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海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「イラク政府、外出禁止令を発令」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年02月25日 | イラク問題
バグダッド発:2月24日、イラク政府は、バグダッドとその周辺における殆ど24時間の外出禁止令で、イスラム教宗派の間のこれ以上の暴力行為の増大を防ごうと試みた。午後の4時まで首都とそれに接するディジャラ、バビル、サラヘディン州の市民は、家に留まらなければならない。中心部の道路は殆ど人気がなくなった。しかし、市の周辺部では、衝突が起こった。警察の報告では、バグダッドでは、一晩に20人が殺された。明らかに目標を定めた行動で、過激派は、24日朝、バグダッドのある場所で3人のシーア派住民が殺された。そのうちの一人は女性である。
外出禁止令は、夜間から午後四時まで延長された。この異常な措置の目標は、更なるテロ攻撃の可能な目標であるモスクの参詣を人々に思いとどまらせることである。夕方20時からは、再び夜間の外出禁止令が施行される。水曜日と木曜日には、テロ攻撃で、バグダッドとその周辺では、約200人が殺されたが、その大部分はシーア派住民である。それに先立って、シーア派信者にとって重要なモスクである、サマラの「黄金のモスク」が攻撃された。
宗教的指導者達は、シーア派とスンニー派の信者に統一するように呼びかけた。バグダッドの最大のスンニー派のモスクのイマムであるアフメド・ハサン・アル・タハは、サマラのテロ攻撃を断罪した。影響力のあるシーア派の政治家アブドル・アシス・アル・ハキムは、サマラのテロリストはイラクのスンニー派を代表していない断言した。彼は失墜したフセイン元大統領とアルカイダの追随者に行為の責任があると述べた。
外出禁止令にも関わらず、バグダッド南部では戦闘が行われた。それは明らかに過激なシーア派民兵とスンニー派の間の衝突であった。首都のサイディジャ地区では、住民によると、過激派は、夜中に撃ち合いを演じた。この地区では、両方の宗派の住民が直接隣り合って暮らしており、そのために繰り返し緊張が高まっている。
過激なムクタダ・アル・サドルの指揮下にあるシーア派民兵の牙城である首都のサドル・シティでは、人々は外出禁止令を無視して、民兵に促されて何千人もモスクに流れ込んでいる。サドル師と他のシーア派指導者は、平静を保ち、秩序を守るように要求している。だが、彼らの民兵は、多数、武装して街頭を闊歩しており、自分たちで勝手に道路を封鎖し、治安警察の命令を意に介さない。
バグダッド南西のラティフィア地区では、過激派は、シーア派家族の家に押し入り、男性2人と女性1人を殺し、子供2人が負傷した。前日、過激派は、同様の手口でスンニー派の女性1人を殺した。
これからの展開にとって重要なのは、治安警察が外出禁止令を維持し、政府の権威を保つことに成功するかどうかである。少なからぬ兵士と警官は、彼らが本来暴行を阻止すべき民兵のメンバーであった。13万名の兵士を擁するアメリカ軍は、引き続き背後に退いている。
「もし、事態が進行すれば、内戦が起こるだろう。そうすると人々は武器をもってベッドに入る事態になるかもしれない」と街頭に現れたわずかな市民の一人は言った。交通警官のアハメド・モージエは、このような見通しを恐れている。「どうして、内戦なんか起こるのか?私はシーア派だが、妻はスンニー派なのに。内戦になったら、私達は前線をはさんで対立することになる。」
シーア派連合の代表が言うには、「数十年のサダム・フセインの独裁政権と過去数ヶ月のテロ攻撃の後で、怒りと復讐と底知れない不信に基づく爆発を引き起こすには、ちょっと火花があれば十分だ。」事態は急速にコントロールできなくなるかもしれない。攻撃が更に続けば、シーア派を押しとどめるものは何もない。イラク南部でシーア派が多数を占めるバスラのような他の地域では、人々は、週末のために普段どおりの準備に取り掛かっている。すべては、正常な印象を与える。シーア派の聖職者は、金曜日の礼拝にはモスクがいっぱいになることを期待すると言った。
[訳者の感想]どうもシーア派とスンニー派の対立はのっぴきならないところまで来たようです。イラク政府は、どうやって両派を自制させることができるのでしょうか。内戦になったら、アメリカ軍は撤退せざるを得ないのではないでしょうか。クルド人地域はどうすうるのでしょうか。
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「アルカイダの雇用契約書」と題する『シドニー・モーニング・ポスト』紙の記事。

2006年02月23日 | テロリズム
それは給与、有給休暇、引っ越し料、葬式手続きについて書かれた雇用契約書であるかもしれない。但し、この場合、雇用者はアルカイダであり、新兵の仕事は、「ジハードを遂行すること」である。
契約書にサインすることによって、新兵は、アルカイダの標的となる。「神の宗教を支持し、イスラムの規則を守り、イスラムのカリフ制を回復すること。」
この契約書は、アフガニスタンとイラクでアメリカ軍が押収した何千もの文書の一つであって、国防省のデータ・ベースに収められている。
28の初期の実例は、ウエストポイントにある米国軍事大学の「対テロ・センター」で機密文書からはずされて、公刊された。
この文書は、「アルカイダ」の内部構造を説明し、彼らの戦術についての議論に光を当てる。それらの文書はまた1982年のシリアにおけるイスラム主義者の粉砕のような過去の失敗を分析しており、ジハードのための新しい領域について思弁を巡らし、ソマリアから米軍を追い出した際のアルカイダの役割についての宣伝が足りないことを嘆いている。
ある文書は、アフガニスタンにあるアルカイダの砦が失われたことについての落胆を暴露している。アブデル・ハリム・アドルと名乗る書き手は、「ムクタール」と呼ばれる人物にオサマ・ビン・ラディンの頑固さと多数の兄弟達が捕虜になったことについて苦情を述べている。
「われわれは世界の笑いものになるだろう」と彼は言う。彼はアルカイダに「行動に走るのを止めて、六ヶ月の間にわれわれを悩ませた相次ぐ致命的災難を全部考える時間を与えるように」要求している。
ウエストポイントの軍事大学は、これらの文書はアルカイダについて重要な知識を与えると付け加えている。
最も重要な文書は、アルカイダの徴兵政策を暴露している。「雇用契約」は、徴兵の必要条件をリストアップしている。必要条件は、従順、秘密厳守、他のグループとの結びつきを避けること、身体的に健康であること、宗教・道徳問題で完全であること、アルカイダへの誓約を暗唱することなどである。
アルカイダの内規の草稿の一つは、妻一人が加わる毎に1か月700ルピーが追加支払いされる。結婚したメンバーには、家具を購入し、ヘルスケアのために2万ルピーが支払われる。
内規は、「エミール」と「司令官会議」を先頭にする組織構造を記述している。それは「対外関係部」や「執行会議」や「軍事委員会」や「治安委員会」や「政治委員会」に分かれる。
「軍事委員会」には、「核兵器部門」があるが、それ以上の詳しい説明はない。
仕事の記述は、詳しく述べられている。「エミール」を特徴づけるために、「指導者(恐らくビン・ラディンを指す)は、余りにエミールであろうとしてはならず、責任を遂行するのに十分な知識を持たねばならない」と述べている。
「軍事委員会」の議長は、40歳以上でなければならず、大学卒で、できれば、軍事大学の卒業生であることが望ましい。」
