海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「偽黒人ヴァルラフは、悪趣味で卑怯だ」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年10月23日 | 差別と格差
今度は白の上に黒く塗っている。ドイツの至る所で、ドイツ東部だけでなく、ケルンやグンマースバッハでも、日常的人種差別が巣くっている。ギュンター・ヴァルラフは、テストをした。顔を真っ黒に塗り、かつらをかぶり、ボタン穴にカメラを隠して。
自分自身を使ってやるテストは、彼にとっては、調査的ジャーナリズムの究極の形式である。「ハンス・エッサー」として、彼は『写真新聞』(センセーショナルな写真ばかり載っている俗っぽいドイツの夕刊新聞)の編集部に潜り込んだ。トルコ人「アリ」に化けて、彼は当時まだそう呼ばれていた「ガスト・アルバイター」(外国人労働者のこと)の生活条件や労働条件を探った。
今回は、彼はソマリア人「クワミ・オゴンノ」に化けて、一年以上もドイツ中を旅した。北から南へ、西から東へと、黒人なら、ドイツで何を体験するか知るために。縮れ毛で肩掛け鞄をもった黒人が、木イチゴを摘むために、彼らの仲間に入りたいと言ったときに、老人達のグループがどれほど困惑するかを見給え。
ケルンの介護犬訓練所でも、彼は歓迎されず、彼が仲間になれないように、いろいろないい訳をねつ造する。クワミは、沢山のドイツ人が、避けて通るドイツ的生活の様々な領域に入り込む。
クワミが狩猟試験をできるかどうか尋ねるローゼンハイムの公安局では、事態は、全くスキャンダラスに進行する。役人達は、びっくり仰天。クワミが身分を証明できないと分かると、彼は役所から放り出される。(中略)
ヴェルリッツァー公園のボート遊びのような幾つかの状況では、カメラ・チームが人々の間に紛れ込んでいる。自分たちが試験用のモルモットの役になっているということを知らない被験者にとっては、この「誰が黒人を不安がるか」というゲームから、逃げ出すことはできないのだ。(後略)
[訳者のコメント]「ヴァルラフ、またやったか」という感じですが、ドイツ人が普段触れたがらない人種差別が、いろいろな場面で暴露されているようです。「どっきりカメラ」よりは、悪質かもしれません。
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「不公平だ!」と題する『ツァイト』紙の論説。

2007年04月15日 | 差別と格差
 ここに、子供のグループがある。誰もが小さなプレゼントを貰う。うん、素敵だ!だが、それから、子供達の表情が落胆や怒りのために曇る。というわけは、どの子も確かに素晴らしいプレゼントを手にしているが、隣のパトリックや後ろのユリアは、もっと素敵なものを貰っている。他人より少なくしか貰わなかった者がそのことを考えれば考えるほど、パトリックやユリアが自分たちの贈り物を抱きしめれば、抱きしめるほど、全体がより不公平になる。抗議しよう!分け合おう!
 子供達は小さな大人だ。そして、大人達と殆ど同じだ。不平等が生じたときいつも、特にそれがわれわれの責任でない場合には、われわれは気に入らない。不平等に対して、われわれは何かを企てる用意がある。
 大抵の人間は、それで直接の利益は期待できないのに、共同体に反する行動を罰するのにいくらか手間をかける。問題は、不平等に対するこの深い嫌悪が何に由来するのかということだ。グループの決まりに従って行動することを他人に教えようと欲しているのだろうか。それとも、端的に平等が重要なのか。
 後のほうが正しいと、今週、五人の研究者が、専門誌『ネイチュア』に最近の研究を発表した。被験者の中で、一人一人が異なる金額をお金を沢山もらった。自分たちの犠牲で、彼らのうちある者はより多く貰い、他の人からは少しお金が取られた。つまり、彼らは協力的な行動について考えないで、配分を修正することができた。この集団のメンバーは、一番稼いだ人から取り分を少なくし、稼ぎの低い人が少し余分に貰うように特に配慮したのだ。
 彼らの平等を促進する行動は、全く情緒的な動機を持っていた。協力者の4分の3は、状況の不公平さに腹を立てるか、一番沢山貰った人に対して腹を立てた。不平等が大きければ大きいほど、それだけ否定的な感情が波打った。そして、腹を立てた者達は、状況を変えるために、より多くのことをした。
 進化は、なぜわれわれの中の大多数にこのような情緒を与えたのか。恐らく、命を救う共同体を纏めるためである。今日、2006年にドイツ銀行で1300万ユーロ(19億5千万円)を貰ったヨーゼフ・アッカーマン(ドイツ銀行頭取)のような人物がこのような情緒のために悩んでいる。あるいは、自分の事業を強力に解体して、給料を増額したクラウス・クランイフェルト(ジーメンス社社長)のような人間が悩んでいる。だが、ここでわれわれは実験の限界に達する。被験者達は、決して不平等をならそうと欲したのではない。実験室では、受取り手の反対給付がないのに、金は空から降ってきた。すると平等の感情がお金を貰った子供達のところでも、高まった。だが、公平さの一般的な基準に従って、お金を儲けている人が、お金に恵まれるのは普通だ。
