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海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「アサンジュ、ロシアについて驚くべき暴露を計画中」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2010年12月07日 | 人物
インターネットによる暴露サイト「ウイキリークス」の創設者であるジュリアン・アサンジュは、ロシアに関する文書の多くを公表すると予告した。「われわれはロシアが問題になっている何千もの文書を持っている」とアサンジュは、ロシアのテレビ放送局NTVとのインタービューで述べた。そこでは、問題になっているのは、「オリガルヒ」やモスクワ市長やロシアの最大の企業である。「来月、すべては公開される」とアサンジュは、最近、ウイキリークスで公表された米国大使の電文では、ロシアは、民主主義の欠けたもっとも腐敗した国家である述べられている。
インタービューの中で、アサンジュは、目前に迫った逮捕命令にもかかわらず、まだ安全だと感じていると述べた。「まだ、安全な場所がいくつもある。われわれには友人がたくさんいる。」「まだ好意的な国がある」とこの36歳の男は言った。「ウイキr-クスの目的は、まったく自由な意見の表明であって、それは国家に対す試験だ。多くの国家は残念ながらまだそういう状態になっていない。私が生まれたオーストラリアもそうなっていない。ヨーロッパンの国々でもまだ安全だとは感じられない」とアサンジュは述べた。
NTVの記者のコメントによると、アサンジュがまだ生きているのは不思議だと思っている。「米国のような国が自分を殺すとは考えていない」とウイキリークスの創設者は言った。「私は注意の的になっている。これが私を守っているのだ」と彼は述べた。(後略)
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「アクマル・シェイクの軽率なビジネス計画とポップ・スターダムの夢」と題する記事。

2009年12月29日 | 人物
ロンドン北部での小型タクシーの商売から、中国北西部の離れた場所での死刑囚監房に到るアクマル・シェイクの旅は、東欧のギャングの一味から軽率なビジネス計画と国際的ポップ・スターダムの夢を含む迷宮のような物語だ。
それは、シェイクが彼の妻と子供達と一緒に住んでいたロンドン北部のケンティッシュ・タウンで始まった。夫婦はテクシと呼ばれる小型タクシーの会社を経営しており、生活は良いように見えた。
 シェイクの以前の弁護士であるブルース・ハイームは、『オブザーバー』紙に、シェイクは、かっては「魅力的なカリスマ的な男だった」と語ったが、合法的なキャンペーン・グループの「リプリーヴ」は、彼には「非常に奇妙な振る舞いの長い歴史」があると主張している。彼の兄のアクバルは、自分の弟は、彼の最初の結婚が終わった、2001年に精神的病気の兆候を示し、「年を取るにつれて、脱線するように見えた」と言った。2004年には、彼はスタッフの女性メンバーに対する性的嫌がらせの理由で告訴され、雇用裁判で未払いの賃金と損害に対して1万ドルの支払いを命じられたと地方紙は書いている。
 しかし、2005年には、シェイクの生活は、更に崩壊し始めた。彼は突然荷造りをして、ポーランドへ旅行し、そこで、彼はそうする資金がないのに航空機製造会社を設立するのだと言明した。金もビジネス計画もなく、航空産業での経験がないので、ベンチャーは、まもなく失敗したが、彼は懲りなかった。
 家族に背を向けて、彼はルブリンからワルシャワまで引っ越した。ある時点で、彼は女友達を手に入れた。彼女は、「彼の本当に馬鹿げたクレージーな行動を心配した」と『オブザーバー』紙に述べた。たとえば、ある時、彼は自分は100万ポンド(1億8千万円)を手に入れたということを示す偽の手紙を彼女に送った。
 それから、彼はEメールのキャンペーンを始め、彼が一度も会ったことのない有名人や政府の高官についての妄想を語り、72ポイントの大きな字体で書かれた無数の文書を打ち出した。2005年以来、ワルシャワにある英国大使館に送られた数百通の彼の手紙は、彼の精神状態を暴露している。「リプリーヴ」が受け取ったメッセージの中で、彼は天使ガブリエルに話しかけ、新聞記者会見を開くことを許されていたら、自分は2005年の7月7日の爆弾(ロンドンのテロ)を失敗させることもできただろうにと説明した。
 あるメッセージは、トニー・ブレア、ポール・マッカートニー、ジョージ・W・ブッシュとBBC放送の「トップ・ギア」を含む74の組織と個人にコピーが送られた。
 しかし、Eメールに含まれたナンセンスの中には、彼が彼の傷つきやすさを利用した犯罪者達に巻き込まれたことを証明する情報があった。あるEメールは、音楽産業で名をなしたいという彼の夢を達成するのを助けようととした、カルロスと呼ばれる人物に言及している。カルロスは、素晴らしいコンタクトを持ち、キルギスタンのプロデューサーを知っており、この人物は、ポップ・スターになりたいという彼の夢を叶えるのを助けるだろうと書かれている。(中略)
 今日、シェイクの歌を録音した二人の男は、シェイクが精神的に病んでいたということをよく知っていた。
 英国人教師であり音楽家であったガレット・サウンダーズは、「シェイクは自分の歌が世界に非常に肯定的なインパクトを与えるだろうと思っていた」と言った。(中略)
 中国の法律は、被告が重大な犯罪で告訴された場合でも、被告の精神状態は考慮に入れられると書かれている。しかし、中国当局は、シェイクを医師によって鑑定して欲しいという繰り返された要請を却下した。今年の五月に開かれた彼の第一回の審理で、シェイクは、法廷で長いとりとめがなく、筋の通らない声明を読むと言い張った。彼のパーフォーマンスは、非常に奇妙だったので裁判官達は笑った。(後略)
