海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「エアバスA380初めて着陸」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2005年10月30日 | 教育と科学技術
10月29日、フランクフルト・アム・マイン発:巨大なエアバスA380が土曜日の朝、初めてドイツに到着した。世界最大の旅客機は、9時前にフランクフルト空港の北滑走路に着陸した。1万人の見物がやってきた。もっとも、霧が視界を部分的に遮った。
着陸後、巨大な機体は、ターミナル2に横付けされた。荷物の積み卸しのような日常業務のテストが行われた。日曜日朝には、ツールーズにあるエアバスの製造工場に向けて飛ぶ予定である。
A380の最大重量は、560トンで、三等級に分かれた客席が全部で555席ある。シンガポール航空は、2006年末に最初の機体を受け取る予定。ルフトハンザ航空も、15機発注した。
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「イラクでのアメリカ兵の戦死者、2,000人を越える」

2005年10月27日 | イラク問題
ローリー・キャロルは、なぜ、2.000人のアメリカ兵がイラク戦争で死んだのかを説明しようとする。
この短期間バグダッドで誘拐されたイギリスのジャーナリストの報告は、この1兆ドルの費用がかかった反乱--それが中近東に対するワシントンの民主化計画を混乱させているのだが、--がイラクでは全くありふれた出来事であることを示している。
 反乱の犠牲となった2千人目のアメリカ兵、ジョージ・アレクサンダーは、34才のテキサス人で、路肩に仕掛けられた爆弾で重傷を負い、バグダッドのアメリカ病院で治療を受けたが、先週、土曜日に死亡した。
テロによるイラク民間人の死亡者数は、統計では、26,690人から30,051人と推定されている。
反乱軍が生き延びている理由は、イラク人達が彼らの家や村落の中で彼らに自由に作戦行動をさせているからである。イラク人のコミュニティでは、秘密は少ないのだが、ほんの僅かな者だけが秘密をイラク当局あるいはアメリカ軍に知らせる。
キャロルは、誘拐されて普通の民家の階段の下に閉じこめられたが、そこでは女達は家事をしており、子供達は、キャロルが食事のために連れ出される度に、うれしがって甲高い声をあげた。
家族全体とその友人のグループは、一般人からなる何千もの抵抗運動に加わっていて、アメリカ人がしようとしていることに反対する抵抗者達に避難場所を提供している。ワシントンは、抵抗運動の指導者達についての情報を得るのに何百万ドルも使っているが、彼らの最も下劣な本能に対する訴えは失敗した。
ワシントンの復興の約束や、民主制が提供するすべてにも関わらず、アメリカ人がイラク国民の信頼を得るのに失敗し、重要な心の戦争に勝つのに失敗した理由は、先週のイギリスの新聞に載せられたレポートを見れば明らかである。
それらのレポートは、イギリス軍によって秘密裏に依頼された世論調査によると、イラク人の45%が連合軍に対する攻撃は、正当化されると答えている。抵抗運動を支持しているスンニー派が人口の20%しか占めていないことを考えれば、これは呆然とさせる数字である。[シーア派の中にも抵抗運動を支持する人達が沢山いるということです。訳者注。]
イラクの国中の住民の80%以上が、外国軍の滞在に反対している。70%以上の人たちが、外国軍を全く信頼していないと答え、67%の人たちが、外国軍がいることは安全だと感じさせないと答えている。43%は、平和と安定のための条件は、悪化してると答えた。
イラクでの戦死者の増加率は、以前よりも高くなっている。最初の1,000人が戦死するのに、18ヶ月かかったが、次の1,000人が死ぬのに、14ヶ月しかかかっていない。
イラク民間人の死亡率も高くなった。昨年は一日に40人が死んだが、今年は一日に60人が死ぬと推定されている。アメリカ軍兵士の死の90%は、ブッシュが2003年5月に「使命は完了した」と宣言して以後に起こった。
反乱は、今やしっかりと根を張った。ワシントンやバグダッドの当局者の「勝利は間近だ」という主張に反して、反乱軍は、武器や財源を確保し、アフガン人の戦士をアメリカ軍と戦うように訓練するために、バス輸送をするまでになった。(以下省略)
[訳者のコメント]この『シドニー・モーニング・ポスト』紙のポール・マックジョフ記者の記事を読むと、イラクの抵抗運動は、ますます力を伸ばしているように思われます。

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「ブッシュの政策を動かしているのは、陰謀だ。」という『ニューヨーク・タイムズ』の記事

