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海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「国会選挙後、モンゴルで暴動」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2008年07月02日 | アジアと日本
武士の一分 豪華版(S) (5万セット限定 3大特典付)

松竹

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 数千人が参加した重大な騒擾が、火曜日、モンゴル共和国の首都ウランバートルで発生した。興奮した群衆は、政権与党「モンゴル革命人民党」(MRVP)の建物に乱入した。野党側の意見によると、議会選挙の結果をごまかしたと言われている。警察は、投票数の数え直しを要求するデモ隊に発砲した。警官隊は棍棒と催涙ガスを使用したが、デモ隊が政権党の本部を選挙するのを防ぐことができなかった。
五階建ての建物の二つの階が炎上した。占拠者の一人は、建物に掲げられていた政権党の旗を引きずりおろした。政党本部前では、一台の車が炎上した。負傷者が多数出たと報じられている。その数はこれまで、知られていない。建物の中には、火曜日午後には、革命人民党の議長で首相のサンシャギン・バヤルや、記者会見に出席しようとした新聞記者が閉じこめられている。後で彼らは建物から出ることに成功した。
ナンバリン・エンクバヤル大統領は、火曜日夕方非常事態宣言を出した。国営のテレビ放送によると、この措置は次の四日間有効である。月曜日から火曜日にかけての夜、1千人以上がウランバートルの中心広場を占拠した。救急車だけが通行可能である。反対行動は、深夜まで続き、警察は最初介入しなかった。
騒動が始まったのは、「モンゴル民主党」が投票数が操作されたと述べた後である。暫定的な選挙結果によれば、与党は、議会の76議席のうち、50議席を獲得した。野党の「民主党」は、25議席しかとれなかった。野党は40議席とれると予想していた。
与党のバヤル党首は、野党のザチヤギジン・エルベルドルシェに騒動の責任があると言っている。(以下省略)
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「靖国参拝の後、同盟者は、小泉首相に食ってかかる」と題する『シドニー・モーニング・ヘラルド』の記事。

2006年08月16日 | アジアと日本
 中国と韓国だけでなく、日本の政治的同盟者によって非難された小泉純一郎首相は、この国の最も軋轢を生じる記念碑に歴史の重い日に参拝することによって、公的な反対をはねつけた。
 北京とソウルの日本大使館は、両国の外務省へ呼び出され、形式的に叱責された。東京では、小泉の連立政権の与党である公明党は、参拝は「遺憾であり、自分の忠告に従わなかった」と言った。
 参拝は「国際正義に挑戦し、人類の良心を踏みにじるものだ」と中国の外相は言った。
小泉首相の靖国参拝は、「日本の軍国主義者の侵略戦争の犠牲者への侮辱であり、日本との関係を損なうものである。」
 韓国外交通商省は、「深い落胆と憤激」を表明した。「われわれはこのような国粋主義的な態度は韓日関係を悪化し、東北アジアの地域協力を妨げるものだと厳重に注意する」と外交通商省は述べた。
 小泉首相の後継者の一人である安部晋三は、4月に靖国神社に参拝したが、小泉の参拝を擁護し、それは「強い感情」を反映していると言った。
 東京の中心にある靖国神社には、250万人の戦没者が祭られており、14人のA級戦犯も合祀されている。中国と韓国にとっては、この神社は軍国主義を賛美している。日本の右翼国粋主義者たちは、この神社を国民的統一とヒロイズムの松明だと見ている。
 小泉は、戦犯を追悼したのではないと言い、自分の参拝を個人的で心情的なものだと説明した。
 「私は敬意をもって参拝し、心の底から意志に反して戦場で命を捧げるように強いられた人たちに感謝したのだ」と彼は昨日述べた。
 小泉首相の六回目の参拝は、第二次世界大戦の終結から61回目の記念日に行われた。それはヒロシマとナガサキへの原爆投下の記念を含む戦時中の記念の悩ましい週の終わりを告げる日である。
