海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「北朝鮮につける薬はない」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年11月29日 | 北朝鮮問題
対話についての対話で注目すべき点は二つある。第一に、アメリカのヒル国務次官補と北朝鮮の金桂冠外務次官とは同じテーブルに着いた。「同じ目の高さで」と金外務次官は強調した。ワシントンによって核保有国として承認されることと二国間協議が北朝鮮政府の心からの願いだった。ブッシュ政府は、ならず者国家にこの名誉を与えることを拒んできた。もっとも、ニューヨークの国連で非公式の対話はあったのだが。
第二の注目すべき点。平壌が今や交渉しようとしている外交上の成功は、ベールに覆われた事情の下で成立した。それは饑餓国家への石油輸出を減らした北京からのムチだったのか?それとも金融制裁を解除した中国からのアメだったのか?それともアメリカからの誘いの手段だったのか?というわけは、明らかに、米国も金融制裁についての対話を視野に入れているからである。そして彼らは今、貧民国家の代表と一つのテーブルに着いている。
とっくに知られていることが、記録されなければならない。それは、北朝鮮の核の野心につける薬はないということである。圧力は対抗圧力を産む。柔軟なプラグマティックだけが北朝鮮が核武装を止めるというほんの僅かな希望を持たせる。それは米国との二国間対話を含んでいる。
[訳者の感想]記事を書いたのはキルスティン・ヴェンク記者です。北朝鮮外交の主たる目標が米国との二国間対話であることを浮き彫りにした解説だと思います。
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「サダムよ、帰ってこい」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年11月28日 | イラク問題
ベルリン発:コラムニストとして、ジョナサン・チェイトは、分極化し、政治的に正しくない意見を表明することで報酬を得ている。だが、有名な『ロサンジェルス・タイムズ』の今日の論説欄におけるほど、このリベラルな世論指導者が極端な意見を述べたことはなかった。
 「サダムを連れ戻せ」という見出しの下で、彼は死刑宣告を受けた独裁者を再び大統領の地位と尊厳につけることを要求しているのだ。勿論、フセインは、「残虐な独裁者」であり、「精神異常の大量殺掠者」である。だが、彼はひょっとしたら、イラクを解放するのに「最善の選択」であるかもしれないと言うのだ。
 悪い冗談のように聞こえることが、米国の最大で最も影響力の強い新聞に「解説」として現れた。それはアメリカのエリート達が途方に暮れていることの印しである。
 「全体主義よりもっと悪いものがあるということが明らかになった。つまり、果てしのない混乱と内戦である」とチェイトは書いている。秩序を再び作り出すためには、イラク国民は、「大きな心理的ショック」を必要とする。「すべてのイラク人が知っている男」であるフセインの復帰こそ、まさに正しいことだとチェイトは空想する。彼の確信によれば、人間がある社会秩序を期待しているなら、彼らは自ら「文明化された」振る舞いをするだろう。(今のイラクには社会秩序がないから、野蛮な行為が横行しているのだという意味だろう。訳者注)
 フセインの復帰の持つ欠点は、明らかであるとチェイトは認める。「だが、肯定的なことも考えてみたまえ。彼はイラクをイランの影響から守るだろう。独裁者は、今度は前よりはましに振る舞うだろう。なぜならば、彼は別の選択は絞首刑だということを知っているからだ」とチェイトは言う。
 チェイトの論説が示しているのは、どれほど速やかに理想主義が、一見現実主義的なシニシズムに転換するかということである。チェイトの職業は、『ニュー・リパブリック』誌の影響力のある主筆である。イラク問題におけるその経過は、米国における議論の経過にとって特徴的である。最初は、イラク戦争に対する無条件の賛成から始まり、主筆は、その支持を次第に弱め、とうとう、最後に「ニュー・リパブリック誌は、この戦争に対する早すぎた賛成を遺憾とする」と言うまでになった。
 チェイトと『ニュー・リパブリック』誌だけではない。保守的な放送局である「フォックス・ニュース」で、ある元国防省の協力者は、イラクについての彼の処方箋を「必要なのは強力な男である。民主主義は失敗した」と述べた。
 アメリカの公共圏では、「民主主義は、まだ輸出できない」という確信が支配的である。「アメリカは、いかなる国にも民主主義を処方できない。それが苦い教訓だ」とチャック・ヘーゲル共和党議員は総括した。