2005年10月23日 | アメリカの政治・経済・社会
10月20日、ワシントン発:コリン・パウエル国務長官の元補佐官は、彼が仕えた政府に対してぶっきらぼうな批判をした。彼の言うところでは、外交政策は、「チェイニー・ラムズフェルドの陰謀」によって乗っ取られていた。そしてブッシュ大統領は、アメリカを将来の危機に対して傷つきやすくした。
このコメントは、2001年から2005年初めまで、パウエル国務長官のために仕事をしたローレンス・ウイルカーソンの演説の中に出てきた。ワシントンにある独立の公共政策研究所である「新アメリカ財団」に対する演説で、ウイルカーソン氏は、秘密と傲慢と内部の反目がブッシュ政権に重大な損失を与え、その政策を歪め、危機に対処する能力を低下させた」と述べた。
「私なら次のように言うだろう。われわれはイラク、北朝鮮、イランにおいて、災難を自分から求めたのだ。カトリーナとリタというハリケーンのような国内の災害についてと同様にと。」「われわれは長期間そのような災害に対してうまくやっていなかった。」
ウイルカーソン氏は、ブッシュ政府の機能不全は非常に深刻だったので、「本当に重大な何か、例えば主要なアメリカの都市における核兵器爆発とか、全国的な疫病のようなことが起こった場合、われわれはこの政府の愚かしさを見るだろう。」
退役した陸軍大佐であり、海兵隊軍事大学の元学長であるウイルカーソン氏は、彼が政府に近かった時期に、自分は国家安全機構がいろいろな仕方でねじれているのを見たと言った。しかし、ブッシュ大統領の第一期に彼が見たものは、「私が気違沙汰・粗悪化・混乱についての研究で一度も見たこともない例だった。」
「私が見たのは、危機的問題についてのアメリカ副大統領チェイニーと国防長官ドナルド・ラムズフェルドの間の陰謀だった」と彼は述べた。
元補佐官は、ブッシュ大統領を国際関係について熟知せず、国際関係に余り関心がない人物であると述べた。彼は大統領の父であった、ブッシュ元大統領を賞賛して、「彼はわれわれが持った最も素晴らしい大統領の一人だった」と述べた。
ウイルカーソン氏は、パウエル元国務長官の最も近しい親友であると考えられていたが、彼らの関係は、明らかに時に緊張したものとなった。イラクにおける通常でない兵器の問題に関して。元陸軍大佐は、パウエル氏が自分の最近の公的批判に賛成しなかったと述べた。
[訳者のコメント]ブッシュ政府が機能不全に陥っていることは、ハリケーン「カトリーナ」の後始末の不手際で明白になったと思いますが、イラク戦争の結末もうまくつけられない可能性が大きいと思います。どの政府でも、主要メンバーにおかしな人物が入り込んだ場合、国益に重大な損失をもたらすのは明らかです。

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「イラク国民は、治安を望んでいる」と題する『ツァイト』紙の記事。

2005年10月15日 | イラク問題
 土曜日に、イラク人は、議会が提示した憲法草案について決断を下す。これが可能であるという事実は、センセーションと同じである。なぜならば、この意味でのイラク市民は、一度も存在したことがなかった。存在したのは、イラクの臣民だけである。
 この国は事実上、内戦状態にある。しかし、誰も--特にワシントンでは、--この言葉を口にしたがらない。だが、数字は、はっきりした言葉をしゃべっている。推定によると、ブッシュ大統領が大きな作戦行動の終結を宣言した2003年5月以来、3万人のイラク人が命を落とした。これでは内戦について語るのは当然だ。
イラク人は何よりも治安を望んでいる。治安状態が憲法付きで到達されるか、憲法なしで到達されるかは彼らにとってはどうでもよいことである。ひょっとしたら、憲法はこの国の平和に貢献するかもしれない。恐らく、当面は、大して変化はないだろう。ワシントンは、「大成功」について語るだろうが。同時に、アメリカは、彼らの部隊の撤退の準備を始めるだろう。こう見ると、憲法についての国民投票は、ブッシュ政府のアリバイである。国民投票に、この戦争がアメリカにとって負けであったことを隠して欲しいのだ。
[訳者のコメント]ウルリッヒ・ラドルナーの論説です。ブッシュ政府に対する痛烈な批判になっています。
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「私は毛沢東を憎む。彼は中国の最後の皇帝だった」と題する『ヴェルト』紙の記事