 だから、資本主義は危険に瀕していない。恐らく、しかし、あらゆる種類のセルフ・サービスの利用や、短期的な権力関係の利用は危険に瀕している。これは、良いニュースだ。なぜならば、感情は盲目ではないのだから。
[訳者の感情]努力した人が金を儲けても、やはり、ある程度、平等が保証されている社会のほうが良い社会だと言えるでしょう。堀江貴文や、村上某が没落した背後にもそういう感情が働いていたことは、否定できないと思います。この論者(ウーヴェ・ジャン・ホイザーという人ですが、)そういう感情を否定してはいません。資本主義の原理を正しいとする人々の中にも平等の感情に価値を認める人がいるということでしょう。
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「人を恥じ入らせること、--それはドイツ人のコンプレックスだ」と題する『ツァイト』紙の記事。

2007年03月24日 | 差別と格差
 「身綺麗にする前に人を馬鹿にすることを覚える国がドイツ以外にあるか」とゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクは問うた。
 国連の特別顧問ヴェルノール・ムニョスは、ドイツ人の傷である他人を恥じ入らせること、それと結びついてる尊大な態度に触れた。
 この報告書自体われわれを恥じ入らせる。彼はドイツの教育施設の三分法、あるいは、特殊学校を入れる場合には4分法から縁を切るように忠告する。この制度は、社会的下層出身の子供や障害者や移民にとって差別的である。
 恥じ入らせられた者は、傷つき、傷跡が残る。「お前は劣っている。」基幹学校(日本の小学校と中学校を合わせたもの)の生徒は、基幹学校生という呼び名で呼ばれるだけで、侮辱され貶められたと感じる。特殊学校の生徒はますますそう感じる。三分法による学校制度が問題になる場合、彼らは数には入っていない。特殊学校の割合は、ドイツでは非常に高く、5%に達している。
 例えば、フィンランドでは、特殊学校は大抵の校区からは撤去された。確かに、第9学年までみんなが通う共通学校には、特別教員がいる。殆ど子供達の4分の1は、小グループ授業を受ける。生徒は部分的には学級を通過する。平均値が推測させるように、これは低学年でよりしばしば生じる。高学年では特別授業はまれになる。
 私が確信する前には、私はフィンランドの子供達は、この特別学級の授業を差別的だと感じていないとは思わなかった。それは可能ではないと思われた。これらの子供達は、彼らが普通学級から連れてこられたとき、他の子供達から馬鹿だとからかわれないだろうか?実際には、私はジヴェスキリやヘルシンキのいくつかの学校を訪問した際、このような軽蔑を見出さなかった。反対だった。両親や子供達は、学校が費用の理由で提供できる以上のものを個人の特別授業に求めていた。このことが、私にとってフィンランドでは、何か決定的なことがドイツとは違ったやり方で行われているという最も強力な証明だった。
 子供達を決して辱めないこと、これがそこでは最高の教育原則だった。この原則は、1960年代や70年代に実行された学校改革にとって、機会の平等を貫くことや、できるだけ多くの青少年に高等教育を受けさせるという目標よりも、もっと強力な動機だった。それどころか、この原則によって反対のことが起こった。学校における考え方の変化が、フィンランドでは青少年の70&が大学での研究を始めることの原因である。この数字を見ると、多くのドイツ人は、これは誤植であるか、高校卒業生におけるインフレーションの結果にちがいないと思う。各人の中には人が信じる以上のものが隠れているということがドイツでは全く想像されていないかのように思われる。それはまるで他人を貶め、取るに足りないと思わせるかのようである。
 「私は、繰り返し、授業中に子供達が屈辱を感じさせられているのに愕然とした」とマックス・プランク教育研究所の定年になった所長であるヴォルフガング・エーデルシュタインは言う。彼の息子のベンヤミンは、小学生として米国に行った。そこでは、先生は、午後、生徒の科目上や個人的な質問に対していつでも応じる用意があった。ドイツに帰国して、彼の息子は習慣に従って教師のところへ行き、彼に質問した。教師の答えは、「私は個人的相談に答えるために給料を貰っているのではない」だった。「ありえないことだ」と父親は、このドイツ人教師から受けた冷淡さのショックについて声を荒らげる。「ベンヤミンは、米国では本当の教師に出会った。ここでは彼が得たのは、乱暴な返答だけだ。」 
 なぜ、ドイツでは多くの子供が歯医者へ行くような様子で学校へ行くのか?なぜ多くの教師は、相変わらず知識を隠して生徒に探させるような教育をするのか?なぜ教師は生徒の誤りに興味を持ち、そこから学ぶのでなくて、誤りを生徒のせいするのか?
