海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「ソマリアの海賊、ドイツの軍艦を攻撃」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年03月31日 | 犯罪
ベルリン発:護衛艦「ラインラント・プファルツ」号にアデン湾で初めてドイツの軍艦を攻撃した7人の海賊が逮捕された。防衛省の述べるところによると、高速ボートに乗り火器を携行したソマリア海賊がタンカー「シュペッサールト」を攻撃したが、この攻撃は、EUの海上作戦「アタランタ」の部隊によって成功しなかった。これ以上の成り行きについては、政府筋に報告されたとポツダムにある作戦司令部は、述べた。
ドイツの船舶に対する一ヶ月以内に二度目の攻撃に際して、誰も負傷者はでなかった。三月初めに、9人の海賊が、「アフリカの角」でドイツ船「MVクーリエ」をかすめ取ろうと試みたが成功しなかった。
派遣司令部の陳述によれば、海賊の攻撃に対して、タンカー「シュペッサールト」の防衛チームによって反撃された。その後、海賊達は逃走したが、彼らのボートは、後で停戦命令を受けた。「シュペッサールト」に対して、最初、スペイン軍のヘリが救援に駆けつけ、その後で、ギリシャ海軍の護衛艦「プサラ」が介入した。7人の海賊は、ドイツ軍とギリシャ軍のチームによって武装解除されたが、ボートにとどまった。
3月10日に、ドイツは、一週間前に同じくアデン湾でドイツの貨物船をかすめ取ろうとした7人のソマリア海賊をケニアに引き渡した。ケニア警察は、港町モンバサで、「ラインラント・プファルツ」から海賊を引き取った。
海賊の訴追についての欧州連合とケニアの間の協定によると、海賊達は、ケニアで裁かれる。ドイツでは、キールの検事局が最近の事件に関して責任がある。
9人の海賊の事件においては、ハンブルクの検事局はドイツでの訴追を断念した。ドイツの検事局とっては、ケニアは、その法体系に対する国際的批判にもかかわらず、裁判手続きのための最小限度の必要基準を満たしている。欧州連合がケニアに乗り換えた理由は、多くの海賊の故郷であるソマリアには、内戦のために、国家構造が存在しないからである。
[訳者の感想]私の読み間違えでないとすると、タンカー「シュペッサルト」には、海賊の攻撃に反撃できるような警備員が乗っていたようですね。軍人なのか警官なのかはこの記事では分かりません。
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「中国は新しいアメリカになれるか?」と題する『フォーリン・ポリシー』誌の論説。

2009年03月31日 | 国際政治
現在の経済危機と同様、大恐慌の時代にも、国際秩序にリーダーシップが欠けていたために景気の後退は特に厳しかった。19世紀の支配的な力であった英国は、第一次世界大戦で財政的に衰退していた。新たな債権者である米国は、強力な経済力として台頭したが、まだ、開かれた国際的経済秩序を維持するのに十分なリーダーシップを持っていなかった。簡単な診断を言えば、英国は指導することができず、米国はその気がなかった。
このシナリオが身近に聞こえるとしたら、それは当然だ。大恐慌からの話は国際経済の指導力についての現在の議論の中に反響を見出すことができる。今度は米国が英国の役割を演じ、中国が世界の最大の債権者として米国に取って代わろうとしてる。だが、もし、中国が今世紀の米国であるとすると、それは1930年代の米国よりももっと旨く仕事ができるだろうか?台頭する超大国がこの役割を演じる仕方が、どうしたら、世界が景気後退から脱出し、新たな経済秩序を形成するかを決定するだろう。
エコノミストのチャールズ・キンドルバーガーは、米国が1930年代初めに、保護主義の道をたどるよりは、投資に開かれた金融市場を維持し続けるために、最後の頼みの綱の貸し手として、振る舞うべきだったと主張した。米国は、相殺財政政策で世界経済を刺激すべきであった。
だが、大恐慌の時代には、米国が世界を救う重荷を担いたがらなかった説得力のあるあらゆる種類の理由があった。より多くの資金を欧州に送ることは、下水溝にお金を流すようなものだと思われた。結局、ヨーロッパ人達は、その前に世界大戦を戦ったが、それは財政的な失敗の原因だった。経済的に、ヨーロッパを援助することは、長期の視点からは多いに道理に適っていただろうが、政治的には短期的な利益のない失敗だった。