2005年10月08日 | 中国の政治・経済・社会
ベルリン発:外見からは、ワン・ダンは、アメリカのエリート大学で学ぶ他の大勢の中国人博士課程の学生と区別されない。髪はきっちり七・三に分けられ、目つきははっきりして、挙動は控えめというよりはおずおずとしている。目下ハーバード大学で、1950年代の台湾と中国の独裁政治について博士論文を書いているこの36才の男は、苦い経験をした。
その痕跡を彼の若々しい顔つきに探しても無駄である。
1988年に彼は、北京の天安門広場での民主化運動の最もよく知られた活動家だった。当時北京大学の学生であった彼は、「政治サロン」を組織し、そこでは民主制と共産党について活発な議論が行われた。民主化運動が敗北した後、彼は「最も追求された反革命家」のリストに挙げられた。全部で7年間、彼は東北の遼寧省の監獄に入れられた。1998年に国際的圧力で、彼はアメリカに出国した。それ以来、彼は故郷に帰ったことはない。
中国でも、外国でも、16年前に戦車が何百人もの民間人を殺したということを思い出す人はますます少なくなった。それどころか、欧州連合は、天安門虐殺後に決定された武器輸出禁止令を解除しようとしている。ワンは、これが理解できず、ベルリンで反対運動を動員した。「1989年はまだ過去ではない。相変わらず反体制派や批判的作家やジャーナリストは、監獄に入れられている」とワンは言う。確かに、大抵の中国人にとって、生活水準は、当時よりも良くなったということを彼も認める。だが、「政治的状況は、80年代と比べても悪くなっている。」当時と違って、今日では政治的サロンも政治上の代替策についての議論も存在しない。進歩ではなくて、至るところ退歩が見られる。「胡錦涛主席は、毛沢東への戻っている」とワンは言う。「彼は検閲を強化したのだ。」
ワンにとって問題になる唯一のモデルは、古典的な西欧民主主義である。それは、権力分立、多党制、自由な普遍選挙を意味する。ただ残念なのは、中国にはそれに対して聞き取れる声はもはや存在しない。元反体制派はどうか?「彼らは相変わらずお互いに争い合って、共通の力になっていない」とワンは、言う。国内の知識人はどうか?「彼らは体制の改革には興味がない。なぜなら、彼らは共産党の支配で利益を得、共産党によって良い暮らしをしているからである。」今の学生はどうか?「彼らは民主主義についても、1989年に起こったことについても何も知らない。」中国おける変化への唯一の希望として残っているは、不満な農民であって、彼らは、過去一年間だけで、7万4千件の抗議を行った。
このことは、党も正確に分かっていると、ワンは言う。「だが、共産党の唯一の動機は、権力の維持であって、最も貧しい者との共感ではない。」
ワンは、もはや党による政治改革に賭けていない。この希望を彼は1989年に諦めた。中国で何かが根本的に変わる前に、まず。1989年の死体が、地下室から取り出されなければならないし、毛沢東の下の残酷な支配も片づけられねばならない。「私は毛沢東を憎みます。彼は中国の最後の皇帝だった」とワンは言う。張戎女史とジョン・ハリデイの書いた新し毛沢東の伝記も中国で考え直すことを引き起こさない。なぜならば、この本は、中国では非常に厳しく禁じられているからである。彼の同世代の多くの中国人とは違って、彼にとっては、毛沢東は常に「独裁制の象徴」であった。1989年の北京のデモの頂点で、湖南省出身の3人の学生は、天安門広場に掲げられた毛沢東の肖像画に対して絵の具の入った袋を投げつけた。これは反抗的な学生にとっても、行き過ぎた名誉毀損であったので、彼らは三人の学生を密告した。「私も当時この裏切りに腹を立てました。私は今日でも腹を立てています」とワンは言う。
[訳者の感想]海外で勉強している中国の元反体制派学生の話です。ワンが毛沢東の肖像画に絵の具入りの袋を投げた学生を密告した学生に対して腹を立てていることから、彼の毛沢東嫌いが相当なものであることが分かります。
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「資本主義対民主主義」と題するポール・サミュエルソンの論説。

