育や、アルコールと喫煙の禁止や外出許可がある場合を除いて、週末はキャンパス内に留まることなどが含まれている。自己を尊重する学生だったら抗議するのは当然だ。だが、暴動の引き金になった理由は全く違っていた。それは学生の卒業証書に「シェンダ」という語を付け加えるという大学の決定だった。この明らかに詰まらない変更が暴動を引き起こしたという事実は、中国の教育制度の危険な現状を、そしてそれを改革する困難さを明らかにしている。
1990年代初めから、市場の力を導入することによって、公共サービスの提供はめちゃめちゃになった。大抵の学校や大学はまだ政府によって設立されているけれども、それらはいまやビジネスにもっと似てきた。それらは特別の収入を得て、設備を改善し、より多くの学生を惹きつけることを許されている。そして重要なことは、それらの学校は、授業料を上げることを認められている。しばしば、名目上政府に課された制限を避ける形で。中国社会科学院は、家計は、他の何よりも多くの金額を教育に支出している。都市の住民は、一人の子供しか持つことを許されていないのに。2004年には、学校の収入の18%は、授業料で賄われている。1991年には授業料は、収入の4.4%しか賄っていなかった。
国立の学校や大学にとって特別の現金を得る普通のやり方は、費用のかかる私立学校として自分自身の学校を始めることである。この趨勢は、15年前には、小学校や中学校の間で始まった。そして現実に存在する不平等を一層強化した。共産主義時代には、二層制度が特別の金を取る「基幹学校」と学業の優秀さを養うための他の援助をえる学校とを同一化していた。
六月に、教育法の改正は、多くの反感を引き起こした「基幹学校」制度を廃止した。このことは甘やかされた特権階級に自分たちの新たな半分私的な設備に対して最高の学費支払い者を惹きつけるという立場を残した。それゆえ、彼らは外部からの学生から高い学費を請求することができる。「学校選択料」として知られるこの徴集は、数千ドルに達する。多くの余り特権をもたない国立学校も、繁盛している。例えば、取り入れ口をばつべつの流れに分けることによって、それらの学校は、より良い教師と設備をもったクラスのためにもっと多くの学費を徴収する。
高等学校の主導ににしたがって、国立の大学は、1990年代の終わりには、私立大学との連携によって、収入を増やした。1994年に創立された「シェンダ大学」は、初期のパアイオニアだった。十年後、中国は68万人の学生を収容するこのような半私立大学を249校持っている。彼らのうち50万人以上が、学部卒の学位を得るために勉強している。
どのレベルでも、金持ちは、収入の少ない家庭よりも、良い教育を受ける機会がある。同時に、私営化のプロセスの不透明さは、学費を徴収する機関の間の公平な競争を妨げている。国立の機関、特に以前際立っていた「基幹学校」は、市場を支配し、真の私的投資を妨げている。
過去2年の間に地方政府は、私立大学に営業税を課し始めた。収支が合わなくなって、ある大学は破産しかけている。最大の私立教育会社の一つである「南海教育集団」は、1万人の生徒と400人の教師を含む10の学校を経営しているが、ある省の役所が違法な基金募集をしていると非難したために、昨年倒産した。公共のメディアでさえ、その運命は私立学校に資金援助を出したがらない国営の銀行と関係していることを示唆している。
「シェンダ大学」の学生は、「鄭洲大学」と書かれた卒業証明書と交換するためには、「鄭洲大学」学生の二倍の学費を払わなければならない。「シェンダ大学」という語を付加するという6月の決定は、これが実際には本物ではないという事実に注意をひきつけた。ひどく競争的な仕事の市場では、たった一語が重大な相違を引き起こすかもしれない。雇用者は、しばしば、私立のあるいは半私立の大学からの学生は国立大学の学生よりも劣っていると見なすのである。
 当局は6月15日に起こったシェンダ大学での暴動をすばやく抑え込むのにすばやく動いた。数百人の対暴動警察官が送り込まれた。彼らがいるだけで、暴動を沈静するのに十分だった。座り込みは翌日も続けられた。だが、夏休みの始まりとともに、座り込みは失敗に終わった。それでも、当局は新たな報道管制を命じるのに十分なほど憂慮している。学生をなだめるために、大学の学長は首になった。だが、「鄭洲大学」は、卒業証書に「シェンダ大学」と明記するように固執している。