現在の金融危機の最中に、ポケットをふくらませた中国は、同じディレンマに直面している。その不機嫌を飲み込んで、われわれをこの状況に陥れた同じ国々を救済するのを手伝うか、それとも、まず自分自身の短期的な利害に注意するかどちらかというディレンマである。今日、改革されたIMFを通じて、国際的に調整された救済策に中国がもっと貢献して欲しいという要求がある。多くのエコノミストは、中国の成長率の推定を少なくしたけれども、中国はだけが、2009年も成長し続ける少ない国の一つだ。最後に、中国と米国は、十分に大きな国であり、財政的刺激への大きな力を出せる十分整えられた政府財政をもっている。(後略)
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「優しい想い出の宝」と題するチュービンゲン市立博物館の記事。

2009年03月29日 | 人物
1791年2月12日、ゲオルク・フリードリヒ・ヘーゲルは、彼の運命の重荷にひしがれていた。禿頭で、長い髭を生やし、老人の姿で、裸足で、修道服に身を包んで、二本の杖をついている。彼の友人のゲオルク・フリードリヒ・ファロットの信心深い願いが書き込まれている。「神がこの老人を助け給わんことを!Aさん万歳!」このとき、ヘーゲルは20才だった。(ヘーゲルのあだ名が「老人」だったことはよく知られています。訳注。)
ファロットが友人の立ち居振る舞いのぎごちなさと不器用さとを戯画化した絵は、ヘーゲルの記念帳に見出される。この記念帳は、当時、多くの学友と同様、この神学生ヘーゲルが携行していたものだ。これらの友人のアルバムには、友人や同僚、あるいは、地位の高い人物の名前が書き込まれているのだが、それは、17世紀の前半に、詩のアルバムの先駆者として現れ、その起源は、おそらくヴィッテンベルクにある。そこでは、ルターとメランヒトンが教えていて、ドイツ中から学生を惹きつけていた。既に1566年には、メランヒトンの最初の伝記作者であるヨアヒム・カメラリウスは、自分の本に献辞を書いてほしいという学生の願いに対して、メランヒトンが示した驚くべき熱心さについて報告している。この宗教改革者は、しばしば、数ページも献辞を書いたので、彼以外の人が書き込む場所がなかった。それゆえ、ヴィッテンベルク大学の学生達は、本の中に白紙を挿入して製本させ、そこに、後で、余り有名でない同時代人や自分の友人グループにも記帳をさせたのだ。
 ルターとメランヒトンの死後、すぐに、この記念帳の売買が始まったとき、献辞用の挿入紙は、本からは切り取られ、記念帳に挿入された。それは、1550年頃、既に、ドイツの広範な部分に広まっていた。次第にサインや献辞が書き込まれ、製本されたこの記念帳のコレクションや本の見返しがあの「優しい想い出の宝」となった。ゲーテが次のように書いたのは、1800年11月22日に彼の息子アウグストの記念帳が差し出されたときだった。記念帳がどのような役割を演じるのか息子に初めて説明せねばならないかのように、ゲーテはその使用法を4行詩に書いた。
「この本を恩恵を与える人に出しなさい。友人や遊び友達に出しなさい。
 そばを通り過ぎる急いでいる人に出しなさい。
 親切な言葉や贈り物をくれた人に出しなさい。
 優しい想い出の宝を積みなさい。」
だが、しばしば、記念帳は自分で旅に出て、所有者が旅行の途中で出会った人を書き留めた。コーブルク出身のヨハン・フリードリヒ・ヴァイスは、ライプチヒ大学の学生で、後にニュルンベルクで開業医になったが、彼は1625年から1633年まで、アムステルダム、ロンドン、ライデン、パリ、オックスフォード、ケンブリッジ、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、ヴェニスを旅行し、ヴェニスではガリレイと知り合いになった。ガリレイは、彼の記念帳に双曲線を書き、ラテン語で「私に近づいても、私は一緒には行かないだろう」(Accedens non conveniam.)と書き込んだ。
 ヴァルター・イェシュケの書いたた『ヘーゲル・ハンドブック』の伝えるところでは、若いヘーゲルは、学友の間では、非常に「キス好き」で知られていたが、若い女性との交際では、はっきり、不器用だった。ファロットの書き込んでいる「Aさん」というのは、当時、学生達の間で人気があったチュービンゲン大学教授の娘アウグステ・ヘーゲルマイアーのことである。ヘーゲルがどの程度、成功したかは知られていない。(以下省略)