テロリズム・センターの研究所長であるジャッレト・ブラクマンは、サウディ・アラビアにいるアルカイダの支部や、東南アジアの「ジャマー・イスラミア」のような過激派グループは、今なお、形式的な雇用契約を使用していると考えている。
広報宣伝に対するアルカイダの注意は、明白である。2000年6月にアフガニスタンのカンダハルで書かれたビン・ラディン宛の覚え書きは、もっとよいプロパガンダの重要性を強調している。書き手の「アブ・フテイファ」は、ビン・ラディンを「スター」だと賞賛しているが、アルカイダが政治的空白に罹っていると不満を述べている。
[訳者の感想]アルカイダが一体どういう風な組織を持っているのかこれまで分かりませんでしたが、この押収文書の公開で、少し分かったように思います。しかし、テロ組織としてはともかく、政治的組織としては余り十分な体制を整えているようには見えません。それでも自爆テロの志願者が後を絶たないのはなぜでしょうか。
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「家禽が鳥インフルエンザに罹った」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年02月23日 | 健康
ボン発:オーストリアで、家禽が鳥インフルエンザに罹った最初の例が現れた。しかし、役所は、これを個別のケースと見なし、他の鳥類への危険はないと見ている。
シュタイヤーマルク州の州都グラーツに近い動物園で、ニワトリとアヒルに人間にも危険なH5N1ウイルスが特定されたとシュタイヤー州の土地森林経済相のヨハン・ザイティンガーが述べた。
二羽のニワトリと三羽のアヒルが禁じられているのに近隣から「ノアの箱船」動物園に持ってこられた白鳥と一緒にされたと、同相の報道官ヨゼファ・ウムンドムは述べた。「われわれの見方では、これは個別的なケースです」と彼女は言った。国内の鳥類の集団への感染を示すも手がかりは何もない。
「ノアの箱船」動物園は、白鳥を引き取ったが、これを役所に届けなかった。白鳥が発病した後、同動物園は30羽の鳥類を州政府の指示にしたがって殺した。「この白鳥が明らかに他の動物に病原体を感染させた」と報道官は述べた。この白鳥は他の鳥類とは接触しなかった。野生の白鳥が鳥インフルエンザに罹った最初の例は、2月中旬にスロベニアとの国境に現れた。それ以後、オーストリアでは、鳥類を鳥小屋に閉じこめる義務が課せられている。
国連の専門家達は、野生の鳥類や渡り鳥にだけ鳥インフルエンザを広めた責任があるとすることに対して警告している。「これまでの科学的認識は、H5N1ウイルスがアジアのニワトリ集団から広まったことを示している」と移動性動物に関する国連協定(CMS)の執行官であるロバート・ヘップワースは述べた。鳥類の輸送や鳥類の飼育がひょっとしたらこのウイルスが世界中に広まった主たる原因であるかもしれない。だから、野鳥を殺すことは、間違った試みであり、納得のいく解決策ではないと彼は述べた。
「鳥インフルエンザを渡り鳥のせいにするのは間違っている」とヘップワースは言った。もっと研究が必要だ。インドでは、渡り鳥は、病気の発生よりもずっと前に昨年9月に来ていた。渡り鳥の北から南への飛行ルートと東南から北西への通り道とにはウイルスが南ヨーロッパに到達するには僅かな連関しかない。野鳥は、鳥インフルエンザに対する人間の感染とは無関係である。また、いくつかの野生の鳥類は、H5N1に感染しても発病しない。
ヘップワースによると、「国連環境計画」(UNEP)とボン駐在の「コンベンション」(CMS)とは、各国政府のために科学的推奨を策定しようとしている。そのために、4月10日と11日にケニアのナイロビで会議が開かれる。さらにUNEPは、「コンベンション」に、鳥の移動経路と渡り鳥と家禽との間の可能な接触の焦点を研究するために、初期警戒システムを作成するように依頼した。
[訳者の感想]鳥インフルエンザ・ウイルスがヨーロッパに来たので、国連も本腰を入れて対策を講じようとしているようです。
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「中国の鳥インフルエンザとの謎めいた一致」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年02月21日 | 健康
ベルリン発:バルト海のリューゲン島と中国の青海湖とは、何千キロも離れている。にもかかわらず、ドイツのコブ白鳥は、昨年、中国の何百という鵞鳥や鵜や鴎を殺したヴィールスに罹っている。
中国の5600平方キロの面積をもつ塩湖「青海湖」の岸で鳥の死骸が見つかった。それは渡り鳥で、その同類は昨年9月に一部、ミヤンマーへ、ヒマラヤを越えてインドに冬の宿営地を求めて飛行した。最近、ドイツで最大の島であるリューゲン島から冬中多分移動しない土着の野鳥が突然ばたばたと倒れた。
どういう仕方でこの鳥インフルエンザの病原体がヨーロッパに到達したかは、まだ不明である。だが、H5N1というヴィールスは、何らかの仕方でこれをやってのけたのだ。「遺伝子の特定の領域は、中国の変種と99%一致している」とヴィールス学者のオルトルート・ヴェルナーは言う。ギリシャ、クロアチア、ルーマニア、トルコでもこのヴィールスのタイプが確認された。これらの国々では、野鳥がこのヴィールスの犠牲となった。このヴィールスがドイツにも現れたことは驚きではない。それは予想された。ボスニアでもこのヴィールスで死んだ鳥がいるかどうかは、英国のウエイブリッジにあるEU研究所の調査が明らかにするだろう。まだ、このヴィールスは、鳥の病原体であって、例外的にしか、人間には感染しない。但し人間に感染すると死亡率は50%に達する。リームス島に滞在している国立研究所の所長と協力者達は非常に忙しい。ドイツ連邦共和国で発見された死んだ鳥は、すべてフリードリヒ・レフラー研究所に届けられる。短期間に81例が集められた。確かに、ヴィールスはこれまで死んだ野鳥にしか見出されない。生きた動物についての数多くのテストは、これまですべてネガティブであった。それゆえ、リヨンの北東部で発見された野鴨やナイジェリアとインド西部での鳥インフルエンザのばらばらの出現は、謎めいている。それらの国では、5万羽の鶏が死んだ後で、50万羽の鳥が処分された。ヨーロッパでは、役所は、H5N1が家禽に伝染しないようにあらゆる努力を払っている。鳥インフルエンザを食い止めることは端的に不可能である。
目下、この疫病は、冬の天候を利用している。低温は、ヴィールスを安定に保つ。ヴィールスは、感染した鳥の糞とともに危険な濃度で水中に到達する。氷が鳥を集める限り、水面にできた氷の穴は、鳥の集まる場所として危険を孕んでいる。コブ白鳥のような大きな鳥が感染するためには、ヴィールスの量が多くなければならない。実験によれば、鶏と比べて、鴨が感染するには十倍の量を必要とする。感染後、生き延びた動物は、ヴィールスをばらまく。科学者達は、病原体の変種を調査し、鳥ヴィールスの謎を解こうとしている。だが、全体像を理解するには、決定的な証拠が足りない。そういうわけで、どの鳥がヴィールスをリューゲン島やスロベニアやシシリー島に持ち込んだか、分からない。事実は、発病した鳥が舞い降りたに違いない。彼らは長距離を超えて飛ぶことは出来ない。ラトビアで足輪をつけられた白鳥に疑いがかけられているが、この国ではこれまでH5N1は存在したことがない。
[訳者の感想]北ドイツでは、鳥インフルエンザで死んだ野鳥が見つかり大変な騒ぎになっているようです。どうも中国の青海湖にいた渡り鳥がヴィールスあちらこちらに運んだらしいと考えられています。