[訳者のコメント]この記事を読む限り、シェイクに必要だったのは、死刑ではなくて、精神病院での治療だったと思います。

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「スターリンはこの人間的な輝きを抑圧するのに失敗した」と題する『シドニー・モーニング・ポスト』の記事

2009年11月03日 | 人物
スターリン時代のソヴィエトの作曲家プロコフィエフとショスタコヴィッチの芸術的行為について近年ある激しい議論が荒れ狂った。
一方の側は、彼らはお祝いの作品を書くように強いられたが、彼らはそれらの作品に二重のメッセージを付け加えたので、ソヴィエト連邦の成果は、深く皮肉な発言として聴かれるべきだ主張する。ショスタコヴィッチの第五交響曲に付けられたフィナーレがその例だ。
音楽学者リチャード・タラスキンに率いられた他の側は、彼らが作曲したこれらの作品は、その理想に従って生きる芸術の失敗を代表していると主張する。
「シドニー交響楽団」を指揮するウラジーミル・アシュケナージの「プロコフィエフ・フェティバル」は、これらの論証をテストする機会を与える。
皮肉は、プロコフィエフのスタイルの自然な部分であって、それは彼の作品にその表現的な鋭さを与えたものとなっている。けれども、全体として見ると、最初のプログラムで演奏されたどちらの交響曲も、--第一次世界大戦中に書かれた「交響曲第一番」と第二次大戦が勝利に向かって転換しつつあったときにお祝いに書かれた「第五交響曲」--表面の価値とは何か違ったものと見なされるべきだ。
「交響曲第一番(古典的交響曲)」は、ストラヴィンスキーの新古典派的作品に先行しており、華々しく、ところどころ渋く、ハイドンのスタイルで交響曲を再創造しようとする常に楽しい試みである。リズムやハーモニーやオーケストレーションには小気味の良い現代的ひねりが加えられている。
アシュケナージは、人間的な輝きを引き出すために木管楽器のバランスを取るように指揮した。第三楽章では、アシュケナージは、折り返しの点でマジカルな輝きを達成するようにこの楽章を作り上げたが、コンサートマスターのディーン・オルディングは、弦楽器に強度を集中するように促した。
前半では、ボリス・ベルキンは、「ヴァイオリン協奏曲第二作品63番」を達者に演奏し、陰鬱な妄想から人を惹きつける人間的な暖かさや熱狂的な残忍さにまで及んだ。
プログラムの前半では、瞬間的に規律の逸脱があったにも関わらず、「第五交響曲」の演奏は、アシュケナージが「シドニー交響楽団」を最善へともたらすように上手く扱うことができるという正確さと楽しみの例であった。
[訳者の感想]音楽批評を翻訳したのはこれが初めてですが、このピーター・マッカラムという評論家の表現はかなり難解で手こずりました。もう二度と音楽批評は翻訳しないつもりです。
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「英国エネルギー相、モスクワで偶然、親類を発見」と題するBBC.NEWSの記事。

2009年10月08日 | 人物
事件は、モスクワの人気のあるラジオ局「モスクワのエコー」の電話プログラムの最中に起こった。
若々しい顔をしたミリバンド氏が一酸化炭素排出と永久凍土の融解について答えようと用意していたところかなり年配の女性の声がやってきた。
「私はソフィア・ダヴィドヴナ・ミリバンドよ。私はあなたの親類なの。(ロシアで)生きているのは、私だけよ」と言った。
英国の大臣が呆然となったとき、ショウの司会者は、回線を切った。明らかに、いたずら電話だと思ったのだ。だが、それはいたずらではなかった。
ミリバンド大臣が彼の長い間行方不明だった親類に会おうと突進したとき、英国大使と招待された数十人の客達は、大使館の受付で足止めを食った。
ソフィア・ダヴィドヴナ・ミリバンドは、86才になる学者である。彼女はかっては、「モスクワ東洋学学校」でイランに関する指導的な専門家だった。
翻訳するやら、英国にいる彼の母親に電話をかけるやらした結果、彼の曾祖父の父親がミリバンド女史の祖父の兄弟だったことが判明した。
彼らはどちらも、ポーランドのワルシャワのユダヤ人街で生まれたのだ。
エドワード・ミリバンドの祖父は、1920年代にポーランドを出て、ベルギーに落ち着いたが、ヒットラーの軍隊が侵入してきたとき、彼は、再び自分の息子--つまりエドワードの父親--と一緒に、偽造した書類で英国に渡った。
ミリバンドの一族の他の人が東にモスクワまで逃れたことは、彼らには知られていなかった。
ソフィア・ダヴィドヴナは、ミリバンドにとても嬉しいと語ったそうだ。彼女には子供がなく、自分は最後のミリバンド一族だと思っていた。遙か離れた英国で、親類が二人も内閣に勤めているということは、(弟のデイビッド・ミリバンドは、英国の外務次官である)彼女も殆ど知らなかった。ミリバンド氏は、BBCのラジオの「午後4時のプログラム」に、「驚くべき女性だ」と述べた。
「私は、子供の時彼女の存在についてぼんやりとしか知らなかった。どうして知っていたかというと、コンピューターに「ミリバンド」という名前を入力すると、彼女の名前が出てきたんだ。」
私は子供の時から彼女についてはいささか驚嘆していた。でも、面と向かって会えるとは、すごいことだ。」
「彼女は、一族の結びつきを作りだして、自分が最後のミリバンドではなく、英国に家族の分家がいるということを知る以外には、デイビッドや僕にはそれほど興味はなかったと思う。」
[訳者のコメント]おそらく、1989年以前には、イギリスに親戚が居ると言うことは、公言できなかっただろうと思います。
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「クレオパトラが見つかったと嘘をついた人は多い」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年04月22日 | 人物