[訳者の感想]『フランクフルター・アルゲマイネ』紙に載ったチュービンゲン市立博物館で現在開催中の「記念帳」の展覧会について書かれた記事です。ガリレオ・ガリレイの書き込みが残っていたというのが面白いと思いました。
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「原爆を二度生き延びた男」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年03月28日 | 人物
東京発:彼が想像もできない幸運を持ったのか、それとも単に運が悪かったのかまだ、当分、争われるだろう。93才の山口ツトムさんは原爆を二度体験したが生き延びたということはいずれにせよ信じがたい。
この特別な事情を日本の役所は、出来事があってから、60年経って、認めた。山口さんは第二次大戦に広島と長崎で二度のアメリカによる原爆攻撃のこれまで知られた只一人の生き残りである。
山口さんは、仕事で、広島に二ヶ月滞在した。1945年8月6日の朝、彼は二人の同僚である岩永アキラと佐藤クニヨシと一緒に早起きして、汽車で故郷に帰ろうとしていた。駅へ行く途中で、三人は別れ、山口さんは会社に戻ったが、それは幾つかの私的な用事を済ますためだった。旋回する飛行機が広島上空にいた。太平洋戦争の間、重要な供給基地であり、軍事基地だった広島では、珍しいことではなかった。山口さんは、原爆機「エノラ・ゲイ」の爆音を聞いた。8時15分、投下された原爆「リトル・ボーイ」が市の中心、580メートルの上空で爆発した。原爆の破壊力は、目も眩む閃光と想像を絶した振動によって示された。この空襲で、14万人がその場で、また数年後に放射能の浴びた結果死亡した。山口さんは上半身に大やけどを負った。その夜を彼は防空壕の中で過ごした。翌日、応急処置をして、彼は足を引きずりながら、駅へ行った。山口さんは、とにかく家へ帰りたかったので、一番手近の汽車に乗った。
長崎へ帰って、彼は雇い主の三菱重工に帰宅の報告をした。この軍需品の製造工場で、彼は当時オイル・タンカーの設計をしていた。8月9日、午前11時2分、彼は丁度上司に自分が広島でどんな目に会ったかを説明しようとしていたとき、第二の原爆が長崎に投下された。彼はまたもやそれから生き延びた。そこでは、7万人が犠牲となった。山口さんの息子は、59才でガンで死去した。だが、彼自身はまだ元気で、黒い目をして、短く刈った銀髪のこの人からは、多くの善意と智恵とが放たれている。耳だけが殆ど聞こえず、足の力も次第に失われたと、この93才の男性は語るのだ。彼の事例は、今や政府文書に記載された。「それは、若い世代にあの二つの空襲のひどい歴史を物語るでしょう、私が死んだ後も。」
 原爆の被害者と認定されると、犠牲者には援助が認められる。治療は無料だし、埋葬は、国が引き受ける。だが、二つの原爆を生き延びたということが証明された後も、山口さんの受け取るものは、変わらない。
[訳者の感想]ダニエル・シュミット記者の書いた記事です。この山口ツトムさんのことは、私は初めて聞きました。
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「アフリカの夢は終わった」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2009年03月27日 | アフリカの政治・経済・社会
2009年3月26日。コンゴの都市ルブンバシでは、何でも買えたのはそんなに古いことではない。新鮮なナミビアの牡蠣から、非合法で輸入された南アの自動車まで。過去数年間の原料ブームのおかげで、ルブンバシは、アフリカ大陸で最も物価の高い都市の一つに発達した。殆どすべての世界の大鉱山業者が当時、銅・コバルト・亜鉛・ウランの莫大な埋蔵量を求めて、コンゴにやってきた。アメリカの鉱山コンツェルンであるフルプス・ドッジ社だけで、ある銅鉱山に20億ドル(1940億円)を投資した。
現在、ルブンバシでは、失業が支配的だ。「中国人の商人によって経営された40の銅精錬所が放棄され、その所有者は逃げてしまった」とカタンガ州知事のモイーズ・カツンビは言う。少なくとも1万人の労働者はこのそうでなくても戦争と失敗した経済を刻印された地域で、彼らの新しい職場を失った。カナダのトロントで登記されている「カタンガ鉱業」は、2007年3月に経営を引き受けたカモト鉱山から出るコバルトの生産を中止して在庫量を減らしている。ロンドンで登記されているカメック社は、ルブンバシ近郊にあるムカンド鉱山で、コバルトの採掘とともに、銅の採掘も停止した。この企業は現在、トラック運送に集中している。自動車は、世界食糧機構の援助物資を運送する予定である。