 ドイツにおける最初のピサ研究の主任であったユルゲン・バウメルトのピサ研究は、ドイツの先生達が彼らの生徒を好きで、およそ生徒をよく知っているかどうかについて疑念を抱かせる。(中略)
 ドイツの先生達は、彼らの生徒のことを殆ど知らない。授業時間は、図式的に流れ去る。
 バウメルトは、スイスのフリブール大学で客員教授だった。あるとき、彼はドイツの数学授業のビデオを持って行った。少し経つと学生達が「自分たちの見ていることは、信じられない」と言った。バウメルトは、彼らが何を意味しているのか最初は分からなかった。学生達は「先生の言葉遣いだ」と言った。「教師が口に出す絶えず傷つけるような評価だ。」例えば、「また間違えた。何度も言っただろう? おい、お前達は知っているはずだ。」このような口調は、余り敬意を払っていない口調だ。「否定的で距離を置いていない」というのがスイスの学生の評価だった。(後略)
[訳者の感想]日本の先生は、もう少しましでしょうか、それとももっと酷いでしょうか?
大学紛争のとき、ドイツで批判されたことの一つは、大学における権威主義だったようですが、それは初等教育や中等教育ではまだ残っているようです。
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ミーシュコフスカ著『ホロコーストの子供達の母』の書評。

2006年07月13日 | 差別と格差
オスカー・シンドラーは、1990年代にスティーヴン・スピールバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』で広く公衆に知られるようになった。このドイツ人企業家は、第二次大戦中に1300人のユダヤ人を「強制労働者」として自分の工場で「戦略物資」を生産させるという名目で、収容所送りになる前に救った。これまで殆ど知られていなかったのは、ワルシャワのゲットーから2500人のユダヤ人の子供を救い出したポーランド人の看護婦イレーナ・センドラーである。睡眠薬を飲ませて、袋や箱に詰められた子供達は、地下室や排水溝を通ってゲットーの外へと運ばれた。ソーシャル・ワーカーであったセンドラーが沢山の人的接触のお蔭で作成できた偽の証明書で子供達には別の身分証明書が作られた。彼らは養い親や僧院や孤児院に新しい家庭を見つけた。逮捕後、拷問を受けたにも関わらず彼女は庇護者の名前を明かさなかった。彼女は、戦後に家族とのつながりを容易にするために、子供達の正確なデータを隠した。
 イレーナ・センドラーによって救われた子供の一人に、1934年生まれで、現在、ポーランド科学アカデミーの文学研究所教授のミハイル・グロヴィンスキーがいる。イレーナ・センドラーが1989年以後に初めて公に認められた非常に有名な人物になったという事実は、グロヴィンスキーを最近の歴史、特に共産主義ポーランドにおける反ユダヤ主義の歴史の確認へと導いた。「英雄のリストには、単に左派に属していたが、共産主義というイデオロギー的ユートピアからはずっと離れていたこの女性の場所はなかったのです。」その上、「戦争直後の数年以来、ポーランド人民共和国では、何らかの仕方でユダヤ人とかかわりのある一切は、微妙で危険なテーマで、それについて人々は黙っているほうがよかったのです。」ミヒャエル・グロヴィンスキーは言う。「アンナ・ミーシュコフスカのこの著書は、驚嘆すべき、信じられぬほど勇気があり、犠牲を恐れない女性達だったイレーナ・センドラーとその助力者に対する賛美です。」
[訳者の感想]ユダヤ人の子供達をワルシャワのゲットーから救ったセンドラーの話は、はじめて聞きました。これは次のドイツ語版に対する書評です。センドラーという名前から彼女はドイツ人を先祖に持つポーランド人ではないかと思います。
Anna Mieszkowska:"Die Mutter der Holocaust-Kinder. Irena Sendler und die geretteten Kinder aus dem Warschauer Ghetto.”Aus dem Polnischen von Urszula Usakowska-Wolff und Manfred Wollff. Deutsche Verlags-Anstalt.München, 2006.319 S.,22,90Euro.