9年前、ベルリンで新しい発見が展示された。それは、エジプト女王クレオパトラのひょっとしたら直筆のサインが書かれたパピルスだった。もし、彼女の手つかずの墓が明るみに出たら、どれほど大きな注目を浴びるかは、想像に難くない。もし、そこに、彼女の愛人だったマルクス・アントニウスの遺骨が見つかったら、それは世界的なセンセーションを巻き起こすだろう。
そういう希望を掻き立てているのは、他ならぬザヒ・ハワス博士である。このエジプト古代管理局の有力であると同時に策動的な長官は、かれの最新のプロジェクトをだからこそ、それにふさわしく演出している。「私たちは、墓地を手つかずで見つけるだろうと期待している」と彼はメディア受けする仕方で述べた。「世紀の最大の発見になるはず」の探索はすぐにも始まる予定だ。
それまでは、勿論まだ、少し時間がかかる。なぜならば、われわれの空想を掻き立てる墓は、アレクサンドリアの西方、50キロの丘の上にあるある神殿の地下、24メートルのところにあるからだ。現代の装置を使うと、地下70メートルまでレントゲンが届くそうだ。どこかそこらに、複雑なトンネルシステムが存在しているとドミニカ共和国出身の女性考古学者キャスリン・マルチネスは確信している。彼女のチームは、三箇所にシャベルで掘ろうとしている。
3年前から彼女はタポシリス・マグナの神殿で掘っている。出土品は、ミイラ10体とクレオパトラの肖像が彫られたコインが22枚、マルクス・アントニウスを表現していると見られる面が一つである。これらが考古学者に伝説的な恋人達の痕跡にたどり着いたと思わせた。
その上、この紀元前3世紀に建てられた神殿は、イシス女神に捧げられている。エジプトの神話では、この女神は、彼女の殺された夫オシリスを生き返らせた。クレオパトラは、生きているときに、彼女の臣下に対して、自分はイシス神の化身であると主張したから、この多産の神の神殿は、彼女の永遠の休息場所にふさわしい。
しかし、公衆に働きかける期待の背後には、方法上の大きな問題が隠れている。というのは、期待された発掘物は、歴史的記録によれば、まったくここには存在しないかもしれないからだ。だって、最も重要な年代記作者や歴史家は、一致して、クレオパトラは、アレクサンドリアで埋葬され、アントニウスは、そのそばに埋められてと伝えているのだから。もし、タポシリス・マグナの発掘によって、クレオパトラの遺骸が暴かれれば、歴史研究の方法上の足場を揺るがせるような仕方で、それはわれわれの証人を笑いものにするだろう。(以下省略)
[訳者の感想]ザヒ・ハワス博士は、テレビでわれわれにもおなじみになりました。先日も、ここにクレオパトラの墓があるに違いないと自信たっぷりでしたが・・・。
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「優しい想い出の宝」と題するチュービンゲン市立博物館の記事。

2009年03月29日 | 人物
1791年2月12日、ゲオルク・フリードリヒ・ヘーゲルは、彼の運命の重荷にひしがれていた。禿頭で、長い髭を生やし、老人の姿で、裸足で、修道服に身を包んで、二本の杖をついている。彼の友人のゲオルク・フリードリヒ・ファロットの信心深い願いが書き込まれている。「神がこの老人を助け給わんことを!Aさん万歳!」このとき、ヘーゲルは20才だった。(ヘーゲルのあだ名が「老人」だったことはよく知られています。訳注。)
ファロットが友人の立ち居振る舞いのぎごちなさと不器用さとを戯画化した絵は、ヘーゲルの記念帳に見出される。この記念帳は、当時、多くの学友と同様、この神学生ヘーゲルが携行していたものだ。これらの友人のアルバムには、友人や同僚、あるいは、地位の高い人物の名前が書き込まれているのだが、それは、17世紀の前半に、詩のアルバムの先駆者として現れ、その起源は、おそらくヴィッテンベルクにある。そこでは、ルターとメランヒトンが教えていて、ドイツ中から学生を惹きつけていた。既に1566年には、メランヒトンの最初の伝記作者であるヨアヒム・カメラリウスは、自分の本に献辞を書いてほしいという学生の願いに対して、メランヒトンが示した驚くべき熱心さについて報告している。この宗教改革者は、しばしば、数ページも献辞を書いたので、彼以外の人が書き込む場所がなかった。それゆえ、ヴィッテンベルク大学の学生達は、本の中に白紙を挿入して製本させ、そこに、後で、余り有名でない同時代人や自分の友人グループにも記帳をさせたのだ。
 ルターとメランヒトンの死後、すぐに、この記念帳の売買が始まったとき、献辞用の挿入紙は、本からは切り取られ、記念帳に挿入された。それは、1550年頃、既に、ドイツの広範な部分に広まっていた。次第にサインや献辞が書き込まれ、製本されたこの記念帳のコレクションや本の見返しがあの「優しい想い出の宝」となった。ゲーテが次のように書いたのは、1800年11月22日に彼の息子アウグストの記念帳が差し出されたときだった。記念帳がどのような役割を演じるのか息子に初めて説明せねばならないかのように、ゲーテはその使用法を4行詩に書いた。
「この本を恩恵を与える人に出しなさい。友人や遊び友達に出しなさい。
 そばを通り過ぎる急いでいる人に出しなさい。
 親切な言葉や贈り物をくれた人に出しなさい。
 優しい想い出の宝を積みなさい。」
だが、しばしば、記念帳は自分で旅に出て、所有者が旅行の途中で出会った人を書き留めた。コーブルク出身のヨハン・フリードリヒ・ヴァイスは、ライプチヒ大学の学生で、後にニュルンベルクで開業医になったが、彼は1625年から1633年まで、アムステルダム、ロンドン、ライデン、パリ、オックスフォード、ケンブリッジ、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、ヴェニスを旅行し、ヴェニスではガリレイと知り合いになった。ガリレイは、彼の記念帳に双曲線を書き、ラテン語で「私に近づいても、私は一緒には行かないだろう」(Accedens non conveniam.)と書き込んだ。