ケープタウンのスタジアム建設。2010年に開催予定の「サッカー世界選手権大会」は、南アに僅かな成長しかもたらさない。
他のアフリカ諸国についても、経済情勢は、コンゴと同様である。多くの国々の経済は、世界経済の後退によって、深刻な危機に直面している。それは、この大陸の貧困者にとっては重大な帰結をもたらすだろう。アフリカ大陸における経済成長は、3%以下になるだろうと、「国際通貨基金」(IMF)の長官であるドミニック・ストロス=カーンは、少し前、タンザニアの首都ダルエスサラムで開かれたIMFの会議で予測した。5千万人以上の人間が、それによって、絶対的な貧困に再び落ち込むだろう。過去数年間の開発援助の大部分はそれでもって、元の木阿弥になるだろう。特に原料価格の急激な下落は、この大陸を弱らせる理由は、多くの国々が相変わらず単一か幾つかの地下資源にだけ依存しているためである。(以下省略)
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「ドイツの大学の新入生、記録的な増加」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年03月21日 | 大学問題
 大学で勉強することが、これまでなかったほど好まれている。新入生の数は、昨年、7%増えて、386,500人に達したとヴィースバーデンにある連邦統計局は述べている。特に単科大学が学生数の増加に見舞われている。アネッテ・シャヴァン連邦文部大臣は、数字を喜んでいると述べた。
 昨年、2003年の記録に対して9000名の新入生があったが、これは、2.4%の増加である。5年前の数字と比較すると、単科大学への新入生が増加している。新入生の数は、単科大学では、2003年に比べると21%増えて、13万3700名に達した。総合大学では反対の傾向が見られる。総合大学では、23万8100名が勉強を始めた。それは、2003年に比べると5.4%の減少である。
 シャヴァン文部大臣は、連邦と州が正しい道を行っていると見ている。「この数字は、若い人たちが大学で勉強する値打ちがあるということを理解していることを示している。」新入生の割合を同年代人口の40%にまでたかめるという目標は、達成間近だと彼女は言った。
 連邦統計局は、既に昨年秋に、最初の数字を公表した。今度はより多くのデータに基づくもっと正確な統計を提出した。
 総合大学と単科大学だけでなく、一つ一つの学科も違った展開を示している。2008年には、7万5800名の新入生が工科系の学科で勉強を始めた。これは2003年と比べて9.2%の増加である。法科、経済学、社会科学系では、新入生が、13万2700名に達したが、これは2003年と比べて6.2%の増加である。
 これに対して、数学と自然科学では、新入生は、6万4900名にとどまり、2003年よりも4.8%減少した。言語学と文化科学では、新入生の数は、6万8千人にとどまり、これも、2003年と比べると11%の減少である。
 新入生の中でドイツ人学生が占める割合は、82%で、この割合は、2003年には81%だった。単科大学は、外国人学生にはあまり好まれていない。単科大学ではドイツ人学生の占める割合は、87%に達している。特に国際的なのは芸術系大学で、そこには、ドイツ人学生は、59%しかいない。
[訳者の感想]新入生の数を4倍すると大学生の総数は、ざっと130万から150万ということになるでしょうか。ですが、ドイツの大学では中退者がかなりいるし、逆に4年以上かかって卒業する学生がかなりいるので正確な在籍数は、出しにくいと思います。
日本では数年前に大学進学希望者数が70万人を切ったと言われていました。日本の大学生の在籍数は、280万人を下回っていると推定されます。同年齢世代の50%ぐらいでしょうか。1960年代には、ドイツの大学生の出身階層は、中産階級が多く、農民階級や労働者階級出身の学生の比率は、5%ぐらいしかありませんでした。
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「連銀、1兆ドルを金融市場に投入」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2009年03月19日 | アメリカの政治・経済・社会