 「私が8月15日を避けても批判と抗議は私に投げつけられた」と小泉は言った。「批判や抗議が投げつけられたとしても、今日は参拝するのに最適の日だ。」
 靖国神社の参拝は、小泉の首相時期の終わりを飾るジェスチャーである。彼は来月引退する予定である。
「外交的に言うと、A級戦犯が合祀されている靖国神社の参拝を説明するのは難しい」と谷垣財務大臣は言った、彼も小泉の後任首相候補の一人である。
 小泉首相の傍にいる他の指導者も彼を攻撃した。公明党党首である神崎は小泉首相に参詣しないように頼んでいた。
 加藤紘一元幹事長は小泉首相が日中・日韓関係を破壊するものだと非難した。
[訳者の感想]小泉首相は、6年目にようやく8月15日に靖国参拝をするという公約を果たして有終の美を飾ったつもりのようです。安部氏はどうするのでしょうか?オーストラリアの新聞だからかなり手厳しい批判が載っているかと思いましたが、客観的な記事だと思いました。
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「戦後60年、アジアのかたち」と題する『ヘラルド・トリビューン』紙の記事。

2005年08月15日 | アジアと日本
シンガポール発:日本の敗北の60周年記念は、アジアにおける日本の経済的支配の衰退を示している。
百年前、1905年に日本は日ロ戦争でロシアを打ち負かした。この勝利は、日本がアジア地域を支配し始めるのを助けた。今や、中国が、増大する経済とこの地域での外交上の侵略によって、今世紀は俺たちのものだと主張し始めた。
「今、私たちが見ているのは、一つの時代の終わりである。日本がアジアにおいて圧倒的な勢力として占めていた場所を中国が奪い始めたのだ」と『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーは言う。
「それは将来の全形勢を変える。あの力はどのように共有されるか?あの力はどのように動揺するか?前世紀の歴史的荷物を抱えながら、どのような種類の協力が展開されるるだろうか?」
日本と中国という二つの国が彼らの新しい関係にうまく適応しないので、癒されることのない戦争の傷は、苦痛を引き起こし、今日の政策に影響し続けている。
同様の厳しさは、日本と韓国との関係も害している。
東南アジアでは、傷は殆ど癒されたが、戦争の遺産はもっと広範囲に及んでいるかもしれない。
東南アジアの植民地後の国民国家は、戦争の廃墟の中から生まれ、形成された。
1941年から45年までに、日本の占領地域で戦争に関連する原因で、2,400万人が死んだ。それは大量虐殺、大量強姦、大規模の強制労働によるものであった。300万人の日本人が死に、インドでは戦争と関係のある飢えのために、350万人が死んだ。
ホノルルにある「東西研究センター」の政治学者ムティア・アラガッパは言う。「アジアがどこまで来たか見て欲しい。殆どすべての国は、植民地支配から抜け出すために、内戦の最中だった。今度は冷戦に覆われ、朝鮮とベトナムでは熱い戦争が勃発した。」
ミャンマー・ラオス・カンボジアという最貧国を除けば、東南アジアは、沸き立っている。5億の人口をもつこの地域は、7,370億ドルの国内生産と7,200億ドルの総貿易額を持っている。
「実際、東南アジアとして知られるこの存在は、それ自体、戦争の産物だ」と「東南アジア研究所」の理事長であるワン・グンウは、この研究所の主催で、今月初めシンガポールで開かれた戦争に関する会議で言った。
何世紀も続いたインド亜大陸との結びつきは断たれ、中国は冷戦のカーテンの向こうに姿を消した。
戦争は、アジアにおける何世紀もの植民地支配に終止符を打った。
このことはケンブリッジ大学のティム・ハーパーが「パレード・グラウンド好きのナショナリズム」と呼ぶものを台頭させた。それは近代国家の中央支配と民族的同一性である。
孤立した民族少数派を徴兵し、武装させることによって、戦争は、また彼らにアイデンティティの感覚を与えたが、同時にゲリラとの対立も始めた。それがミャンマーでは今日も続いている。
この地域における戦後の役割を調整するにつれて、「日本は極端にナショナリスティックな局面に移りつつある」とカリフォルニア大学「日本研究所」のチャーマーズ・ジョンソンは言った。