 ヴァルター・イェシュケの書いたた『ヘーゲル・ハンドブック』の伝えるところでは、若いヘーゲルは、学友の間では、非常に「キス好き」で知られていたが、若い女性との交際では、はっきり、不器用だった。ファロットの書き込んでいる「Aさん」というのは、当時、学生達の間で人気があったチュービンゲン大学教授の娘アウグステ・ヘーゲルマイアーのことである。ヘーゲルがどの程度、成功したかは知られていない。(以下省略)
[訳者の感想]『フランクフルター・アルゲマイネ』紙に載ったチュービンゲン市立博物館で現在開催中の「記念帳」の展覧会について書かれた記事です。ガリレオ・ガリレイの書き込みが残っていたというのが面白いと思いました。
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「原爆を二度生き延びた男」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年03月28日 | 人物
東京発:彼が想像もできない幸運を持ったのか、それとも単に運が悪かったのかまだ、当分、争われるだろう。93才の山口ツトムさんは原爆を二度体験したが生き延びたということはいずれにせよ信じがたい。
この特別な事情を日本の役所は、出来事があってから、60年経って、認めた。山口さんは第二次大戦に広島と長崎で二度のアメリカによる原爆攻撃のこれまで知られた只一人の生き残りである。
山口さんは、仕事で、広島に二ヶ月滞在した。1945年8月6日の朝、彼は二人の同僚である岩永アキラと佐藤クニヨシと一緒に早起きして、汽車で故郷に帰ろうとしていた。駅へ行く途中で、三人は別れ、山口さんは会社に戻ったが、それは幾つかの私的な用事を済ますためだった。旋回する飛行機が広島上空にいた。太平洋戦争の間、重要な供給基地であり、軍事基地だった広島では、珍しいことではなかった。山口さんは、原爆機「エノラ・ゲイ」の爆音を聞いた。8時15分、投下された原爆「リトル・ボーイ」が市の中心、580メートルの上空で爆発した。原爆の破壊力は、目も眩む閃光と想像を絶した振動によって示された。この空襲で、14万人がその場で、また数年後に放射能の浴びた結果死亡した。山口さんは上半身に大やけどを負った。その夜を彼は防空壕の中で過ごした。翌日、応急処置をして、彼は足を引きずりながら、駅へ行った。山口さんは、とにかく家へ帰りたかったので、一番手近の汽車に乗った。
長崎へ帰って、彼は雇い主の三菱重工に帰宅の報告をした。この軍需品の製造工場で、彼は当時オイル・タンカーの設計をしていた。8月9日、午前11時2分、彼は丁度上司に自分が広島でどんな目に会ったかを説明しようとしていたとき、第二の原爆が長崎に投下された。彼はまたもやそれから生き延びた。そこでは、7万人が犠牲となった。山口さんの息子は、59才でガンで死去した。だが、彼自身はまだ元気で、黒い目をして、短く刈った銀髪のこの人からは、多くの善意と智恵とが放たれている。耳だけが殆ど聞こえず、足の力も次第に失われたと、この93才の男性は語るのだ。彼の事例は、今や政府文書に記載された。「それは、若い世代にあの二つの空襲のひどい歴史を物語るでしょう、私が死んだ後も。」
 原爆の被害者と認定されると、犠牲者には援助が認められる。治療は無料だし、埋葬は、国が引き受ける。だが、二つの原爆を生き延びたということが証明された後も、山口さんの受け取るものは、変わらない。
[訳者の感想]ダニエル・シュミット記者の書いた記事です。この山口ツトムさんのことは、私は初めて聞きました。
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「展覧会は、ロンメル神話を崩すか」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2008年08月19日 | 人物
「砂漠の狐」は、黒い革マントを着、視線を地平線に集中させていた。戦車の上で背中を伸ばし、双眼鏡を首にかけ、胸には勲章をつけたエルヴィン・ロンメル--北アフリカ戦線の天才的な司令官というイメージは、ある世代の集団的記憶の中に焼き付いている。
それは偶然ではない。「ロンメル神話」は、60年以上前に、ナチの宣伝機関によって創り出された。シュツットガルト市の「歴史館」に勤める学者達は、目下、なぜ、ヒトラーの戦術家が今日まで魅力を失わないのか研究している。
エルヴィン・ロンメルは、1891年、数学教師の息子としてハイデンハイムに生まれた。軍隊における急速な昇進と第一次大戦における大きな成功の後、アドルフ・ヒトラーは、シュヴァーベン出身の陸軍中将をリビアに派遣した。
二年間、彼は北アフリカでイギリス軍と戦った。イギリス軍がドイツ兵を押し返したとき、ロンメルは、ベルリンに呼び返され、イタリア戦線とフランス戦線に投入された。1944年、彼は7月20日のヒトラー暗殺計画に巻き込まれたという容疑を受けた。三ヶ月後、ヒトラーの密使は、彼を自殺するように強いた。
 国家的英雄へとロンメルを持ち上げることは、アフリカ派遣とともに始まり、ある注意深い計画に従っていた。1941年11月、ゲッベルス宣伝相は、日記に次のように書き込んだ。「私は北アフリカの戦闘が決定した場合、ロンメルを一種の国民の英雄にするよう進言している。」
 ロンメルの相次ぐ成功は、東部戦線における失敗から国民の目を逸らせ、銃後の国民に安心感を吹き込むはずだった。「ロシア戦線がまずくなればなるほど、それだけ一層多く、ロンメルはニュース映画に登場した」と「歴史館」の歴史家であるコルネリア・ヘヒトは言う。
 ロンメルは、ナチの宣伝にとってうってつけだった。野心的で大胆で強固な意志をもち智恵のある司令官のポートレートは、無数の絵はがきやポスターに描かれた。