 楽観主義の母国であるアメリカでの予測はますます悲観的になっている。「イラク侵攻は、歴史の中で、叙事詩的な規模をもった国家的罪だと記録されるだろう」と『ロサンジェルス・タイムズ』紙でローザ・ブルックスは予言した。「われわれがなし得ることは、イラクへ行って、われわれが与えた酷い損害に対して謝罪することだけだ。」
[訳者の感想]イラク戦争が米国の犯した全くの愚行あるいは国家的な犯罪であったことを識者達が認め始めたようです。
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「アブグレイブの元所長、ラムズフェルドに責任有りと主張」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年11月26日 | イラク問題
アブグレイブ刑務所におけるイラク人囚人に対する拷問は、アメリカ政府によって直接命令されたとのことである。刑務所の元女性司令官であったジャニス・カルピンスキーは、ラムズフェルド前国防長官ドナルド・ラムズフェルドに重大な責任がありとしている。
「私はラムズフェルドが署名した覚え書きを見た。その中で彼は尋問の際に拷問を適用することを許可していた」とカルピンスキーは、スペインの日刊紙『エル・パイス』に対して述べた。彼女は、この証言を法廷で繰り返す用意があると断言した。
許された方法にの一部は、眠らせないこと、大音響で音楽を流すこと、食事時間をずらすことなどが含まれていたという。アブグレイブ刑務所の尋問専門家達は、これらの技術を、キューバのグアンタナモ収容所の仲間から引き継いだ。
国防省は、2003年9月に収容所のもと司令官であるジョフリー・ミラー大将をイラクに派遣し、そこの軍情報機関員にこれらの方法を学ばせた。
アブグレイブ・スキャンダルを引き起こした拷問された人々の写真は、女性の元准将によると尋問の際写されたものではない。これらの写真は、他の囚人に圧力を加えるために作られた。カルピンスキーは、アブグレイブ刑務所事件で処罰された唯一の陸軍将校であった。2005年に彼女は大尉に降格された。拷問スキャンダル以来イラクの情勢は劇的に悪化した。
[訳者の感想]アブグレイブ刑務所での囚人虐待事件は、初めからグアンタナモ収容所でやったことの繰り返しであると言われて来ましたが、どうも本当のようです。
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「中国、パキスタンとインドの間で絶妙のバランスをとる」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年11月25日 | 中国の政治・経済・社会
ベルリン発:古い友人を頼るのが一番良いと昨日、胡錦涛主席は考えたかもしれない。と言うわけは、彼のインド訪問の経過は良くても「政治的に正確」と言えるかもしれないのに、彼は中国の古い同盟国であるパキスタンからあらゆる名誉を浴びせられたからである。木曜日には、ムシャラフ大統領とシャウカル・アジズ首相を含むパキスタン政府の閣僚の半分が彼を空港に出迎えた。金曜日の晩には、胡錦涛が演説をし、それはパキスタンのテレビによって生中継された。これまで、このような待遇を受けたのは、2000年にパキスタンを訪問したクリントン大統領だけである。
イスラマバードで、胡錦涛とムシャラフとは、自由貿易協定に調印した。来る五年間に、両国の通商は、現在の42億ドルから三倍になるはずである。両国は、17項目の協定を結んだが、その中には、初期警戒システムの開発における協力も含まれている。さらに中国は、原子力発電所の建設についてパキスタンを援助する予定である。中国の国営通信社新華社の報道によると、中国はパキスタンに発電のために六基の反応炉を売る予定である。もっとも、これまでは、米国とインドとが結んだような核条約については触れられていない。「われわれはパキスタンとわれわれとのパートナナー関係を新たなレベルに高めたい」と胡錦涛は、パキスタンのテレビでのべた。
パキスタンは、冷戦以来中国の密接な同盟国である。インドはそれに対してソビエト連邦に結びついていた。中国は、パキスタンのロケットと核武装計画を支持し、通常兵器の重要な供給者である。中国の援助を受けて、1999年には、東パキスタンに原子力発電所が建設された。4月には、両国は、更なる原子力発電所を建設することで一致した。450名の中国人技術者は、ベルチスタン州にグワダルの港湾を建設するのを援助している。北京が主な費用を負担している。グワダル港は、ペルシャ湾と石油輸送のための足がかりを中国に保証するはずである。