日本は、戦力の国際的使用の禁止を和らげるために、戦後憲法を書き直しつつある。その結果、戦時の軍国主義に対する謝罪となったもの(憲法第9条を指している)を引っ込めることになる。
過去数十年の間、日本は、隣国の不信に対抗して、文化外交として知られるもの、つまり研究・教育・美術・歴史的保存プロジェクトにに何百万ドルも注ぎ込んだ。この地域での拡大をスムースにするために、中国は文化外交においてそれ自身のプロジェクトを始めた。
戦時の残虐行為を認め、適切な補償をしなかったと見ることによって、中国と韓国は未だに怒り狂っているが、東南アジアの国々では、記憶はもっと和らげられている。
「戦争の政治的インパクトは、いまなおある政府によって現代の利害関心に役立てるために用いられている」と「東南アジア研究所」のワンは言う。「記憶は変わるものだ。人は自分に合ったものを取り出し、選ぶのだ。」
戦争のインパクトは、殆ど完全に戦闘を免れたタイとインドシナから、戦争で荒廃したミャンマーとフィリピンまで非常に異なる。
ベトナム・カンボジア・ラオスというインドシナの国々は、主要な戦場の外にあった。だが、短い日本の占領はフランスの植民地支配の終結と1945年のホー・チーミンの独立宣言の基礎を置いたと、オーストラリアのモナシュ大学の研究員であるデイヴィッド・チャンドラーは言う。
バンコクのチュラロンコーン大学の政治学者ティティナン・ポンスディラクによれば、タイ国は、戦争から殆ど無傷で現れたことで有名だが、ここでもインドシナと同様、戦争は未来を形成するのに役立った。つまり、それは軍人政府を台頭させ、それは、1947年から1973年まで国家をコントロールした。
尺度の反対側に位置するのがミャンマーであり、それは戦争で荒廃し、未だに回復していない。
フィリピンにとっては、破壊的戦争は、大部分、米国との兄弟関係の感傷的な感じを伴う英雄的記憶となった。アメリカは、一旦戦争が終わると、その独立を認めた植民地の主人だった。
いくつかの記念碑は、「私はきっと戻る」と言う約束通り、徒歩で海岸に上陸したマッカーサー将軍による日本人からの解放を祝って建てられた。
日本自身にとっては、トラウマ的な破壊的戦争は、にもかかわらず、一世紀に及ぶアジア支配の中断に過ぎない。
興味深い歴史のねじれによって、真珠湾攻撃に導いたのは、東南アジアの資源に対する日本の欲望とアメリカの干渉に対する関心であった。
戦争の後に続いた反共産主義的地政学において、日本が東南アジアへ進出するのを助け、日本が求めていた経済的支配領域を作るのを助けたのは他ならぬアメリカだった。
「中国よりも東南アジアのほうが資源のための場所に適していると日本人に対して言われた。これはかなりアイロニックだ。なぜならば、これこそ彼らが戦争を始めた理由だったからだ」とジョン・ダワーは言う。
この支配は、次の30年間、一つのモデルになった。それは日本のエコノミストによって「雁行」と呼ばれている。それは日本を先頭にして、そのパートナーが経済的な伴流において前進するというモデルである。
世紀の変わり目に、この勢いは緩やかになった。日本経済は沈みつつある。台湾と韓国は、引き離している。中国は、前進中である。雁行の綺麗な形は消えてしまった。
[訳者のコメント]セス・マイダンス記者の記事です。第二次大戦がアジアの国々にどのような影響を与えたか。戦後60年間のアジア史の総括と言ったら褒めすぎでしょうか。アジアにおける日本の役割もプラス・マイナス両方の評価がうまくできていると思いました。
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「戦争で破壊された香港は、甘んじてそれを忘れる」と題する記事

2005年08月13日 | アジアと日本
8月13日、香港発:香港政庁の優雅な丸屋根からワンチャイのけばけばしい歓楽街やスタンリーにあるごみごみした商店街に到るまで、今の香港はアジアのどこよりも平和で繁栄した都市のように見える。
60年前、この都市は、第二次世界大戦の最悪の破壊のいくらかを蒙った。現在香港政庁のビルがあるところは、日本軍の憲兵隊の拷問センターだった。日本兵によって、地域住民がレイプされた後で、日本軍が経営する売春宿が建てられた。スタンリーには、連合国側民間人のための収容所があった。近くの海岸で処刑される危険を冒して規則を犯した人たちも含まれていた。