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「米国は、サダムと同様、野蛮だとビン・ラディン」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年02月21日 | イラク問題
ドバイ/カイロ発:インターネットにアルカイダの首領オサマ・ビン・ラディンの新しいヴィデオテープが公開された。その中で、彼は米国の暴行や人質や残酷な拷問を非難し、米国がイラクでは失脚したサダム・フセイン元大統領と同じぐらい野蛮に振る舞っていると非難した。それと共に、彼は自分は決して生きたままでは捕まらないだろうと述べた。
 この録音は、カタールにあるアラブ系テレビ局アル・ジャジーラが1月に部分的に放映したヴィデオの一部である。この中で、ビン・ラディンは、アメリカにおける新たなテロ攻撃で脅迫した。昨日、月曜日に、アルカイダの広報部だと思われているメディア・グループ「アル・サハブ」は、録画全部を英語の声でインターネットに載せた。本物かどうかは、さしあたり、裏書きされていない。ヴィデオの声は、最初に公表されたとき、CIAによってビン・レディンの声だと突き止められた。テロリスト指導者の現在の居場所は、不明である。彼はアフガニスタンとパキスタンの国境地帯にいると推定されている。
月曜日に公開された録画では、ビン・ラディンは、ブッシュ大統領を「自由の者」と呼んだ。「私は自由の中でのみ自分の人生を送ろうと誓った。私が死の味を苦いと感じた場合でも、私は屈辱を受け、欺かれて死にたくはない」とビン・ラディンは述べた。イラクにおけるアメリカ軍とその手先のやり口は、野蛮であり、抑圧的である。しかもその程度たるや「この犯罪行為とサダムの犯罪行為との間には言及に値する区別はないほどである。」アメリカ政府は、元イラク大統領に対してアルカイダとの接触を取っていたとし、それでアメリカの対イラク戦争を正当化したきた。月曜日に公開されたビン・ラディンのコメントは、彼がアルカイダとサダム政権との間の区別をしようとしていることを示唆している。
この録画は、アメリカがイラクにおける役割のせいで新たな批判に曝されている時期に公表された。アメリカ軍が管理している「アブグレイブ刑務所」における虐待の新しい写真やビデオが公開のきっかけとなった。
[訳者の感想]アルカイダの宣伝部もなかなかタイミングを捉えるのが上手なようです。
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「『氷点週刊』は復刊させるが、編集長は更迭」と題する『ワシントン・ポスト』の記事。

2006年02月18日 | 中国の政治・経済・社会
北京、2月16日発:中国共産党は、政治的に敏感な主題を報道したために刊行停止にした
『氷点週刊』を来月復刊するのを許可することに決定した。だが、共産党は、中国ジャーナリズムの中で最も大胆な発行物の一つにその記事を載せた二人の編集者を更迭した。
 この動きは、国営の『中国青年日報』の4ページの週刊付録「氷点週刊」を閉鎖するという先月の決定に対する批判をかわす党指導部の試みであると思われる。他方で、メディアに対する統制を強化するキャンペーンを押し進められている。
 付録の編集長李大同の言うところでは、官憲は、彼と『青年日報』の編集者のル・ユエガンは、彼らの地位を奪われ、『青年日報』の曖昧な調査部に異動させられた。彼が言うには、その上、「氷点週刊」は、発行停止の引き金を引いた論文の著者袁偉時を攻撃する記事を載せるように要求されている。
 「氷点の魂は消えた。からっぽの殻だけが残っている」と党宣伝部の活動に対する党の調査を請願した李は述べた。スタッフのあるメンバーは、3月1日に発行予定の「氷点週刊」の次号を製作するのを手伝うのを拒否するかもしれないと付け加えた。
 退職した官僚と学者の小さなグループが「氷点」を支持し、ブラックリストによって、新聞への統制を強化せよとする非合法で考え方の間違ったキャンペーンだと考えられるものを批判するアッピールを共同で公開した後で、党の決定は行われた。
 2月2日付けの公開書簡は、もし、共産党が新しいメディアが問題を暴露し、公的議論を促進するのを許さなければ、党が増大する社会不安に対応することはもっと困難になることがわかるだろうと主張した。この書簡に署名したのは、尊敬は得るが、もはや大きな影響力は及ぼさない党の改革派の重鎮、例えば毛沢東主席の元秘書だった李鋭やかって党の宣伝部長であったチュウ・フウチェである。
 最近、共産党は攻撃的なリポートで知られた他の三人の編集者を更迭した。この動きは、三年前から国家主席となった胡錦涛の政府によって企てられた長期的なメディア弾圧の強化をしるしづけた。
 「氷点週刊」は、1月24日に刊行停止となったが、その理由は、中国史における歪曲が危険なナショナリスト感情に油を注いでいると主張する袁偉時教授の論文を掲載したためである。だが、このセクションは、その積極的な報道に対して反対する党宣伝部の官僚によって圧力を加えられていた。
[訳者の感想]党の長老の中にも改革派がいて、胡錦涛の保守的路線に反対しているようです。
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「中国の保守派、突撃ラッパを吹く」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年02月16日 | 中国の政治・経済・社会
北京:中国の中央の宣伝部が、好ましくない編集長を解任したり、新聞や出版社を懲戒処分しようと決定する場合はいつも、センセーションを引き起こさないことを確信することができた。胡錦涛主席のもとでの三年前から支配している党指導層によって、犠牲者は、暗黙の内に規律に服させられた。だが、現在、検閲と禁止の事例が次々と現れている。初めて、何人かの勇気のあるジャーナリストが、首をすくめるつもりはない。そういうわけで、北京の編集者達は、ヤン・ビン編集長の解任に対して連帯した抗議で応えた。彼は影響力のある地方新聞『新京報』を指揮していた。北京で発行されている人類愛的な『ゴンイ・シバオ』の編集長であるチェン・ジーレンは、先週、黙って罷免されなかった。公開状で彼は、彼の新聞の社会批判的な方向付けによって彼が如何に敵を作り、彼らが彼を失墜させたかを詳しく述べた。
 最近の『氷点週刊』の閉鎖は、もっと強力なセンセーションを引き起こした。それは10年前から共産党の青年新聞の中に掲載された週刊付録である。きっかけとなったのは、1月11日に『氷点』が公刊した論説である。75才の中山大学の哲学教授である袁偉時は、教科書において中国史の叙述がイデオロギー的に操作されていることを批判した。日本に対して非難された歴史の偽造を引き合いに出して、彼は共産党に自分のことも反省すべきだと要求した。指導部は、『氷点週刊』を発刊停止にした。付録に責任を持つ李ダトンは、中国共産党に公然と彼らの決定を引っ込めるように要求した。更に彼は文書で党に異議申し立てをした。中央委員会の宣伝部のイデオロギーは、彼らの恣意的な行為の故に憲法違反であると彼は主張した。「彼らは乱暴にわれわれの党規約や法律や権利を足で踏みにじった。」
 李は、中央委員会の機関誌『人民日報』の元編集長である90才のフ・ジウェイから支持を得た。毛沢東の秘書であったリ・ルイのような他の有名人と同様、彼は李編集長に味方しただけでなく、公開状の中で共産党の党首である胡錦涛主席を批判した。『氷点週刊』の発行停止は、胡錦涛の承認によってのみ許可されたのだと。胡錦涛の宣伝部は、文化大革命の時のように、恥辱の帽子を配り、暴れ回っているのだと。