 一年前から、ヘヒトは、同僚と一緒に特別展のための資料を集めた。その際、ロンメルの息子から支援を受けた。息子のマンフレート・ロンメルは、「彼がシュツットガルト市長だった時代から『歴史館』に対して非常に肯定的だった」と館長のトーマス・シュナーベルは言う。「協力は非常に積極的でした。」
 エルヴィン・ロンメルとはどんな人だったかは、にもかかわらずはっきりしない。「この神話化された人物がどんな人だったかを言うことはとても難しい」とヘヒトは言う。三十年間の結婚生活で彼は妻に沢山の手紙を書いたが、ユダヤ人迫害や他の重要な政治的なテーマについては、ほとんど何も言わなかった。父として夫としての彼の生活は、野戦将軍のイメージ作りには重要ではなかった。
 死の少し前に、ロンメルはある手紙でヒトラーに降伏するように要求した。戦争は、もはや、勝てない。ロンメルは戦争を終わらせようとしたのだ。
 その上、彼がシュタウフェンベルク伯爵によるヒトラー暗殺計画を支持はしなかったが、少なくとも知っていたと言う理由で、ヒトラーは、ロンメルに選択を迫った。国民裁判所での裁判と彼の家族には恥辱が与えられるか、それとも自殺と国葬されることとのどちらを選択するか。1944年10月14日、ロンメルは、青酸カリのアンプルを飲んだ。
 後には、盛大な葬儀や、記念碑の計画、映画の中での追悼、ナチ党新聞での特別号が続いた。
「彼の死は、神話としての演出の頂点だった」とヘヒトは言う。ロンメルはヒトラーに背を向けたがゆえに、この神話は、戦後も生き続けた。1952に制作された映画「砂漠の狐」や、1953年に制作された「これが我らのロンメルだ」は、この神話と結びついている。
「歴史館」の「特別展示ロンメル神話」は、今年12月18日に開かれる予定。
[訳者の感想]ヒトラーでさえ、国民的英雄を反逆者にはできなかったのだろうと思います。ロンメル将軍自身が自分の神話を壊したくなかったのかもしれません。
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「見物人がヒトラーの首をへし折る」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2008年07月06日 | 人物
朝、10時、ベルリンの「タッソー夫人の蝋人形館」の別館が開かれたが、10少し過ぎにはもう閉じられた。というのも、見物人が人形に殺到したとき、一人の男がまっすぐ問題のアドルフ・ヒトラーの人形の所へ行き、頭をもぎ取ったからである。
9時半には既に、『モルゲンポスト』紙にはヘルムート・フライシャーだと名乗ったアンドレアス・L.は、待っていた見物人の列の二番目に立っていた。彼は特にアンゲラ・メルケルを見たいと思っていると、『モルゲンポスト』紙に述べた。ヒトラーも見られるのだというということを知らないような振りをした。
10時5分、新しい蝋人形館が開き、アンドレアス・L.は、五分後にはヒトラー人形の前におり、人形が座っている机越しに身を乗り出して、人形にさわろうとした。
人形館の職員シュテファン・コッホともう一人の同僚が犯人を取り押さえようとしたが、同僚は攻撃を受けた。
それ故、このクロイツベルクの住人に対して、器物損壊だけでなく、身体障害のかどで捜査していると、警察の広報官ベルント・ショドロフスキーは言明した。監視員は殴打されたが無事だった。
この41才の男は、机を飛び越えて、人形の後ろに座った後で首をもぎ取った。人形全体は床にころがった。人形館は開かれたままだったが、人形は撤去された。損害の程度については、まだ何も述べられていない。
 警報を受けた警察は、犯行後、この男を館内で逮捕した。男の述べるところでは、ヒトラー人形の展示に反対だという意志表示をするつもりだったという。これまで、容疑者は、無賃乗車のような軽犯罪で警察の厄介になったことがあるが、政治的な動機での犯行を行ったことはない。人形館の広報官であるナタリー・ルオスは、事件を説明することができなかった。「監視員は二人現場に居合わせたが、事件を防げなかった。人形が再び展示されるかどうかについては、彼女は、すべてを未決定にした。「一体が20万ユーロ(3200万円)する人形に加えられた損傷の程度による。」ヒトラー人形の残骸は、公開されていない場所に移された。
この人形を巡っては、公開前から大きな政治的な問題になっていた。しかし、主催者は、
それを展示に欠くことができないと述べた。他のすべての人形と違って、ヒトラー人形は写真撮影は禁じられている。
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「キッシンジャーは世界をどう見ているか」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2008年07月04日 | 人物
ER 緊急救命室 III ― サード・シーズン DVD セット vol.2

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 彼が国務長官を辞めてからずいぶん時間が経った。だが、彼は今なお世界政治の最古参
である。彼と同じくらいの世界的な名声をもった人間は少ない。それは、彼が移住したドイツ系ユダヤ人として米国の政府閣僚になり、世界政治を行ったという事実に負っている。
 最近、彼は「ロシアについての月並みでない考え方」という題で論文を書き、モスクワを訪問した後、その中で、メドヴェージェフとプーチンとの二頭立て政府の力学を論じた。ロシア政治のわかりにくさが彼を引きつけている。すべてが演出されたとしても、時間とともに新しい現実が作られるだろうというのが彼のテーゼである。