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「外国人に気をつけろ」と題する『ガーディアン』紙の記事。

2005年12月10日 | 差別と格差
ホアン・カルロス・ピサロ・ヤギは、本当にぞっとする犯罪のゆえに責められている。先月末、彼は下校の途中彼のアパートの前を通り過ぎた木下あいりという七歳の少女に近づいた。次の90分間に彼は彼女の遺体をダンボール箱に入れ、近くの駐車場に捨てた。
この犯罪は街路が安全で暴力犯罪の割合が比較的低いことで知られた日本に衝撃を与えた。目下のパニックは、児童に対する犯罪に対する自然な反応である。だが、メディアが正しい見方を見失っている点は全く許し難い。
容疑者がペルー国籍の日系人であると同定されるやいなや、メディアは、この国が外国人犯罪の波に支配されていると宣言した。
最近の見出しを書く人たちは、訓練の初期において、ある犯罪容疑者の国籍は大部分の事例において関係がないということを学ぶ。日本ではそうではない。ここでは「尊敬すべき」普通新聞も読者の外国人嫌いの本能につけこむタブロイド版新聞と同様に有罪である。
日本のよりリベラルな日刊紙である『朝日新聞』は、「ペルー人に対する人狩り」に同調している。殆ど例外なく新聞やテレビやラジオなどのメディアは、ヤギの国籍を強調している。一言言わないと気が済まない専門家達は、木下あいり殺人事件によって引き起こされた本当の問題点である学校の安全などを無視して、法律を遵守する家主に対して外国人が明らかに引き起こす脅威に焦点を当てている。
昼のテレビに登場する怖い顔をしたレポーターは、容疑者の名字を用いるという通常のやり方に反して、容疑者を「カルロス」と呼び捨てにしている。だが、もし、「ヤギ」という名字を用いれば、彼らは、容疑者の先祖が日本人であることに注意を引きつけ、彼が「よそ者」であるという印象を弱めただろうに。
この戦術は、人権問題の運動家を怒らせた。「日本人の大多数は、このような犯罪を行う人々は自分たちとは違うのだと感じたいのだ」と東京に本部がある「あらゆる形式の差別と人種主義に反対する国際運動」の事務局長であるモリハラ・ヒデキは言った。
「そういう風に考える場合、彼らは犯罪者は全く別だと言うことに満足する。そしてそのことは外国人嫌いの雰囲気を作り出し、メディアはそれを容易にしている。」
申し分のないタイミングで、警察は、ヤギを逮捕した日に、今年の最初の六ヶ月の間に、1万860人の外国人が逮捕されたという記録を公表した。
数日の間隔をおいて、法務省は、外国人に長期滞在ビザを発行する政策の見直しを告知した。(ヤギ容疑者は、非出勤の理由で、自動車のパーツ工場の職から解雇されたとされるが、彼は偽の旅券を携帯していたとされている。)政府は、外国人犯罪を撲滅するために委員会を立ち上げると宣言した。
モリハラ氏は、犯罪者数の公表のタイミングは、偶然の一致ではないと思っている。
「政治家達は、国民に対するコントロールを強化したいと思っている。彼らがそれをする一つのやり方は、彼らが国民を危険から、つまり外国人から守っていると多数の国民に言うことである。」
彼はまた地方のメディアが、文脈とは無関係にレポートした公的統計の価値を疑っている。
「第一に警察は、逮捕者のかずだけ報告した。もし特定のグループだけを目標にするなら、逮捕者の数が増えるのは当然である」とモリハラ氏は言う。
「犯罪数が、外国人と日本人との人口の比に比例していることを見れば、犯罪率は同じである。外国人犯罪だけが問題だと言うのは正しくない。」
多くの日本人はモリハラ氏の関心に同意する。ウエッブ・サイト「今日の日本」で、高橋ユキ(18)は、次のように述べている。「日本のメディアは、ここでは大きな役割を演じている。彼らは外国人達はわれわれの社会の厄介者であるというイメージを作りつつある日本人は、外国人を差別する傾向があり、それは自慢できることではない。」
だが、メディアに動かされた疑惑と無知の雰囲気が続く限り、このような見解は少数派に留まるだろう。
政府は理解を増進するために、日本人と外国人とを結びつける機会を作り出すべきだ」とモリハラ氏は言う。「だが、メディアの力を借りて、彼らはまさに日本人と外国人とを切り離している。」
[訳者の感想]ジャスティン・マッカリー記者の記事です。殺人事件の報道の仕方の背後に日本人の外国人に対する差別感情が働いていることを鋭く指摘していると思います。
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