海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「国連は、ダルフール地方で失敗した」と題する『新チューリッヒ新聞』の記事。

2006年01月15日 | 国連
小見出し:殺戮と暴行は続く。国連は、スーダンのダルフール地方での平和努力に失敗した。そういったのは、スーダン問題担当の国連大使ヤン・プロンクである。彼はこの地域への強力な平和部隊の派遣を要求した。そこでの殺戮と暴行を止めさせるためには、1万2千人から2万人の国連軍兵士が必要であると述べた。
 プロンクは、国連の安全保障委員会に彼の悲観的な状況判断を提出した。ダルフール地方における「殺人と粛正」の三年間を振り返って、確認されなければならないのは、これまでの平和戦略は失敗したということである。国連は、余りに僅かしか、余りに遅くしか行動しなかった。
略奪行為を働くアラブ系の騎馬軍団(ジャンジャ・ウイード)は、村々を一つ一つ消したとプロンクは付け加えた。少なくとも、一月に一回500人から1000人で構成された民兵は、ラクダや馬に乗って村落を攻撃し、何十人も殺し、逃亡者から持ち物を奪う。
国連の推定によれば、2003年までにこの紛争で、30万人が死んだ。全部で260万人が難民となった。2003年の初めに、アフリカ系の種族が武器を取ったとき、紛争はエスカレートした。彼らは首都ハルツームのスーダン政府が、騎馬私兵を武装させたと非難した。政府はこのことをいつも否定してきた。
[訳者の感想]ダルフール紛争は、まだ全く解決されていないようです。イスラム教徒のアラブ人が同じイスラム教徒のアフリカ人を殺戮するという人種対立に基づく紛争です。
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国連サミットについての『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2005年09月18日 | 国連
「ニューヨークの苦渋」と題する記事です。
国連サミットが始まった9月15日に、既に損失決算が出された。国連事務総長の野心的な改革案から出てきたのは、かき回された文書であったが、それはこの組織をあちこちで少しは前進させると思われる。
だが、この文書は、国連の効率と信頼性を推し進めないだろう。たとえ国連が不透明な出来事やスキャンダルや正当性の核心に達する不和の後で、そのような後押しを必要とするにしても。多分、妨害に協力した者達もいつか、安全保障と進歩と人権のための北と南の大取引が成立しなかったことを残念に思うだろう。
主役を演じようとしなかった国の一つは米国である。彼らは無数の変革の願望でもってますます小さくなる期待の否定的スパイラルを進めた。犯罪的な政府の下部委員会になって、評判を落とした人権委員会に替わるはずの新しい人権理事会の創設を妨害したパキスタンやエジプトのような国々の貢献は、恥ずべきである。改革の途中にある国々が弁護人になるだろうということは、間違った連帯性の表現であった。
疑いもなく、コフィ・アナンは、この日の負け組であった。初めて彼の管理能力が殆ど壊滅的な仕方で批判された。彼が国連の現実を次の点にもたらすならば、それは苦渋に満ち、しかも諦めがこもって聞こえる。国家は、豊かな国も、貧しい国も、強い国も、弱い国も、国連では自分たちの利害を追求して、空想的な全体の幸福などは追求していないといういうのだ。
更に、既に安全保障委員会の最前列にいて、広告をした国々もがっかりさせられれた。理事会は、拡大されず、抵抗は大きすぎた。時としてファナティズムと盲目性とが結びついたドイツ連邦共和国の理事会拡大の野心は、大きかったが、失敗は、大音響を立てた。
[訳者のコメント]安全保障理事会のメンバーになろうとするドイツも日本も今度は失敗しました。国連を殆ど頼りにしていないアメリカは、既得権だけは守りたいようで、日独の前途は多難なようです。
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6世紀のマヤ遺跡発掘さる。(『ストレイツ・タイムズ』紙記事より)

2005年03月08日 | 国連
シンガポールで発行されている『ストレイツ・タイムズ』紙の記事より。
ホンジュラス西部のコパン遺跡で作業中の考古学者が、紀元6世紀の遺跡から、69人分の遺体とこれまで未発見であった30件の建物や構造物を発掘した。
紀元250年から900年までマヤの首都として栄えたテグシガルパの西300キロにあるコパンは、現在のメキシコ、ベリーズ、グアテマラ、エル・サルバドル、ホンジュラスにまたがる巨大なマヤ帝国の一部であった。歴史家達は、この都市は、部分的には人口過剰になったために放棄されたと考えている。
ホンジュラスの考古学者達と協力している日本の考古学者ナカムラ・セイイチは、記者会見において、人体の遺物は550年頃、第十代マヤ王であったジャガー・ムーンの統治時代にコパンに住んでいた人たちのものであると語った。ナカムラ氏は、「私たちはヒスイ・石・貝殻・陶器などでできた壺や器や楽器を450個発掘した」と述べた。
彼はまた「人骨が埋葬されていた場所付近ではお供えが発見されたし、12才の子供の遺体の近くで発見された遺物は、コパンでこれまでに発見されたものの中で一番多かったということは、マヤ社会では子供は大切なメンバーであったことを意味している」と述べた。
考古学者達は、一番最近の発掘物を修復し、2007年には発掘地域を観光客のために公開したいと希望している。
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