 ますます多くの中国の改革派の人々は、「調和のある社会」を説いている胡錦涛の周りの北京の指導層が古い方法に手を出すのではないかと不安に思っている。ある党幹部は、『ヴェルト』紙の記者に「党首脳部は、改革の拡大に対して反対派を形成している保守的な批判者達に圧力を加えられている」と述べた。社会的格差と不正義とは彼らのイデオロギー上の武器となっている。三月には、全人代は、次の五カ年計画を議論する予定である。改革と解放が行き過ぎたと考える批判者達は、デン・リジュンのような左翼正統派イデオローグの周りの幹部グループの中にいるだけではない。彼らは社会科学院のようなシンク・タンクにも代表されている。その専門雑誌において、マルクス主義研究家のチュウ・シンチェンは、ある論文の中で、「新自由主義は、調和のある社会の敵である」と述べて、内部からの平和的政府転覆の危険を警告した。共産党は、改革や寛容でもって行き過ぎてはならない。北京の決定権を持つ人々のところでは、今後どうやっていけばよいかについて不安がある。『人民日報』の元編集長チュウ・ルイジンは、「フアン・プピン」という偽名で経済雑誌『チャイジン』の中で更なる改革に賛成した。こういう仕方でしか問題は解決されないだろうと彼は言う。1991年に既に彼は静止状態に対して警告した。当時、指導部は、1989年の天安門事件の後、コントロールを失うことを恐れていた。
[訳者の感想]中国内部でも改革派と保守派の闘争が熾烈になっているようです。
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「カリカチュアは、モスレムの間に民主主義論争を引き起こしている」という『ヴェルト』の記事。

2006年02月15日 | 国際政治
イスタンブール発:カリカチュア騒動における最初のイデオロギー的な衝突の後で、あちこちで、より繊細な議論が際だっている。イスラム諸国では、より憂慮した声が声高になりつつある。彼らは、自分の国の独裁政治や政治家の腐敗に対して抗議する勇気を奮い起こすことは稀であるのに、なぜ何百万ものイスラム教徒が数枚のカリカチュアのために街頭に繰り出す用意があるのかと問う。
答えは、一見簡単である。とのような独裁政治に反対するようなデモは、治安部隊によってたたきのめされるが、手にレシーバーを持った、同じ治安部隊がカリカチュアに抗議するデモ隊を自分で組織したからである。
かなり多くのアラブ系新聞や特にウエッブログに見られるカリカチュアによって引き起こされた憂慮は、注目すべき知的な抗議である。その間に、多くのイスラム教徒がカリカチュアを見た。ヨルダン、イェーメン、エジプト、アルジェリアのいくつかの新聞は、カルカチュアをリプリントした。そのために、編集長が告訴され、首になった。しかし、特にカリカチュアは、イターネット上のアラビア系のブログで見ることができ、そこで何百万回もしげしげと見られた。一万人のインターネット利用者がそれをイーメイルを使って互いに送りあった。
レバノンの新聞『アス・サフィール』には、同国のシーア派のイスラム教徒75万人がデモをした後で、アリ・マフディと名乗る読者の手紙が掲載された。「われわれがカリカチュアに対して抗議するために、これらの連帯を目にしている。まるでこれらのカリカチュアだけが予言者ムハンマドを侮辱したかのように。一体不正義や拷問や文盲や自由の制限は予言者に対する侮辱ではないのだろうか?」印刷されたメディアは、たいていのアラブの国々では検閲を受けるから、このような読者の手紙は、大胆さの限界である。これに対して、インターネットでは、エジプト人ブロッガーによる「愚かな行動に反対するキャンペーン」が形成された。あるイスラム教徒の読者がイスラム教を平和と知識と民主主義の宗教として西欧にも広めることが重要であると彼を非難したとき、彼の答えはこうだった。「それは、確かだ。だが、われわれ自身の国からそれを広め始めるべきだ。一体、どのイスラム国が民主制なのか?」
「愚行に反対するモスレムの革命家達に属しているのは、「エジプトに自由を」というブログを管理する一女性である。「イスラム教徒は、腐敗した政府が彼らの金を盗み、彼らを悲惨に追いやっているときに、あるいは毎日搾取されている何百万もの子供達がいるときに、なぜこのように激昂しないのか?」そしてなぜ法律に守られた自由のなかの生活のためにイスラム教徒はデモをしないのか?
もう一つのエジプトのブロッガーは、「万人のための正義」というウエッブサイトを管理している。彼は次のように書いている。「警察の車が私のそばを通るたびに、怖じ気づくとしたら、預言者を賛美するために何百万もの手紙を書くことが何の役に立つのか?」
これらのブログの中の最も目立つものは、文化の対話の場所になった。それはこれまでカリカチュア論争において欠けていたものである。何百もの西欧とイスラムの読者は、書き込みに反応した。必ずしもいつも理解が成り立ったわけではないが、イスラム教徒には、民主主義理解と寛容を、西欧の読者には他の宗教に対する尊敬を要求する対話が展開される。
ロンドンで出ている汎アラブ主義の新聞『アル・ハヤト』のコラムニストであるジハド・アル・カーゼンは、カリカチュア論争のパラドックスを指摘する。彼が遺憾とする点は、「十億のモスレムが皆カリカチュアは、彼らを侮辱していると考えているが、民主主義というテーマについては、それと比較できる同意は存在しない。民主主義なんて西欧の産物だと非難する者が多い」ことである。
[訳者の感想]最後のアル・カーゼンの指摘するパラドックスは、ある意味でイスラム世界のパラドックスではないでしょうか。民主主義が西欧の産物であってイスラム教国には相応しくないと考えている限り、西欧とイスラム世界との間に、本当の理解は成り立たないように思われます。
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「西欧では新たな傲慢が、目覚めた」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年02月13日 | 国際政治
--猊下、イスラム世界とのカリカチュア論争の中で起こった怒りと暴力の爆発の後でどのように結果を総括されますか?
マルティノ枢機卿:豊かな先進国では、他文化に対して何の敬意も持たないある傲慢さが台頭しました。安易な笑いのために他の文化を侮辱するカリカチュアは、単に傲慢なだけです。
--モスレムの心を燃え上がらせるために、暴動が意図的に操作されているという指摘についてはどのように言われますか?
マルティノ枢機卿:対立は明らかに道具に使われています。けれども、対立の口実は、銀のお盆に載せられて運ばれました。ユダヤ教やイスラム教の文化では、神の像を描くことは許されないということは誰でも知っていることです。イスラム教では預言者マホメットは、描かれてはならないということも誰もが知っていることです。
--では、言論の自由はどうなるのですか?
マルティノ枢機卿:表現の自由の権利には、そこから他者の合法的な権利が始まる限界があります。
--あなたは憂慮しておられますか?
マルティノ枢機卿:ええ、なぜなら、ヨハネス・パウロ2世は、イラク戦争がキリスト教的西欧とイスラム世界との衝突だと誤解されないように、大変努力されたからです。それに対して感謝するために、インドネシアにまで至る代表団がローマに来ました。それほどうまく教皇はその目標を追求されたのです。
--今、必要なのは何でしょうか?
マルティノ枢機卿:宗教上の敏感さ、人間らしい敏感さそして政治的な知性です。
--西欧は臆病でしょうか?
マルティノ枢機卿:それはどういう意味ですか?もっと重要なのは、西欧が他の文化をその状況や歴史や尊厳の点で理解し、敬意を払うということをどうしたら達成できるかという問題です。
--モスレム社会はあなたにどんな印象を与えていますか?