この問題に選択の余地はない。あいまいな国有と私有の施設の急速な増大をどのように運営するかについて何年も不決断あった後で、中国文部省はいまやそれらの施設と母体との間の区別をはっきりさせようとしている。規則は三年前に出されたが、母体となる大学によって余り熱心には履行されなかった。その規則は、シェンダ大学のような私立大学の名称は卒業証書の上に明記されるべきことを要求している。「鄭洲大学」の卒業生にとっては、シェンダ大学の卒業生と同じ証明書で終わることは、腹立たしい。二つの施設の間の混乱を強めることによって、シェンダ大学は3万2千人の卒業生を持つ「鄭洲大学」の殆ど半分の卒業生を持っているのだ。
[訳者の感想]日本では、国立大学と私立大学とは、一種のすみわけをしてきましたが、国立大学の特殊法人化で、違いが余り無くなってきたように見えます。経営に関しては日本の私立大学はうまくやってきたと思いますが、国立とはいろいろな点で差別されきました。中国の大学制度が良く分からないので、とんだ誤訳をやっているかもしれません。気づいた方は、コメントしていただけるとありがたいです。
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「靖国参拝の後、同盟者は、小泉首相に食ってかかる」と題する『シドニー・モーニング・ヘラルド』の記事。

2006年08月16日 | アジアと日本
 中国と韓国だけでなく、日本の政治的同盟者によって非難された小泉純一郎首相は、この国の最も軋轢を生じる記念碑に歴史の重い日に参拝することによって、公的な反対をはねつけた。
 北京とソウルの日本大使館は、両国の外務省へ呼び出され、形式的に叱責された。東京では、小泉の連立政権の与党である公明党は、参拝は「遺憾であり、自分の忠告に従わなかった」と言った。
 参拝は「国際正義に挑戦し、人類の良心を踏みにじるものだ」と中国の外相は言った。
小泉首相の靖国参拝は、「日本の軍国主義者の侵略戦争の犠牲者への侮辱であり、日本との関係を損なうものである。」
 韓国外交通商省は、「深い落胆と憤激」を表明した。「われわれはこのような国粋主義的な態度は韓日関係を悪化し、東北アジアの地域協力を妨げるものだと厳重に注意する」と外交通商省は述べた。
 小泉首相の後継者の一人である安部晋三は、4月に靖国神社に参拝したが、小泉の参拝を擁護し、それは「強い感情」を反映していると言った。
 東京の中心にある靖国神社には、250万人の戦没者が祭られており、14人のA級戦犯も合祀されている。中国と韓国にとっては、この神社は軍国主義を賛美している。日本の右翼国粋主義者たちは、この神社を国民的統一とヒロイズムの松明だと見ている。
 小泉は、戦犯を追悼したのではないと言い、自分の参拝を個人的で心情的なものだと説明した。
 「私は敬意をもって参拝し、心の底から意志に反して戦場で命を捧げるように強いられた人たちに感謝したのだ」と彼は昨日述べた。
 小泉首相の六回目の参拝は、第二次世界大戦の終結から61回目の記念日に行われた。それはヒロシマとナガサキへの原爆投下の記念を含む戦時中の記念の悩ましい週の終わりを告げる日である。
 「私が8月15日を避けても批判と抗議は私に投げつけられた」と小泉は言った。「批判や抗議が投げつけられたとしても、今日は参拝するのに最適の日だ。」
 靖国神社の参拝は、小泉の首相時期の終わりを飾るジェスチャーである。彼は来月引退する予定である。
「外交的に言うと、A級戦犯が合祀されている靖国神社の参拝を説明するのは難しい」と谷垣財務大臣は言った、彼も小泉の後任首相候補の一人である。
 小泉首相の傍にいる他の指導者も彼を攻撃した。公明党党首である神崎は小泉首相に参詣しないように頼んでいた。
 加藤紘一元幹事長は小泉首相が日中・日韓関係を破壊するものだと非難した。