 ロシア人の世界観に対して、敏感さを示さなければならない。ウクライナとグルジャのNATO加盟問題は、キッシンジャーにとっては、あまりに機械的である。現在、彼はそれをしないように西欧諸国に忠告している。ウクライナを外国だと認めるには、ロシアには時間が必要だ。同様に、中国がチベット問題を香港返還のときのように扱うことができるには、時間が必要だ。キッシンジャーにとっては、時間は重要な尺度である。誰が良い政治家であり、誰がそうでないか、誰がビジョンを持ち、国際的秩序に対して基本的なことを貢献できるか、できないかを知るには時間が必要だ。
彼は火曜日にはイタリアにおり、水曜日にはベルリンのアクセル・シュプリンガー出版社の客となった。ここで三度目に、ドイツと世界について議論するために。人々が集まるのは、彼らがキッシンジャーの重要さと賢明さを感じるからだ。それはサッカーのような日常的な物事にも向けられる。彼はウイーンでヨーロッパ選手権試合を見、ドイツ・チーム
の規律を知っている。それがスベイン・チームのファンタジーに負けたのだ。
しばしば、彼は中国やインドも訪問している。「自分たちはよりよい未来へと動いているのだ」という人々の信じがたい確信に引きつけられて。それは、今日のヨーロッパには欠けていると彼は残念がる。この世界で、ただの見物人であり、国民を未来の問題へと元気づける力がないこと、国民に彼らにふさわしい犠牲を要求する力がないこと、これがヨーロッパの欠点だ。その代わりにいつも柔らかい外交ばかりやっている。ヨーロッパを指導する偉大な人物の時代は過ぎた。他の形成力を展開した強力な国民国家の時代は過ぎた。「私はドイツを批判するために来たのではありません。あなたもご存じのように、私はメルケル首相のプラグマチズムと合理性を高く評価しています。」その上、彼は大連率が壊れないように、彼女により多くの柔軟性を希望した。(以下省略)
[訳者の感想]キッシンジャーはまだ元気なようです。シュプリンガー出版社は、新聞『ヴェルト』紙を発行しています。今の社主は誰か私は知りません。
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「ギュンター・グラスが企画したロシアでの作家たちの集会」

2008年06月01日 | 人物
常務島耕作 6 (6) (モーニングKC)
弘兼 憲史
講談社

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 ある日、アレクサンダー・ヴァシリエヴィッチは女に変身した。彼はある写真館で自分の写真を撮らせた。初めは、酔っぱらって幾つかの写真を取り間違えた写真家のだらしなさだと思われたものは次には悪夢へと変わり、最後には否定できない事実だと判明した。アレクサンダーが実際、アレクサンドラ・ヴァシリエヴィッチになり、彼女は、最後に、あるロシアの核実験施設で放射能を浴びたために、インポテンツになった大佐によって結婚させられ、奇妙な性転換の幸福な果てにいくらか得ることができるという筋の小説。
カブトムシに変身したグレゴール・ザムザを巡るカフカの物語の変形を書いたのは、1963年カザフスタンに生まれたディミトリ・ゴルチェフである。彼は10年前からペテルスブルクに住んで、小説を書いている。グロテスクの程度を高め、少しも亜流には見えない物語は、明らかにギュンター・グラスの趣味に合っている。なぜなら、彼はゴルチェフのウイットと魅力をほめたからだ。その後で、自分のベルリンを舞台にした小説『意地悪の羊』を朗読したカチャ・ランゲ=ミュラーは、この不条理な物語の中に「オポチュニズム」の定式を発見し、ゴルチェフが彼女自身の読み方を超えて、テキストについての意味の権利を読者にゆだねているという理由で、ゴルチェフを賞賛した。
 グラスが2007年の夏にペテルスブルグで自分より幾つか年上で病気のために体が不自由になっているロシア人作家のダニエル・グラニンに逢い、共同でドイツとロシアの作家の出会いを考え出したとき、彼は明らかにこのような事態を予想していた。ペテルスブルグにある「ドイツ文化センター」の所長であるラルフ・エッペネーダーは、この計画を取り上げ、10ヶ月前から、ミュンヒェンの「ドイツ文化センター」本部からの応援を得て、モスクワ在住の作家立ちだけが問題視しているこの文学の中心での会合を立ち上げた。
[訳者のコメント]これがきっかけとなって、新しい現代のロシア人作家の作品がどんどんドイツ語に翻訳されることになるかもしれません。
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「ビン・ラディンの息子、馬に乗って平和の使者に」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2008年01月19日 | 人物
お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践 (光文社新書)
勝間 和代
光文社

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 アルカイダの指導者オサマ・ビン・ラディンの息子のオマール・ビン・ラディンは、彼自身の言葉によると、「イスラム」と「西欧」のあいだの平和の使者になることを望んいる。あるインタビューで、この26才の青年は、自分の父親を断罪することを避けた。しかし、「イスラムを防衛するもっと良い道がある」とこの世界中で追求されているテロリストの長男は、述べた。
 「問題は、西欧の考え方を変えることだ。多くの人間は、アラブ人、特にビン・ラディンの一族は、みんなテロリストだと思っている。だが、それは真実ではない」と彼は言った。父親によく似ているこの男は、「自分は2001年まで、アフガニスタンのアルカイダの訓練施設に滞在した。しかし、それから、別の道を行こうと決心し、父親のもとを去って、サウディ・アラビアへ帰った」と述べた。