マルティノ枢機卿:私たちのところで観察されるようなある宗教的な覚醒があります。それはさしあたり良いことです。ですが、西欧には傲慢さの復活もあるのです。けれども、私たちは、世界の一部が近代的発展において非常に遅れてるので、そこでは残りの世界が自分たちを置き去りにしたという意識が強くなったということをはっきりさせなければなりません。このような人たちを助け、彼ら自身の未来の主体となり、客体とならないためには、西欧は何ができるかということを問わなければなりません。
--「対話」という概念は、余りに使い古されていませんか?
マルティノ枢機卿:私たちは他人の身にならなければなりません。同じ目の高さで対話の相手を見るということは、相変わらず西欧にとっては挑戦です。これらの文化に対して公平であるためには、市場のカテゴリーだけでは、十分ではありません。宗教的自由は、私たちのところでは、長く複雑な歴史を持っています。世俗主義的な文化が尊敬されるまでにはヨーロッパでは、何百年もかかったのです。これらの争いの結果は、簡単に輸出されず、他の人たちに押しつけることは出来ません。この展開を、われわれはイスラム教に対しても認めなければならないでしょう。
--この展開を支持するための戦略はどうあるべきですか?
マルティノ枢機卿:テロリズムという現象が存在するから、私たちはその根にまで目を向けなければなりません。貧しい国々に対する約束が守られず、破られたという問題を新たに取り上げなければなりません。われわれは開いた傷口を治さなければなりません。
--どの傷口ですか?
マルティノ枢機卿:中近東の火傷を取り上げましょう。パレスチナ自治政府に対する援助が取り消されなら、災いなるかなと私は言います。ハマスが無条件にイスラエルの存在権を承認すべきだと言うなら、パレスチナ人達は1967年の国境を尊重することを要求するこのは、正しいのです。なぜならば、イスラエルの占領地域で一方的になされた変更は、国際法によれば、法律違反です。
[訳者の感想]このカトリックの枢機卿は、西欧の右派リベラルよりは、遥かに公平な判断をしていると思います。なお、記事の末尾に書かれた注によるとレナート・マルティノ枢機卿は、「正義と平和」についての教皇諮問会議の議長だそうです。インタビューを行ったのはイタリアの雑誌『共和国』だそうです。イタリア語からドイツ語に訳した人は、パウル・バッデというドイツ人です。
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「侮辱する権利」と題する『ツァイト』紙の記事。

2006年02月11日 | 国際政治
筆者は、カタリーナ・シューラー。
アヤーン・ヒルシ・アリが慎重な人間だったら、この灰色の二月の日に連邦記者会見の場所で内外の記者団の前に、無数のカメラの放列の前に立たなかっただろう。もし彼女が慎重な人間だったら、この瞬間に彼女はアフリカの何処かの国で夫と結婚し、子供達の世話をしていただろう。だが、彼女は一度も慎重な人間であったためしはなかった。だから、彼女の言葉は外交的でもよく考えらたものでも控えめでもなく、明晰判明で挑発的である。
このオランダの「自由と民主主義のための人民党」に所属する政治家は、木曜日にカリカチュア論争に対する自分の態度を「傷つけ、侮辱し、不快な印象を与える権利」であると総括した。この権利がなければ、民主主義は存続せず、本当の言論の自由は存在しないと彼女は考えている。予言者マホメットのカリカチュアを掲載したことは正しかったと彼女は言う。なぜなら、それでもって、デンマークの新聞『ジランズ・ポステン』は、西欧のメディアの急ぎすぎた自己検閲に抗議しようとしたからである。その際、彼女は、カリカチュア論争に先立つ歴史を引き合いに出した。そこでは、マホメットについての本のために挿絵画家を見つけられなかった著者と、それが事実と一致するかを吟味しようとして、結局最後に何にかの挿絵画家を見つけた勇気ある新聞が問題となっている。それは周知の事実だ。
それはカリカチュアの成立について語りうる最も好ましい変種である。別の変種も存在する。それは、あの新聞の挑発好きの傾向、それに基づく発行部数の増加、同じ新聞がキリスト教的内容についてのカリカチュアを拒否したことを論じている。拒否の理由は、それは読者を怒らせるからだ。だが、これらの慎重な考慮や相対化や問題視は、アヤーン・ヒルシ・アリの問題ではない。体にぴったりした服を着たこの細身の女性は、どこか地上のものならぬ雰囲気を持っている。彼女の使命は、覚醒させ、弾劾することである。彼女はイスラム社会の暗い側面を世界に意識させようとしている。西欧の政治家やジャーナリストたちがモスレムの傷つけられた感情に対する理解を表明するたびに、彼女はその背後に臆病さと犠牲者に対する連帯の欠如があるのではないかと推量する。「言論の自由によって生活していながら、同時に検閲を受け入れるジャーナリストたちよ、恥じるがいい。「私たちはデンマーク製の商品は売りません」というスローガンで売り込んでいるヨーロッパの会社は、恥じるがいい」と彼女は激しい演説において述べた。
彼女の容赦しない態度には訳がある。それは彼女自身の人生である。ソマリアに生まれたアリは、五歳で陰核を切除された。彼女はモスレム的環境で育ち、宗教的に教育された。「日に何度もユダヤ人を滅ぼして下さいとお祈りをした。」20歳の初め、彼女は強制的に結婚されそうになった。彼女はオランダに亡命し、そこで掃除婦や通訳やソーシャル・ワーカーとして働いた。こういう仕方で彼女はモスレム女性の悲惨を改めて体験した。彼女は政治学を勉強し、2002年以後イスラム教を批判する本を書き、そのために殺すぞと脅迫された。映画監督テオ・ファン・ゴッホのために映画『屈従』の台本を書いたが、この映画のためにゴッホは路上で殺された。アヤーン・ヒルシ・アリは、当時警察の保護下にあったので、暗殺されなかった。彼女は潜伏し、また公共の場に復帰したが、それは彼女が萎縮させられたくなかったからである。木曜日に彼女は「私も自分の生命が不安でした。ですが、私は沈黙しないでしょう」と言った。(省略)
現在の対立には、アリにとっては、人種的社会的背景はない。「問題は、理念の闘争です」と彼女は言う。こちらには啓蒙された自由な民主主義があり、あちらには、不寛容で宗教的な原理主義がある。その際、民主主義は自分自身が批判される可能性を前提にしている。「モスレムがカリカチュアに対して平和的に抗議するなら、私は少しも反対しない。」それは彼女の意味で自由な意見の表明になるだろう。勿論、侮辱する権利にも限界はある。その限界は法律で定められなければならない。侮辱された者は、告訴すればいい。だが、西欧社会の活動規則であるこの対決のための基礎(民主的な法秩序)そのものは議論されてはならないと、アリは言った。
彼女は「反イスラム主義は、存在しない」と言ったが、この点では彼女に異議を唱えなければならない。だって、それは存在するからである。例えば、専らモスレムに向けられた移民法の試験や、空港や国境で強化されているコントロールがそれを証明している。われわれが現在体験している対立は、決して単なる思想の闘争ではない。この対立の根には、社会的民族的な背景がある。イスラムについての多様な取り組みには関心がないが、偏見の強化には非常に関心のあるすべての人々の歓迎すべき証人になっている。
[訳者の感想]筆者のシューラーは、冒頭ではヒルシ・アリにかなり共感しているように見えるのに、最後の一文で彼女がやはり右派自由主義に近い点を批判しているようです。
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「ヨーロッパとイスラムにとっての危険な瞬間」と題する『ヘラルド・トリビューン』紙の記事。