注目に値することは、160万人の人口が、飢えと殺害とより食糧の得られるコミュニティのための戦闘によって60万人に減った戦時の恐怖にもかかわらず、ここでは戦争は殆ど思い出されない。8月15日の日本降伏60周年記念が近づいていることを示すものは、博物館での退役軍人による話を含むいくつかの小さな集会と日曜日に行われる数百人あるいは数千人が参加する抗議デモだけである。
中国と韓国では、何百万の人たちが、今年、日本が子供達に戦時中の残虐行為について教えたがらないことに抗議して、インターネットの請願に署名したり、街頭デモに参加した。日本では多くの人が公然と戦争の記録を弁護した。だが、香港の住民は、戦争を忘れ去ろうとする驚くべき傾向を示した。
「60年というのは、思い出すのに良い機会だ。でも人々は経済発展により多くの注意を払っている」と香港大学歴史学者ホー・プイインは言う。
ホーやそのほかの歴史家は、戦争のことを気にしないこの町の傾向をいくつかのファクターのせいにしている。660万人の香港の人口の大多数は、戦時の生き残りの子孫ではなく、後に共産主義の台頭を恐れて大陸から逃げてきた家族の一部である。
大陸では化学兵器や武器の貯蔵庫や戦時の危険な材料が時々発見されたりすることが、中国の民衆に戦争を思い出すのを助ける。しかし、最近は香港ではこのような発見は少なかった上、歴史的研究は衰えた。
第二次大戦中のこの町の歴史は、徹底的に露天掘りされたので言うべきことは余りない」と地方史家のジェイソン・ワードは言った。「日本ではまだ封印されたままの軍事記録の広範な公開が新しい研究に火をつけるには必要だ」と彼は言った。
英国も、日本軍が既に征服した中国本土で集結した1941年に、この領土の防衛から中国人を排除した。そういうわけで、中国人の退役軍人は少ない。
最近、フィリップ・スノウが『香港の陥落』(The Fall of Hongkong.)という本で立証したように、特にその四年前に起こった南京包囲戦の際の恐ろしい話を聞いた後では、香港の中国人達は、日本人と戦うのを助けるのに熱心だった。しかし、イギリス人達は、特に1920年代の植民地支配に対するアジテーションを忘れていなかったので、地域住民を武装させることを躊躇した。
真珠湾攻撃の数時間後に始まった日本軍の攻撃に直面して、イギリス軍の防衛は崩壊し、1941年のクリスマスに降伏で終わった。
戦後、英国は、親共産党ゲリラだったという理由で、日本軍と戦った中国人に特に注意を払わなかった。日本降伏後、香港の英国の主権への復帰は、半世紀の間、8月末に祝われた。その際、イギリス人の退役軍人は二つの大戦の戦死者に敬意を表して、市の中心の柱の周りに並んだ。
しかし、この町が日本軍の手に落ちた後で、もっとも効果的な抵抗運動を行った親共産党の「イースト・リバー・コラム」の生き残りは、これらの集まりには出席しなかった。
「われわれは、このような式典に一度も招かれたことはない」と80才のチャイ・ソンインは言った。彼は、戦時中、香港九竜独立旅団の宣伝将校だった。かってのイギリス将校達は、ゲリラ達がもし来るのを選んでいれば、彼らは歓迎されただろうと言った。
チャイは、イギリス人が1947年にこの旅団が日本軍部隊を攻撃するのにもっとも積極的であった村や住民に賞賛の旗を送ったのを覚えている。もっとも旗には、襲撃を指導した親共産党のグループについては何も書かれていない。
1997年にこの領土が中国の支配に返還されることによって、政治における突然の移動がなされた。香港の最初の行政官である董チーフアは、「イースト・リバー・コラム」の生存者を英国総督の邸宅に招いて、かってのゲリラに感謝した。董はまた、生存者に対する政府病院の無料の医療看護を認めた。ある場合には、政府の年金も認めた。「イースト・リバー・コラム」の戦死者のリストは、議事堂の中の小さな祠に収められた大英帝国の戦死者のリストと一緒に置かれた。この祠での毎年の式典には、英国の退役軍人と中国人ゲリラとが招かれるが、それがかっての市の中心の柱の周りで行われた式典に取って代わったのだ。
[訳者のコメント]香港で日本軍に抵抗したゲリラがいたということは、私は知りませんでした。「イースト・リバー・コラム」というゲリラ組織は中国語では何と呼ばれるのかどなかたご存じではないでしょうか?