2005年10月03日 | 国際政治
2005年9月28日に『ワシントン・ポスト』紙に掲載されたもの。
最近のドイツと日本の総選挙は、より多くの注目に値する。なぜならば、それは資本主義と民主主義の間の不安定な関係を明らかにしているからである。資本主義は、変化の上で繁栄する。それは新しいテクノロジーや製品や利得の機会を引き起こす。これに対して、民主主義は、変化に逆らう。それは現状に対する関心をもった強力な支持層を作り出す。
資本主義という言葉で私は、市場と私有に重きを置く経済体制を意味しているのだが、それと民主主義はお互いを必要としている。一方は、生活水準の向上をもたらし、他方は、資本主義の不公正を和らげ、公的支持をつなぎ止める。だが、この相互依存は、油断がならない。なぜならば、民主主義の特権が振り回されると、その特権は資本主義の首を絞めるからである。
この両者の関係をどのように規制するかが、日本とドイツの選挙の核心問題だった。よく知られているように、彼らの経済はひどくよろめいていた。1997年以来、彼らの年間経済成長率は、平均1%で、アメリカの三分の一であった。1980年代後半と比べると、日本の失業者は二倍に増えた。ドイツでは、失業率は、十年間約10%を上下していた。
選挙権者は、反対の結論に到達したように見える。日本人は、選挙を彼の経済改革日程のテストにした小泉純一郎首相に圧倒的な勝利を与えた。対照的に、ドイツ人達は、もっと臆病であったように見える。選挙前の予想では、社会民主党(SPD)のシュレーダー首相は、攻撃的な経済改革を説いたキリスト教民主同盟(CDU)のメルケル女史に対して負けるだろうというものだった。しかし、選挙の結果は、どちらもほぼ同じパーセントの投票しか取れなかった。CDUは総得票数の35.2%を取り、SPDは、34.3%を取った。次の政府の首相に誰がなるかは不明である。
結果は異なるけれども、両国における経済的革新の見通しは、不確かである。「経済改革」を宣言するのと、それを遂行するのとは同じではない。日本では、小泉は、郵政公社をオーバーホールするのに勝った。郵政公社は、単なる郵便事業以上のものである。それは世界最大の銀行であり、日本の貯金額の30%を吸収している。『東洋経済レポート』の編集者であるハワード・カッツによれば、問題は、これらの金の大部分が無駄遣いされていることである。それは国債を引き受けているが、その金は疑わしい公共投資に使われている。どこにも通じていない道路や、舗装された河川敷などである。
小泉は、郵政公社を民営化したいと思っている。それを利益を生む会社に変えたいと思っている。そうすれば、それはもっと生産的な投資を助けるだろうし、経済を刺激するだろう。これは賢明であるように聞こえるけれども、それは経済の万能薬ではない。第一に、小泉の改革は、十年かかる。第二に、私有化された郵政公社は、まだ、大失敗をやるかもしれない。第三に日本には他の問題がある。例えば、国内での競争が少ない。老齢化社会である。対外投資が僅かであるなどなど。
同様に、ドイツの怠慢さには多くの原因がある。アメリカ大学の政治学者スティーブン・シルヴィアの研究によれば、「ドイツ経済における政府負担部分は、余りに大きくなりすぎ、もっと生産的な経済活動を押しのけている。雇用の費用は、特に非賃金コストが高くなりすぎ、競争を妨げている。」シュレーダー首相は、いくつかの変化はもたらした。彼は、気前の良い失業保険を削った。メルケル女史は、労働者の首切りに対する制限を緩和することを提案し、団体交渉を緩和しようと思っている。
これらの問題はアメリカ人にも関係がある。第一に、日本とドイツの経済は、世界経済成長の偏った性質を部分的に説明している。つまり、世界経済の成長は、アメリカの貿易赤字を拡大することに依存している。2000年から2004年まで、潜在的に、ドイツの僅かな経済成長のすべては、輸出の増大に由来するものであったし、日本の業績も全く一方的であった。多くのエコノミストは、このパターンがグローバルな不景気を増大するが故に、不安定であると見なしている。両方合わせるとアメリカ経済の規模の半分に達する日本とドイツの経済が、もっと強ければ、世界経済はより健全だろう。
関心の第二点は、役に立つ政治的教訓である。成功した民主主義は、国民に彼らの利害とライフスタイルを守る機会を与える。だが、これらの保護が、変えられない経済的現実を否定するとき、それは自己防衛的になる。更に、それらの保護は、変化する現実に適応することが困難である。なぜならば、変化は、現状から利益を得ている選挙区を怒らせるからである。アメリカ人が非常に複雑な税制度を持っている理由は、有力な有権者が疑わしい税金の選好を防衛するからである。同じ理由で、莫大なアメリカの財政赤字は、いつまでも続く。支出削減と増税は、怒りの連合を引き起こすからである。
人口の漸次的老齢化莫大な援助を必要とするが、誰も真剣にこの費用を抑えようとはしない。日本人もドイツ人も彼らの問題に対して同じ態度を取った。彼らは決算日が来ないことを望んでいる。だが、彼らはまちがっている。
[訳者のコメント]日本とドイツとが同じような経済的政治的問題を抱えていることが分かります。アメリカにも同じ問題があることを指摘する辛口の評論です。
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