2006年02月08日 | 国際政治
ロンドン発:予言者マホメットのカリカチュアを刊行したことに対するイスラム教徒の抗議が激しくなたとき、ベルギーとオランダとデンマークにある小さなアラブ運動の活動家は、ウエッブサイトにアンネ・フランクとベッドに入っているヒトラーの漫画を描き、「これもお前の日記に書け」と言わせた。
この漫画の意図は、「われわれの芸術的表現への権利を行使するためだ」と「アラブ・ヨーロッパ連盟」は言った。それはデンマークの新聞『ジーランド・ポステン』紙が、昨年九月に一連のマホメットのカリカチュアを掲載したときと同様に。「ヨーロッパにも聖牛はいる、もっともそれらは宗教的に聖なる牛ではないとしても」とこの組織の創始者であるディアブ・アブ・ジャジャは、イスラム移民の暴力抜きの権利を主張した。
このような対照は、両者が互いを誤解と疑惑の目で見るならば、カリカチュアを巡る対立が両方を予期されない境を越えさせたという厄介な感じを生み出した。
オックスフォード大学のヨーロッパ史教授であるティモシー・ガートン・アッシュは、「これは私には境界を印づける瞬間だという感じがする。これはヨーロッパとイスラムにとって危機であり、非常に危険な瞬間である。それは相互の認識の下向きのスパイラルに導く瞬間である」と言った。
カリカチュアに対する暴力的な抗議やデンマークの外交施設に対する攻撃が、中近東、アフガニスタン、パキスタンに広まるにつれて、何人かのヨーロッパ人は、比較的少数派のモスレムが、イスラム世界からこれまで用いられたことのない力を行使しているということを悟るに至った。実際、モスレムは、英国の人口の3%、デンマークの4%、欧州連合全体で、5%の割合を占めている。
イスタンブール在住のドイツのジャーナリストユルゲン・ゴットシャルクは、「もはや問題は単に移住者の数を減らすことではない。デンマークに言論の自由のヒーローがいるのと同様に、アラビア半島からインドネシアまで彼らの予言者の尊厳を守る覚悟のあるヒーローがいる」と書いた。
ローマで花屋を経営しているエジプトのコプト・キリスト教徒であるイブラヒム・マグディは、次のように言った。「今問題なのは、あなたが何かを言ったり、したりした場合、あなたはエジプト人やシリア人やサウディ人に語りかけているのではなくて、モスレム世界全体に語りかけているということだ。」
ヨーロッパに住んでいる人々にとっては、あのカリカチュアは、表現の自由と、モスレムやキリスト教徒にいろいろなレベルで影響しているダブル・スタンダードについての深刻な議論を促進した。他の人々にとっては、カリカチュアに対する拡大する抗議は、過激派を硬化を意味しており、それによって穏健な意見を出す余地が狭められている。「穏健なモスレムは、またもや効果的に沈黙させられた」とデンマークのアールフス大学の英文学教授タビシュ・カイールは言った。
何十年間もヨーロッパ諸国は、イスラム教が支配的信仰となっている国々から経済的政治的理由でやってくる移住者の流れと取り組んできた。多くのモスレムは、自分たちが一度も完全には歓迎されたことはないと感じている。
だが、2001年9月11日の米国に対する攻撃から、2005年7月のロンドンでのテロ攻撃に至るイスラム・テロのカタログは、イスラム穏健派とイスラム過激派とを区別するように政府や社会を変えた。
明らかに、衝突によって、互いに二つの価値の集まりが戦い、表現の自由と多文化主義とが戦っているのだとガートン・アッシュは言った。
しかし、それ以上に、あるモスレムの間には、自分たちの信仰を否定する国々では自分たちが二級の市民あるいは潜在的テロリストとして扱れているという沸き立つ反感が存在する。
パレスチナ出身で2歳の時に両親に連れられてデンマークに移住した建設労働者であるムハマド・エルジャヒムは、「黒い髪の毛をしていると、仕事を見つけるのは難しい」と言った。彼は3年半かけて歯科技工を学んだが、仕事を見つけることはできなかった。
この不信感は、自分たちの福祉国家が自分たちの持っている価値を共有せず、潜在的反乱者の第五列を代表しているかもしれない歓迎されない移民を住まわせるようになったというあるヨーロッパ人の間の腹立たしい感覚をも反映している。
「過激派は、合意なんか望んでいない。彼らは円卓につこうとはしない。彼らが欲しているのは、世界中に彼らのイスラムの信仰を広めることだ」とベルリンで保険代理店をやっているライナー・ミオンは述べた。
ベルリンでイタリア風のデリカテッセンのセールスマンをしているグイド・コルデスは、「個人的には、すべてのモスレム達を彼らの出身地へ追い返したいね。だって、連中は、ここの民主的な規則を受け入れられないのだから」と言った。
カリカチュアを掲載した『ジランド・ポステン』紙の文化編集者のフレミング・ローゼは、「お前は敬意を示さなかったとモスレムが言うなら、私は君たちは私の敬意を要求しているのではなくて、屈従を要求しているのだと言うだろう」と述べた。
ある人々が恐れているのは、直接脅かされているのはヨーロッパ的価値であり、ヨーロッパ的自由であるということである。
「イスラム原理主義とヨーロッパの右翼は、どちらも次々に火をつけるのに役立つ貴重な毒物を楽しんでいる」とノルウエーの国際関係教授で外務次官であるジャン・ハーランド・マトラリーは言った。
[訳者の感想]マホメットのカリカチュアを掲載したことから、西欧対イスラムの対立が激しくなりました。日本は第三者の立場を貫けるのでしょうか。
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「自分を救え、さもなければ、誰も助けてくれない」と題する『ツァイト』紙の学芸欄の記事。

2006年02月06日 | 大学問題
筆者は、マルティン・スピーヴァック。
精神科学にとって、危機ほど恒常的なものはない。「精神科学の危機と未来」というテーマに関する著作は、独特の文学上のジャンルになった。にもかかわらず、彼らは相変わらず生きている。独文学者、歴史家、哲学者、古典学者、神学者たちは。しかも状況は悪くはない。数字を見ると、流行っていると言うこともできよう。毎年、言語学、文化科学、社会学を学ぶ学生数は増えている。同じことは教員についても言える。ドイツは、2万人以上の精神科学的業務に関わる公務員(ドイツでは大部分の大学は州立だから、教員は地方公務員)や研究者を抱えている。研究の後継者も余り不足していない。精神科学に関する学部では、毎年2,500の博士論文が出来る。歴史家だけでも、250人の私講師が教授の地位を待っている。
それではどんな危機があるのか、と問われるかもしれない。財政が危機になっていると答えられる。教育や研究のためにもっと金を出してくれれば、後はわれわれをほうっておいてくれ。多くの教授はそう考えている。恐らく教授の多数はそう考えている。彼らは自分の教科の墓掘り人である。なぜなら、計算が合わないからである。精神科学も社会科学もほうって置くわけにはいかないし、彼らにもっと金をやるわけにも行かない。学問的研究についての大学や社会での諸条件は、根本的に自己変革しつつある最中である。以前には、精神科学者は、政治と社会を結びつけていた文化的な特徴を頼ることができた。当時、ヘルダーリンの詩の研究が意味があるということを誰が否定しようとしただろうか。
だが、今日、文化的な正典(カノン)はもはや存在しない。歴史的教養と文学的教養という識別価値は曖昧になってしまった。ヘルムート・コール元首相にとっては、「歴史」は、まだ政治的なカテゴリーであった。彼の後継者にとっては、演説の穴埋め以上のものではない。