[訳者の感想]小泉首相は、6年目にようやく8月15日に靖国参拝をするという公約を果たして有終の美を飾ったつもりのようです。安部氏はどうするのでしょうか?オーストラリアの新聞だからかなり手厳しい批判が載っているかと思いましたが、客観的な記事だと思いました。
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「ヒズボラ、歴史的勝利を主張」と題する『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙の記事。

2006年08月15日 | 国際政治
ヒズボラの指導者であるハッサン・ナスララー師は、今日、自分のゲリラがイスラエルに対して「戦略的歴史的な勝利」を達成したとのべ、レバノン軍と国際部隊だけではレバノンを護れないと示唆した。
「われわれは大きなアラブの陸軍が以前に敗北した戦争で勝利した」と黒いターバンをした宗教者はヒズボラ系のテレビ「アル・マナル」でテープを通じて述べた。
彼の演説が終わった少し後で、祝砲を撃つ音ががレバノンの首都ベイルートの空に鳴り響いた。
「われわれは誇張なしに戦略的歴史的勝利を前にしている」とナスララーは言った。彼は、この日34日間のヒズボラとイスラエルの流血の戦闘を終わらせる停戦が行われると述べた。ナスララーは、この日を「偉大な日」と呼んだ。
彼のゲリラ戦士の武装解除を議論するときではないとナスララーは断言し、この争点は、イスラエルの利益に役立つのを避けるために、政府の秘密会議で論じられるべきだと言った。
「特に停戦前には心理的道徳的レベルではタイミングが間違っている」と彼は武装解除するためにゲリラを召集することに関して述べた。
「イスラエルが新たな攻勢をする場合に、誰がレバノンを護るのか?」と彼は尋ねた。「レバノン国軍と国際軍とはレバノンを護ることはできない」とレバノンとヒズボラの旗を傍にして彼は言った。
だが、ナスララーは、自分は適切な時期にはヒズボラの武器について対話する用意があると述べた。彼は彼の集団の武器がイスラエルにレバノンとの戦争はピクニックではないということを証明したと信じている。
「この戦争におけるイスラエルの目標は、ヒズボラの武器を取り除くことだった。これは家を壊すことでは達成されなかった。それは議論によって達成されるだろう」とナスララーは言った。
このシーア派の指導者は、何人かのレバノンの政治家は、ヒズボラを余りに早く武装解除したがっていると示唆した。
「彼らは空調のある部屋に座って、レジスタンスの武器について粗雑に語っている。レバノンの社会基盤はあらゆる場所で破壊されたが、南部とベイルート南部の人々の間で一番激しかった。これは最も抵抗を支え、抵抗を誇り、一番犠牲を払った社会の部分である。」
ナスララーは、一月に及ぶ戦闘の間にレバノンに加えられた「大量の蹂躙と破壊」は、イスラエルの「失敗と無能力」とを反映していると述べた。
彼は自分の組織がレバノン国民が再建するするのを助けるだろうと述べ、家賃を払ったり、新しい家具を買ったりする金を難民に与えるように懇願した。
「明日の朝から、町や村にいる兄弟たち(ヒズボラのメンバーを指す)は、家が壊された人々の所へ行き、彼らが家を建て直すのを手伝うだろう」と彼は言った。「今日は、われわれの約束を守る日だ。われわれの兄弟たちは、明日からあなた方のお役に立つだろう。」
彼は1万5千戸が破壊されたと見積もった。イスラエルがレバノンに加えた砲撃と破壊とは前例がない。特にレバノン南部とベイルート市南部では。」と彼は言った。
「敵は南部とベカー高原とベイルート市南部で何千もの家を破壊した。」
ナスララーは、再建の努力を軍事用語を使って記述し、レバノンの青年にボランティアとして復興を手伝うように呼びかけた。
「勝利を完全にするのは、再建によってなされる。誰もが再建のための戦闘に入ってい欲しい。
イスラエル空軍は、月曜日にジェバリア難民キャンプにある一軒の家を爆撃したと目撃者は述べた。爆撃は「イスラム・ジハード軍事グループ」のための司令部を狙ったものだとイスラエル軍当局は述べた。パレスチナ人の役人は、数名が負傷したと述べた。
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