 連銀議長のベン・バーナンキは、数名のアナリストが「劇的」だと表現した決議に対するコメントで、「1月の発券銀行総裁会議以来、経済情勢はさらに悪化した。FRBは、この情勢においては、より悪い事態を防ぐために、利用できる手段をすべて利用するだろう」と述べた。
 昨年の攻撃的な公定歩合の引き下げ後に重要でなくなった公定歩合を、金融市場に対する連銀が利用できる公開市場操作によって、0%と0.25%の間の目標帯に維持することになった。この公定歩合はかなり長期に渡って維持される予定である。
 連銀は、米国金融市場での不良債権買い取りを拡大する用意があると宣言した。それに対して、7千500億ドルが用意されている。それでもって、連銀は、抵当証書つきの不動産債権を獲得するために、以前の購入に加えて、約1兆2500億ドルを調達する予定である。
 債権市場では、連銀の告知によって、利率が上昇し、ドルはユーロに対して安くなった。ダウ・ジョーンズ指数は、プラスに転じ、1.2%上昇して、7,486ドルになった。バーナンキ議長は、既に12月に、連銀が国債を買い取るかもしれないという可能性を示唆した。それによって、彼は銀行と国家に数十億ドルを供給しようとしている。(後略)
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「オバマ大統領、中間階層のための景気法案をまとめる」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年03月17日 | 国際経済
経済危機に対する戦いで、オバマ大統領は、信用収縮に悩むアメリカの中産階層を保護しようとしている。オバマ大統領は、新しい指令によって、中小企業に将来、寛大な融資をするように銀行への圧力を強めている。国家自体が、7300億ドル(70兆円)を寄付して、融資利息を下げ、中間階層の融資に対する担保を保証しようとしている。
それ以外に、政府は資本市場では買い手が見つからない小企業の負債を買い取ろうとしている。この企てのための手段は、既に可決された景気浮揚包括案によるものだ。
それ以外に、大統領は、国家の金融支援を受けた米国の21の大銀行に対して、毎月、小企業に対する融資額についての決算書を提出するように指示した。比較的小さい銀行は、四半期ごとにこの義務を実行せねばならない。国家の資本援助を受けなかった銀行に対しても、政府は、中小企業により多くの融資を与える「特別の努力」をするように要求した。財務省長官のティモシー・ガイトナーと並んで、オバマ大統領は、中間階層を米国労働市場における最も重要な動力の一つだと称した。
「これは正しい方向の巨大な一歩だ」と米国商工会議所の中間階層部門の所長であるジョヴァンニ・コラトロは述べた。計画された措置によって、銀行はより多くの融資を中間階層に対して行うだろう。「多くの小企業はそれから利益を得るだろう。」米国の被雇用者の70%は、中小企業で働いている。
連邦準備委員会のバーナンキ議長は、景気後退の克服が今年中にも可能であると見なしている。その前提は、銀行システムの安定化であるとバーナンキは、日曜日の晩に、CBSテレビで述べた。(以下省略)
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「逮捕された海賊は、ドイツへは来ない」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年03月10日 | 犯罪
ハンブルク・ベルリン発:ドイツ連邦軍によって「アフリカの角」で逮捕された海賊はやはり、ドイツでは裁判されない。9人のソマリア人は、火曜日に、護衛艦「ラインラント・プファルツ」からケニアの港町モンバサでケニア当局に引き渡される予定だ。その根拠は反海賊作戦「アタランタ」の枠内で逮捕された海賊の刑事訴追について先週金曜日に欧州連合とケニア政府の間に結ばれた協定である。
ケニアでの引き渡しへの道を土曜日に開いたのは、公海での犯罪を管轄しているハンブルク検事局である。検事局はドイツの逮捕状を請求していたが、結局、ドイツにおいてこれ以上海賊の刑事訴追を断念した。「詳しく検討した結果」ケニアでも海賊行為が処罰可能であること記事訴訟手続きを遂行する最低基準が確保されているという結論に達したと、検事局の当局者は、述べた。外務省は、ナイロビにあるドイツ大使館を通じてケニア政府とすでに接触している。海賊引き渡しのための申請が今日、大使館によって公布される。ケニアでは、同国の法に従って、海賊に対する裁判が行われる。