今日、学問は何かの役に立たなければならず、その証明を自分で提示しなければならない。以前は事情が別だった。国家や社会はその研究者達に地位や場所を提供し、それに対して、釈明を要求したりしなかった。大学のシステムの内的なゲーム規則を信頼し、学問は、たとえそれを自分一人でやっていても、公共にとっては最大の利益をもたらすと考えた。この「学問に対する社会契約」は、今日では、自明ではない、とビーレフェルト大学のペーター・ヴァインガルトは言う。
あらゆる教科は、「学問は社会に何を還元するか」という問いに直面している。存在する権利を理由づけない者、研究と教授の質を証明できない者には、制裁が待っている。なぜならば、競争の圧力と資金不足の下では、大学は、もはや専門の全分野を提供することは出来ない。大学はいくつかの専門分野を強化し、他の分野を薄めるか、全く閉鎖してしまうだろう。どのような重点分野が置かれるかは、最近の例が示している。ハンブルグのいくつかの大学に対して、ドホナーニ委員会が提案したのは、精神科学と社会科学の学生数を4分の1減らすことだった。ベルリンの財政委員会に、ベルリン市の大学ではまだ節約可能な分野がどこにあるかと尋ねた際、精神科学と社会科学が真っ先に候補に挙がった。将来においては、ある教科を促進し、他の教科を支えるために、もはや悪しき政策を必要としないだろう。より多くの自律性とグローバルな予算を備えて、大学の管理部門は、その仕事を引き受けるだろう。もし、それが仕事を引き受けないとしたら、管理部門は、その仕事をやり損なったのだ。
この趨勢を批判することはできるが、趨勢を後戻りさせることはできない。ドイツの精神科学は、どんな態度を取っているだろうか。最善の場合でも否定的で防御的である。大学における資金と注意と重大な地位を巡る競争についてそれらはどのような準備ができているか。外へ向かっての働きかけは僅かである。質のコントロールへの覚悟も、その変革の意志と同様、最小限度である。その際、精神科学は、他の専門よりももっと改革へのきっかけをもっている。例えば、教育面において。精神科学と社会科学の学生の2人に1人は、試験までに明らかにより長い時間を必要とする。哲学専攻や歴史学専攻の学生は、14学期間大学にいる。独文学者と社会学者は、一学期短い。なぜならば、最高の中断率(大学を中途退学する学生の割合}をもった専門のランク表では、精神科学と社会科学とが上位の5位を占めている。トップは哲学で、ここでは、8人の新入生の内、一人しか最終試験にたどり着かない。
このまずい状況に大いに責任があるのは教育政策である。それは、安上がりの精神科学と社会科学に増加する学生数を押しつけた。学生達も、彼らの専門学科と折り合いがうまくなかった。言語学や文化科学の学生の多くは、困ったあげくにその専門を選んだ。その上、彼らは研究のために勉強することは稀であると連邦文部省が発行したある研究は述べている。そういうわけで、英語英文学の学生の37%しか、研究するはっきりした意志がない。これに対して、社会学の学生は、週に30時間勉強している。
けれども、主要な責任は、専門領域とそれに属する教授にある。20年経っても、彼らはこの問題的な状況からいかなる結論も引き出さなかった。歴史学や文学の新入生は、相変わらず、高等学校の教師になるか大学の教授職を目指している。その場合、歴史学科の学生の3分の2は、国家試験で大学を終了せず、修士で終了している。だが、この資格は、学校以外の職業に就職するように出来ていない。
国家試験の後、5年経っても、精神科学や社会科学の学生の42%しか、フルタイムの仕事についていないと「大学情報システム」(HIS)の卒業生研究は述べている。HISの研究者が、修士卒業生に彼らの大学での修学価値について質問した際、4分の1の卒業生だけが、研究は彼らに職業知識を与えたと答えた。その際、多数の学生が、より多くの実務経験と職業に対するオリエンテーションをしてほしいと希望した。大学は学生のこれらの希望を大部分無視している。通常、学生は、良い文章を書く、論証する、結果をプレゼンテーションするなどの基本的な能力さえ得られない。そういう能力を前もって既に持たない者は、学業においても博士論文の作成においても教授資格請求論文においても、学ぶことがない。(以下省略)
[訳者のコメント]ドイツでも学生数が増えたのに学生に対する指導が研究に集中しているために社会で職業に就くのには困難があるということが分かります。大学自身の自己改革が必要な理由です。

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「文化の戦いが勃発」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年02月05日 | イスラム問題
アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンの予言が一度に本当に現実なったかのように思われた。1996年に公刊された『文化の葛藤』において、ハンチントンは、西欧文明とイスラム文明との間に戦いが起こるぞと警告していた。2001年に彼は『ヴェルト』紙のインタビューで、もう一度、警告を繰り返した。イスラム世界と西欧世界の間の戦いは「いろいろな戦線」で行われるだろうと予想した。つまり、政治的、外交的、経済的、軍事的、イデオロギー的に行われるだろうと予想した。「まだ何年も続く多次元的な葛藤が迫っている。」
2月4日に最も目立った戦線は、シリアの首都ダマスカスで数百人がデンマーク大使館に乱入し、建物に放火した。続いて、デモ隊は、ノルウエー大使館の前に集まった。スウエーデン大使館とチリー大使館も入居しているデンマーク大使館では、治安警察の姿は全くなかったのに、ノルウエー大使館前では、警官が並んでいた。デモ隊は、封鎖を突破し、窓から家具や書類を放り出し、火をつけ、消火に駆けつけた消防が近づくのを妨げようとした。治安警察は催涙弾を発射した。
デンマークの外交官ハンス・スコヴは、ラジオ放送で、情報によれば、シリアの官憲は荒れ狂う群衆を止めるために何もしようとしなかった。「われわれは勿論そのことに驚いている」とスコヴは言った。コペンハーゲンとオスロは、両国人にシリアから出国するように要求した。
この葛藤の引き金となったのは、デンマークの新聞『ユランヅ・ポステン』紙に掲載されたマホメットのカリカチュアであった。そこでは、イスラム教の教祖であるマホメットがテロリストとして描かれている。そうこうするうち、新聞の刊行者は、このカリカチュアからは距離を置いた。「これが殺人の脅迫に至ると知っていたら、デンマーク人の命が危険に曝されるかもしれないと知っていたら、われわれはカリカチュアを印刷しなかっただろう」とこの保守的な新聞の社説は述べている。
しかし、この謝罪をするのは遅すぎた。起こったのは、西欧諸国とイスラム諸国の間のシンボルを巡る争いである。世俗的な西欧は、意見と報道の自由を引き合いに出し、イスラム教国の政府と国民は、彼らの宗教的感情が傷つけられたと感じている。共通の議論の基礎が欠けている。初めから相互理解がない。
怒りは、個々のヨーロッパ諸国の間を区別していない。そういうわけで、数百キロメーター離れたガザでは、パレスティナ人がドイツ文化センターを攻撃した。彼らはドアや窓を壊してドイツ国旗を焼いた。他のパレスティナ人は、近くにあった欧州同盟の建物に石を投げた。パレスティナ警察は、努力の末状況をコントロールできるようになった。約50人の生徒と青年達は、新たにEU事務所前に集まり、スピーカーを通して「予言者を侮辱するものは、イスラム教徒を侮辱している」、「マホメットよ、われわれの血と魂であなたを守る」と叫んだ。デモ隊は、デンマーク国旗を焼いたが、建物の中に侵入しようとはしなかった。
街頭には驚くほど多くのビジネスマンがいて、ヨーロッパ製の商品のボイコットを呼びかけた。