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「ミンダナオ島の部族長は、日本人の父親を覚えている」と題する『サンデイ・タイムズ』の記事

2005年06月05日 | アジアと日本
日本政府が、ミンダナオ島のジャングルにいる二人の元日本兵を追跡していると聞いて、第二次世界大戦中に彼の父親を最後に見たという思い出が部族長タナオ・バンティラン・タオ(田尾?)にとっては押し寄せた。
先月、この島に関わりのある一人の日本人ビジネスマンの不確かな報告によって、二人の80才代の日本軍の生き残りを捜して、日本外務省の係員と100名の日本人ジャーナリストとがミンダナオ島に降り立った。先週、このミッションがその報告は立証不可能であるという結論を出した後、この一団はヘネラル・サントスの港から立ち去った。
明白なことは、タナオ・タオの父親を含めて、日本兵は、戦時中、ミンダナオ島に占領軍として勤務したということである。
「私は、敗残兵はここにはいないと思う。もし、日本兵がいたとすれば、彼らは今までに出てきただろう」とグラン(Glan)の田舎町に居住するブラーン族の部族長は言う。
 日系人協会の会長として、彼は1998年にミンダナオ島のいろいろな場所で、このような「敗残兵」を捜索したが、誰も見つからなかった。
 彼の父、ヒヨイコ・タオ(田尾清彦あるいは田尾ヒロユキの聞き間違いと思われる)は、1920年代にミンダナオ島に移住し、当時アメリカのプランテーションで働くために来た何百人もの日本人同胞に加わった。 彼はグランで農業に従事し、ブラーン族の娘と結婚した。タナオ・タオは、この珍しい組み合わせの結果であった。これらの労働者は、1941年に真珠湾を攻撃した直後、日本がフィリピンに侵入したとき、帝国陸軍の兵隊になった。
 このことは、多くのフィリピン人に、日本人は初めから侵入者としてやってきたのだろうと疑わせた。
日本軍がグランの町にやってきたとき、ヒヨイキ・タオは、通訳として勤務した。「彼が帝国陸軍に加わった後、私たちは彼に会っていない」とタオは言う。しかし、後に彼は、彼の父がフィリピン・ゲリラに捕まり、すんでの所で殺されるのを免れたということを知った。
 戦後、日本が降伏した時、父親は家族とともに残ることを希望したが、帰国するように強いられた。日本に戻って農民として働いた後、彼は1956年にガンで死んだ。日本のテレビのクルーがタオを探し出した1974年に彼は父の死を知ったのだった。
 彼の家族は、ゲリラに日本兵の親族であるという理由で拘置された。タオは、フィリピン・ゲリラの食糧を作るために農場で働くように強制されたのを覚えている。
 彼は父親がフィリピンの家族のために手紙を書こうとしたと信じている。しかし、手紙は一度も届かなかった。
 「1999年に私が日本へ行ったとき、私が見たのは父の墓だけだった。私の叔父と甥とがそれを私に見せてくれたのだ」と彼は悲しげに言う。
 日本兵がまだミンダナオ島に隠れているという報告については証拠がなく、隠れていないだろうという疑いは強まっているが、ジャングルに隠れているという噂はいつまでも続いている。
 怪しげな人物がミンダナオ島を訪れる日本のジャーナリストに宝の地図と称するものや日本兵から貰った日章旗を見せたりする。さまざまの老人が、可能な日本人の生き残りとして、新聞記者に提示される。しかし、彼らは大部分、日本語がしゃべれなかったり、彼らが日本人だという証拠を示すことができないで、片づけられる。
 タナオ・タオは、1990年代に、山に隠れている日本の敗残兵についての次のような話を聞いたのを覚えている。ヘネラル・サントスの近くの町で、ある男が、驚くべき申し出とともに、日本人の先祖をもつフィリピン人に近づいた。日本兵の息子だと称するその男は、もし、日系フィリピン人の子孫が金を貸してくれるならば、自分の父が山に隠した金塊で返すと言った。タオの兄弟を含めて三人の人間がだまされ、その男に金を与えたが、その詐欺師は消えてしまった。
 地方の農民であるプリモ・ワゴ・シロマ(64)は、彼の日本人の父親がフィリピン・ゲリラに殺されたとき、まだ2,3才だったので、父親の思い出はないと言う。
 彼はいまなお彼の父ジョホ・シロマの写真を財布の中に入れている。「彼らがなぜ父を殺したのか分からない。多分、兵隊だったのだろう」と彼は言う。彼が聞いた第二次大戦後の日本軍の残留者についての話は、ラジオによるものだと彼は言う。
 第二次大戦中の日本軍の残酷なフィリピン占領にもかかわらず、シロマとタナオ・タオとは、戦後に虐待は受けなかったし、日本との血のつながりは、彼らの家族には利益をもたらしたと言う。
 1968年に日本人の子孫達は、「フィリピン日系人会」と組織し、1994年から1995年までに日本は、日系人を登録し、彼らに日本で働くビザを得る権利を与えた。
 フィリピン日系人会の前会長であるタナオ・タオは、彼の子供10人が日本で働いており、一人は帰国したばかりで、彼の稼ぎで家を建てていると言う。
 シロマも、彼の子供の内3人は彼の父の出身地である沖縄にいると言っている。
[訳者の感想]フィリピンにもかなり多くの日系人がいることは、忘れられがちですが、その人達が戦前から今までどんな生活をしていたかが、良く分かるように思います。日本軍に協力したばかりに、戦後、意志に反して日本に帰国させられた一世の悲劇は、かなり多かったと思われます。
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