欧州連合が、ケニアに乗り換える理由は、海賊の多数の故郷であるソマリアには、内戦のために、国家の構造が存在しないからである。しかし、人権組織の「アムネスティ・インターナショナル」にとっては、「ケニアにおいて法基準が守られるかどうかは、部分的には疑わしい」とスポークスマンのダーヴィッド・バルテルトは、『ベルリン新聞』に述べた。
欧州連合とケニア政府との取り決めによれば、海賊達は、拷問されたり、死刑になったり、その他の残酷な刑に処せられてはならないことになっている。海賊達は、弁護士を呼ぶ権利があり、より上級の法廷で判決を争うことが認められている。「万一、法治国家の原則が、協定にもかかわらず、守られないようであれば、ドイツ司法だけが海賊の刑事訴追について責任があるかどうか、考慮されねばならない」と防衛省の国務次官であるトーマス:コッセンダイは述べた。他方では、現地には裁判を注意深く観察する欧州連合の大使館が十分存在している。彼は「彼らが故郷の近くで法廷に立たされるなら、そのほうがより意味があると考える」と述べた。(以下省略)
[訳者の感想]ケニアでの裁判が、欧州諸国の法基準に従って行われるかどうかに関心が移っているようです。
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「海賊に対する戦いの中で役割についての論争」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年03月07日 | 外交問題
ベルリン発:二つの省が、海賊との戦いにおける役割について争っている。内務省は、外務省に対して、これまで、拘留された海賊の訴追についてドイツと第三国との協定を結ばなかったという理由で、外務省の怠慢を非難している。外務省はこの非難を退けた。
両省でそれと分かる不機嫌の原因となっている対立の背景は、今週、火曜日にドイツの商船「MVクーリエ」を攻撃し、救助に駆けつけた護衛艦「ラインラント・プファルツ」号に逮捕された9人の海賊を巡っている。
 一昨日、同艦上に抑留されている9人逮捕者の取り扱いを巡って管轄を超えた研究委員会は、何の結論も出せなかった。昨日午後、公表された委員会の説明では、「連邦政府は、海賊容疑者達が、刑事裁判を受けるように第三国に引き渡されるかどうか、熱心に検討した。」この決定は、まだされていないけれども、『ヴェルト』紙の入手した情報によると、「ラインラント・プファルツ」号は、アデン湾から公海に出て、モンバサに向かって航行中とのことである。明らかに海賊達は、このケニアの港町で裁判所に引き渡されるはずである。
 内務省と外務省の言い争いに火を付けたのは、ヴォルフガング・ショイブレ内相の報道官であるシュテファン・パリスである。彼は、一昨日、シュタインマイヤー外相に率いられた外務省が海賊引き渡しと裁判に関する二国間協定を第三国との間で先月中に作成しなかったと述べた。欧州連合が2008年9月に連邦内閣で決議された反海賊軍事作戦「アタランタ」に対するこのような規定を取り決めたということが、欧州連合に対して十分に働きかけられなかったと述べた。
 外務省の報道官は、この非難を退けた。第三国協定についての欧州連合とケニア政府との間の取り決めについては、十分に話し合われた。その取り決めは、近日中に、署名される予定である。
 外交筋では、内務省の攻撃について、遺憾の意が表明された。ショイブレ内相の代理は、欧州連合レベルでの話し合いに参加していたが、二国間協定も必要だとは主張しなかったそうである。
 内務省では、フランスと英国は、同様に、このような二国間協定を持っていると主張されている。しかし、そのような協定は、欧州連合との話し合いによって、ドイツにとっては不必要だと外務省は述べている。
 ベルリン政府は、難民申請に対する配慮から、海賊を裁判にかけたくない。確かに、「MVクーリエ」号はドイツの船であるが、それはドイツの国旗を掲げておらず、ドイツ人の船員もいない。それゆえ、「ドイツが刑事訴追する十分な利害関心はない」とパリス報道官は主張した。
 けれども、公海での海賊行為に対して責任を持っているハンブルク検事局は、水曜日に、船舶航行に対する攻撃未遂のかどで容疑者の逮捕状を請求した。
[訳者の感想]海賊を逮捕したのはいいが、そのあとどうするかで、外務省と内務省とがもめています。内務省はドイツで裁判にかけたいのでしょうか。そんなことをすると釈放されたあとで、元海賊がドイツに難民申請する可能性は大きいと思いますが。