だが、和解のきざしも見られる。ガザでは、ファタハに近い武装兵士は、カトリック学校に通う生徒や尼さんや神父に赤いカーネーションを手渡し、教会に対する脅しに対して謝罪した。これに対して、ハマスの指導者マームード・サハールは、「本来、予言者マホメットを侮辱した連中は殺されるべきだ。だが、われわれはここでは平和的にデモをやっている」と言った。
イスラム世界の国家元首達は、二面作戦を選んだ。彼らはマホメットのカリカチュア掲載に関して西欧を非難し、報道の自由の呼びかけには従えないと言った。他方では、彼らは、イスラム教徒に対して街頭では暴力を振るわないように呼びかけた。
そういうわけで、インドネシアのユドヨノ大統領は、モスレムの感情を傷つけるカリカチュアの掲載を批判した。同時に彼は、デンマーク政府と新聞の謝罪を受け入れるように信者に呼びかけた。
マレイシアのアハマド・バダウイ首相もカリカチュアを非難し、自国のイスラム教徒に冷静さを保つように呼びかけた。(中略)
パキスタン外務省は、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ハンガリー、ノルウエー、チェコ、オランダ、スイスなどヨーロッパの9ヶ国の大使を呼び、「不敬な画像の刊行や再刊に対して厳重に抗議した」と述べた。ロンドンでは、ヨーロッパの新聞がモモハメットのカリカチュアを公刊したことに抗議した。主催者は演説の際、イスラム諸国に、ヨーロッパ諸国がメディアをコントロールするまで、接触を断つように要求した。デモ参加者は、「ロンドンで第二のテロが起こるように祈ろう」という呼びかけに対して公衆が憤慨した。
ドイツでも抗議が行われた。ミュンヘンで開催中の「安全保障会議」に対するデモにおいて、24人の参加者が逮捕された。理由は、集会規則違反と官憲侮辱の疑いである。警察は、「人殺しラムズフェルド」と書かれたプラカードを押収した。米国のラムズフェルド国防長官は、「安全保障会議」の参加者の一人である。警察は、1700名のデモ参加者からなる行列を停止させたが、その理由は、300人が行列から離れようとしたからである。主導者のクラウス・シュレーアは、警官の処置を「信じがたい弾圧」であると批判した。これに対して、警察の報道官は、介入は合法的であったと述べた。シュレーアは、演壇で、ラムズフェルドを人殺しと呼ぶのは正しい。なぜなら、「それは真実であり、侮辱ではないからである。」
〔訳者の感想〕ミュンヘンの「安全保障会議」がカリカチュア騒動と同時に行われたので、問題が複雑になっているように見えます。
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「中国、アフリカに向かって大躍進」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年02月03日 | 中国の政治・経済・社会
ベルリン発:最近ダボスで開かれた世界経済フォーラムのような国際会議で、繰り返しテーマになっているのが、中国の経済奇跡である。2005年に中国は国民総生産を年率9.9%増やして、ついに世界第五の国民経済を持つに至った。より大きな成長は、より大きなエネルギー消費を意味している。中国の台頭のお陰で、ヨーロッパでも原油と天然ガスの価格は記録的になった。エネルギー饑餓は、中国をして原料資源を追求させる。南米や東南アジアでも。北京はアフリカ大陸を「何よりも先ず、エンルギー資源の調達市場」と見ていると「ドイツ外交学会」の安全とエネルギーの専門家であるフランク・ウンバッハは、言う。
過去数年間に中国はアフリカでのプレゼンスを大幅に増やし、初めてそのアフリカ政策についての白書を公刊した。中国の国営の「中国国際放送」は、ケニアのナイロビから英語、キスアヘリ語、中国語で19時間の放送を開始した。李肇星外相のような高官がアフリカ大陸の国々と熱心に旅行外交を行っている。ナイジェリアでは、李外相は、国連安全保障理事会の常任国になりたいというアフリカ諸国の願望に対する中国の支持を強調した。それに先だって、中国の石油コンツェルン「中国国有石油会社」(CNOOC)は、23億ドルでナイジェリアの1,300ヘクタールの油田の25%を獲得したいということを告知した。中国の石油輸入量の三分の一は、アフリカに依存している。その際、中国は、国際的に非難されている国家との協力も辞さない。スーダンは、その原油生産の60%を大きなパートナーに供給している。
米国は、アフリカに対する中国の関与を増大する不快でもって観察している。非民主的な中国は、アフリカにおけるアメリカの利害に挑戦しているのだとニューヨークにある「外交関係委員会」は警告している。これに対して、北京に駐在のゴルドマン・サックスのエンルギー専門家であるチャイ・ジンヨンは、アメリカが「偽善的である」と批判している。中国は現在何が何でも石油を必要としているのだと彼は言う。「より確実な国々にあるエネルギーの蓄えへのアプローチをアメリカが妨げる限り、中国もまたスーダンのような国々に手を出さざるを得ない。」チャイは、CNOOCによるユノカル買収が失敗したことを指摘しているのだ。アメリカ国内の政治的反対によって商談は成立しなかった。
中国の巨大な需要によって、原鉱や金属や原油について世界市場価格は高騰した。それによって、セネガルやコート・ジヴォアールにおけるこれまで採算が取れないか量の少ない産出を開発することが関心を引き始めた。中国の長期的な戦略は、企業参加や、パイプラインや精製所や港湾施設などのインフラを整備するために、目標となる国々に何十億ドルも注入することである。推定によると、中国は、2001年から2031年までに約3,600億ドルをアフリカの原油産出地帯に投資する予定である。スーダンでは、国有の「中国国有石油会社」は既に石油コンツェルンGNPOCの資本金の40%を保有している。
「中国はアフリカの多くの政府から両手を挙げて受け入れられる」とドイツの「科学と政策財団」のアフリカ専門家であるデニス・トウルは言う。「特に西欧は、原油地帯以外には殆ど投資してこなかった。」住民はしばしば余りうれしがっていない。北京は、9億の人口を持つ大陸を安い中国の繊維製品や電化製品の販売市場だと見なしている。2005年に中国とアフリカ諸国間の貿易量は350億ドルに達した。中国はその輸出品でアフリカの土着の経済を破壊したと言われている。
とりわけ、民主化と人権尊重とは停滞している。西欧とは違って、中国は、台湾の非承認は別として、透明性や腐敗との戦いを条件にしていないとトウルは言う。この「主権原理」は双方に有用である。例えば、スーダンは、原油収入で中国製の武器を購入している。その代わり、中国は、国連安全保障理事会でスーダン政府に対する制裁に反対した。ジンバブエとその独裁者ロバート・ムガベに対しても中国は保護の手を差し出している。だが、この国の地下資源に対する関心は、後退しつつあるように見える。ムガベの最近の中国訪問で、彼は望んでいた財政的支持を得られなかった。「民主的規則や原理は、完全に欠けている」とケープタウンにある「南ア国際問題研究所」の貿易専門家であるピーター・ドレーパーは述べている。
これに対して、北京は、アフリカとの戦略的パートナーには利他的動機があると述べている。「それは平等と相互の信頼に基づいている」と李肇星外相は言った。『中国日報』紙は、次のように書いている。「他の国々とは違って、中国のアフリカ政策は、正直で搾取的ではない。」結局、中国もアフリカ諸国も共通点がある。「われわれはどちらも植民地的搾取に苦しめられたのだ。」
[訳者の感想]現在の中国のアフリカ政策について書かれた優れた記事だと思います。筆者は、キルスティン・ヴェンクとイェンス・ヴィーグマンです。
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