 今日、オマール・ビンン・ラディンは、彼の妻と一緒にエジプトに滞在している。彼女はオマールより二倍も年齢が上のイギリス人で、名前は、ジェーン・フェリックス=ブラウンという。彼女は、ザイナ・アルサバと名乗っている。二人は、平和を実現するために、北アフリカを横断する5千キロの旅を計画している。
 アメリカの反テロ情報員は、オマールが彼の父親の実際の活動に巻き込まれていないと断言した。彼は、オマールが米国秘密情報機関のレーダー・システムで捕捉されていることを示唆した。「ビン・ラディンという姓を名乗る人は、みんな当然、関心を呼び起こさずにはいないからね」と彼は付け加えた。
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「シンドラーのリストを作成した女性」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年12月21日 | 人物

 ミミ・ラインハルトがシンドラーに出合ったのは、1944年の10月だった。それはポーランドのクラカウに近いプラスツォフの強制収容所だった。ロシアの赤軍が迫り、国防軍は退却しかけていた。クラカウの琺瑯工場の経営者だったシンドラーは、もっと西方の国防軍の支配地域に移転しようとしていた。彼の目標は、現在チェコ共和国の領土であるブリニッツに武器工場を建設することだった。だが、彼にはある関心事があった。それは、琺瑯工場で働いていた「私のユダヤ人」が自分と一緒に移転することだった。その上、彼にはもう一つの願望があった。彼はブリニッツで働いてくれる人間を1,100人必要としていた。
 「私たちは、シンドラーがユダヤ人をとても親切に扱うことを知っていたわ」とラインハルトはイスラエルの新聞『ハーレツ』のインタービューで言った。「彼は収容所長のアーモン・ゲートにもっと沢山のユダヤ人をくれと言ったの。」こうして、あの有名な「名簿」が作られた。最初、ミミ・ラインハルトは、シンドラーの労働者を「名簿」に書き込んだ。それから、彼女の家族や友人の名前を追加した。次第に数が増えた。「人数が一杯になるまで、私は自分の名前と私の友人たちの名前を書いたわ。私は自分に課せられたことをしたの。彼らが私に名前を書けと命令したから、書いたのよ。」
 「私はシンドラーの評判が良かったので、彼のところに残ろうと思ったわ。でも、、この「名簿」に名前を書かれたくない人も沢山いたわ。シンドラーと一緒にブリニッツに行くことは、私たちに何も保証はしなかったの。私たちはシンドラーが自分たちを救うのに成功するだろうと思っていなかったわ。ひょっとしたら、彼は私たちを別の収容所に連れって行ったかもしれない。誰がそれを知り得たでしょう?私たちはシンドラーを信頼したから、名簿に書いてもらったの。他に理由なんてないわ。」(中略)
 ミミ・ラインハルトは、シンドラーについて、とてもバランスの取れた話し方をした。彼がユダヤ人を救った動機については、映画が上映されて以来、いろいろな憶測がなされた。「彼は天使ではなかったわ。私たちは彼がSSの隊員だったことを知っていたの。」
彼はひょっとしたら、ドイツが戦争に負けることを知っていたかも知れないとかなり多くの人は言う。「私にとっては、彼は自分のしたことで自分の命を危険に曝した人だわ。彼は自分を救おうとしたのだ、この動機が彼の行動を決定したのだと仮定してみましょう。
それなら、なぜ彼のようなナチが他にはいなかったのかしら?彼は人間だったわ。多分、彼は黄金の心臓を持っていたのね。」
 ミミ・ラインハルトは、これらすべてをこれまで一度も洩らさなかった。彼女は自分の子供たちにも話したことがなかった。息子のサッシャは、ハンガリーで見つかった。二度目の結婚で生まれた娘は、49才で病死した。1993年の映画の初演を彼女は見なかった。
「思い出がまだ生々しかったから、私には映画が見られなかったわ。」(後略)
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「ある偶像の終焉--バイロイトの運営が危機に」と題する『ネット新聞』の記事。

2007年07月31日 | 人物
 老齢と衰える健康とは、ヴィルフガング・ワーグナーが、バイロイト祝祭劇場のある「緑の丘」の独裁者としてここ数十年間可能であったように、これまでの権力を近似的に発揮することを不可能にした。
 ある偉大な人物の時代は、2007年夏に情け容赦なく終わるのだ。この催しの大掛かりな経過以上に、このことを明らかにするものは何もない。この催しのアイドルは、これほど長くこれほど完全に疑問の余地がなかった。
 先週の金曜日、「バイロイト友の会」が、例年のように集まったとき、1953年に創設された忠実で財力のあるパトロンの会に一度も欠席したことのない人物がいなかった。それはヴォルフガング・ワーグナーである。
 彼の広報担当者が読み上げた欠席の理由、つまり、昨年の集会における立腹という理由付けには、「友の会」会長であるゲオルク・フォン・ヴァルデンフェルス従男爵でさえ、異議を申し立てた。バイロイトの事情にとっては、前代未聞の出来事だった。これまで、ヴォルフガング・ワーグナーは、開会公演で有名人訪問者を出迎える際、公式にはほんのわずかな時間しか姿をあらわさなかった。
 彼は、明らかに老衰してはいたが、感動するほど元気に、62才の妻グートルンと娘のカタリーナの間に立っていた。カタリーナは、『ニュルンベルクの職匠歌手』の舞台監督として新しい演出の責任を引き受けていた。だが、それは、あれほど長い間、祝祭劇場に常に現れ、この重要な文化的な出来事の争う余地のない権威であった男ではなかった。
後任の問題は、非常に差し迫っている。
 どれほど差し迫っているかは、2008年から2010年までの160万ユーロ(2億5600万円)に達する資金不足についての「友の会」の集まりでの議論が証明している。確かに、パトロン団体は、不足金額を支払う用意があると断言したが、名誉会長のエーヴァルト・ヒルガーは、「危険な状況」について語った。これは、作曲家ワーグナーの孫の時代にはなかったことだ。なぜなら、彼は、節約する財政家で疲れを知らぬ金策調達者という評判を得ていたからだ。