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「政治改革は期待できない」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2009年03月06日 | 中国の政治・経済・社会
3月5日、北京発:木曜日に始まった。中国の全国人民代表者会議は、危機の印象のもとで行われている。中国のすべての省から来た3千人の代議員は、政府が低くなった成長、減少する輸出・増大する失業者という問題にどのように対処するのか自問している。会議の冒頭で、温家宝首相は、経済的発展について詳しく述べた。経済危機にもかかわらず、中国は、今年度の景気対策で、8%の成長を到達するつもりだと温家宝は述べ、4千億ユーロ(48兆円)に達する経済活性化のための予算を説明した。第二の対策が告知されるかもしれないという全人代が始まる前の予想は、裏切られた。
9500億元(1110億ユーロ)の追加支出によって、人民中国は、今年、その歴史始まって以来最高の赤字が出るはずである。しかし、それは国民総生産の3%に過ぎないと温家宝は述べた。水曜日には、全人代は、防衛費の増額を可決していた。それは14.5%増加する予定である。
専門家は、成長率が4-5%にとどまるかもしれない見なしている。8%の成長率が到達可能だという温家宝の告知は、「目的楽観主義」だと理解される。確かに、政府も昨年は8%の成長を予想していたが、目標以上に成長率は増大した。
2009年は、中国にとっては、21世紀が始まって以来、もっとも困難な年だと温家宝は述べた。「われわれは改革・発展・安定性の促進において、重要な課題を前にしている。中国の経済的社会的発展の長期的には積極的傾向は、危機にもかかわらず、妨げられていない。われわれは、困難と挑戦に打ち勝つことを確信している」と温家宝首相は述べた。公式の推定では、2千万人の労働者が職を失った。(以下省略)

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「ドイツ海軍、ソマリア沖で海賊船を拿捕」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年03月05日 | 犯罪
CHASM
坂本龍一,坂本龍一,David Sylvian,MC SNIPER,Arto Lindsay
ワーナーミュージックジャパン

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ベルリン発:ドイツ海軍は、ソマリア海岸への派遣後、初めて、海賊達を逮捕した。アデン湾で、護衛艦「ラインラント・プファルツ」の派遣後、9人の海賊が拘置されたと、ドイツ連邦軍の派遣司令部が、3月4日午後に発表した。海賊が商船を攻撃した際にも、ドイツ水兵が彼らのボートを乗っ取った際にも、負傷者や器物の損害はなかったと、報道官は述べた。海賊達は、護衛艦の船内にいる。
ドイツ連邦政府は、初めて、海賊の拘留で何が起こったかを決定しなければならない。これは法的には高度に複雑であると思われる。なぜならば、ドイツの法的利害がどこまで及ぶか、海賊は他の国に引き渡されねばならないか、それとも、ドイツで法的に裁かれるべきかがまず明らかにされなければならない。内務省、法務省、防衛省、外務省出身の4人の政務次官からなる特別委員会がこの件を吟味する。
連邦軍の報道によると、ドイツの海運会社「ヴィンター兄弟」の商船「MVクーリエ」は、昨年12月7日、対戦車砲と銃で武装した海賊によって攻撃されたというSOSを発信した。米国海軍とドイツ海軍とは、救助のため、ヘリコプターを飛ばした。「ラインラント・プファルツ」号は犯行現場からなお50海里離れていた。ヘリの乗員は、海賊の攻撃を阻止した。そのすぐ後、ドイツ海軍の護衛艦が海賊船に接近し、海賊船に飛び移って、証拠物件を確保し、9人の海賊を護衛艦に留置した。海賊の一部はスーダンから来たと述べている。攻撃された商船の乗組員は一部フィリピン人である。
[訳者の感想]拘留した後、どのように法的に処分するのか、法的に処理するのに時間がかかりそうです。スーダン人がいるとすると、やはりこれは儲かるというので、アフリカの食うに困った人たちが、ソマリア沖で海賊をやっているというのが実情でしょうか。
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