 その間、祝祭主催者は、「友の会」の批判を退けた。地方紙『バイエルン・クーリエ』の論説で、「それは明らかな経営の危機を招く」と書かれた。ヴォルフガング・ワーグナーただ一人が、祝祭劇主催者として終生はっきりした関係を考慮することができると述べた。だが、老人は、何が何でも29才の娘カタリーナを後継者としたがっている。(彼女は二度目の妻グートルンとの間にできた。)
 若い総監督は、これまで、「リヒャルト・ワーグナー財団」の24名の理事のお気に入りではなかった。だが、この理事会が、ヴォルフガング・ワーグナーの引退後、あるいは死後、将来の監督の地位を決定しなければならない。大量のメディア・キャンペーンでもって、ワーグナー夫妻は、娘のために道を開こうとした。カタリーナの『ニュルンベルクの職匠歌手』は、バイロイトの出来事の見物人の多くには、将来の劇場指揮のための唯一の求職票だった。
 しかし、まだ、ヴォルフガング・ワーグナーは生きているし、『ラインの黄金』の中で巨人のファゾルトが言う「契約は守れ」という言葉も財団理事会のメンバーにとっては、生きている。だが、8月30日に88才になるヴォルフガング・ワーグナーを守っている契約は、この数週間、彼にとっては重荷と呪いになるだろう。
[訳者の感想]バイロイト祝祭歌劇場の運営をめぐってヴォルフガング・ワーグナーと「ワーグナー財団」理事会とが対立しているようです。
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「ケネディの暗殺者は、オズワルドだけではなかった」と題する『シュピーゲル』紙の記事。

2007年05月19日 | 人物
ワシントン発:統計学と化学分析の新しい方法を使って銃弾を研究した結果、リー・ハーヴェイ・オズワルドだけが発砲者ではなかったということを示していると『応用統計学年報』の最近号に書かれている。第二の暗殺者の可能性を排除する証拠は、事実と一致しないと元FBI捜査官のウイリアム・トービンは、テキサスのA&M大学の統計学教授のクリフ・シュピーゲルマンと化学者のウイリアム・ジェイムズとの共同研究を提出した。
新しい分析から明らかになったことは、現場で発見された弾丸の破片は少なくとも三つのの区別できる弾丸のものであったかもしれないということである。もし、これが正しいとすると、ケネディに命中したかもしれない第二の発砲者の可能性は否定できない。それゆえ、5個の弾丸破片を調べることが科学的に望ましい。
 オズワルドが唯一の犯人だということはこれまでに繰り返し疑われた。ケネディの後任者だったリンドン・B・ジョンソン大統領は、1963年11月に、暗殺の経過を解明するために、委員会を招集した。このいわゆる「ウオレン委員会」は、10ヶ月後、850ページの報告書を提出した。そこでは、オズワルドが唯一の暗殺者であったと述べられている。それによると、彼は一丁の銃で三発発射したが、一発の弾丸はそれ、第二の弾丸がケネディの頸部を貫通して、彼の前に座っていたテキサス州知事のジョン・コナリーを負傷させた。第三の弾丸がケネディの頭部に命中した。
この説明は、報告書の公表直後に非常に疑問とされた。特に第二の弾丸は、「ウオレン報告書」によると、非常に変形することなく、ケネディとコナリーに全部で七箇所の傷を負わせた。それゆえ、この弾は「魔法の弾丸」だとからかわれた。
ケネディの頭蓋骨の後ろ右の一部は、命中弾によって、吹き飛ばされており。これは、弾丸が前方から来たことを証明している。
これらの矛盾についてのさまざまの説明の一つは、第二の射撃手が暗殺に加わっていたという説である。事実、1976年に議会の下院の調査委員会は、オズワルドは確かにケネディの暗殺者だが、恐らくただ一人の暗殺者ではなかったという結果に到達した。第二の射撃手は、撃ったけれども、当たらなかった。もっとも、委員会は、オズワルド以外に誰が暗殺に加わったのかについてはいかなる言明もしなかった。オズワルド自身は、自分の無実を主張し、二日後に暗殺によって殺された。
トービンとクリフマンとは、オズワルドの単独犯行についてのウオレン委員会の証拠は、「根本的な間違い」を持っていることの証拠を見つけた。研究者達は、同じ製品から生じた銃弾の化学的法医学的分析を行った。彼らは1960年代にはまだ使えなかった方法を応用した。
その際明らかになったのは、銃弾はウオレン委員会が想定したほど稀ではなかった。当時投入された専門家は、ケネディ暗殺で使用された弾丸の残りは、彼らの化学的合成に基づいて、オズワルドが使用した箱に由来すると調書で述べた。
だが、トービンと彼の同僚は、まだ残っている弾丸の破片五個は、すべて、三挺以上の銃に一致すると信じている。しかし、オズワルドは、三発しか発射していないから、第四の弾丸は、彼が単独ではなかったことを意味している。新たなテストに使用された10発の弾丸のうち、一発は、それどころか、正確に破片と一致している。
評判のいい刑事でFBIの元捜査官であったトービンは、20年以上もFBIの実験室で金属分析を指揮してきた。彼は捜査中に、沢山のスペクタクルな事件に投入された。例えば、1995年のオクラホマ市の爆弾テロや、ニューヨーク発パリ行きのTWA機がロング・アイランド上空で爆破された事件に参加した。
定年退職後、トービンは、沢山の研究報告によって、FBIによって何十年間も実行された、弾丸の化学的分析が高い間違い率を示していることに気付かされた。それゆえ、FBIは、2003年以後この方法を断念している。
[訳者の感想]今頃、オズワルド以外に暗殺者がいたと言われても、どうやって突き止めるのか興味があります。
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