多くのインド人のアナリストにとっては、中国とパキスタンとの戦術的パートナー関係は、北京がライバルのインドとの和解を真剣に考えていない証拠である。「中国はインドを戦略上の脅威と見なしており、パキスタンを戦術上の衛星国に仕立て上げている」と政治顧問のスバシュ・カピラは言う。インド人の解説者は、中国はインドにとって不倶戴天の敵であるパキスタンに味方しないで、南アジアの平和と安定を望んでいるという胡錦涛の断言を「空虚な言葉」であると述べている。
インド首相のマンモハン・シンは、胡錦涛を空港に出迎えることを必要だとは見なさなかった。両国は、国境紛争を解決することができなかった。胡錦涛の訪問の前に、中国の駐インド大使は、インド北部のアルナチャル・プラデシュに対する中国の要求を強調することによってインド人の気分を害した。確かに両国は、2010年までに貿易を二倍に増やすことで一致したが、自由貿易は成立しなかった。なぜならば、インドの企業家達は、中国の安価な商品との競争を恐れているからである。その際、密接な協力の可能性は巨大である。現在、既に、この最大の人口をもつ二つの国の間の貿易は、中国とパキスタンとの間の商取引の五倍に達している。
[訳者の感想]中国とパキスタン、中国とインドとの経済的政治的関係が良く分かる記事だと思います。
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「中国はいつも渋滞」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年11月22日 | 中国の政治・経済・社会
だが、人間はまだ落ち着いている。ますますしばしば、中国人は交通渋滞に対して的を射たウイットで応えている。「中国自動車2006年」という最大の自動車見本市が開かれた後でも、大衆は都市中心部の渋滞した進入路と満員の会堂を苦々しいユーモアで受け入れている。「ここにも車はあるのかい?人間しか見えなかったよ」とある地方新聞は書いた。
見本市会場前の狭い二本の徒歩通行者道路は、その都度一方通行になった。自動車運転手には、駐車場がなく、しばしば一時間以上もぐるぐる廻らなければならなかった。
1500人の出品者と数百台のモデル車は、中国の未来の時代がどんなになるかを教えている。そのとき、車の前の道路は見えないだろう。2006年には、700万件の新規登録が見込まれている。その中には、410万台の乗用車が含まれている。中国自動車団体会長のジャン・シャオユーは、2010年以後毎年、1000万台以上の乗用車の生産を予想している。
目下、北京では282万台が登録されており、その中では、自家用車、(6万7千台のタクシーを含む)と50万台のトラック、1万8千台のバス、20万台の観光客の車が含まれている。
毎日、1千台の乗用車が新たに登録されている。実際、首都には、300万台の車が走り回っている。『中国日報』の述べるところでは、今日、少なくとも北京市民の四人に一人は車を持っており、広東の18%、上海の11%がこれに続いている。
問題は、道路網が車の数ほどは発達しないことである。二年以内に北京市は本当に車で一杯になる。そのときには、ここには350万台の登録された自動車があるだろう。その上、世界中の半分がオリンピックを見にやってくるだろう。そえゆえ、市の交通計画局は、どうしたら自動車を厄介払いできるか試してみた。11月初めに開かれたアフリカ頂上会議の間、北京の招待で48のアフリカ諸国の政府首脳がやってきたとき、市役所は、殆ど一週間かけて、実際の交通の中でオリンピックの非常事態処置を訓練した。
空港や市内道路は数時間閉鎖された。工場や官庁は、従業員を帰宅させ、学校は早期に休校になった。北京市は普段より10%多いバスを投入し、地下鉄は、一時間延長された。活動家は、自転車で動員された。公共施設、官庁、国営企業、銀行、学校、大学は、公用車を強制的に使用禁止された。
北京は、交通を沈静化する方策が成功したと発表した。「アフリカ会議」の間、いつもよりも80万台の車が減った。その中には業務用の車両49万台が含まれている。交通は静かになり、空気ははっきり臭いで分かるほど綺麗になった。チャンガン通りの速度は、時速20.1キロから25.3キロに増え、市の中央部では、50キロにまで増えた。「アフリカからの友人よ!どうか永久に私たちのところにいて下さい」と北京の新聞は書いた。
アフリカ人達が出発した一日後、すべては元通りになった。中国人達はユーモアを発揮した。インターネットでは、どうしたら持続的な渋滞が耐えられるかについて全くは真面目とは言えない提案がなされた。そういうわけで、ドライバー達が退屈をしのげるように、将来、どの交差点でも、24時間ぶっ通しで劇映画が上映されるべきだという提案がなされた。ケンタッキー・フライド・チキンから、マクドナルドまでの店舗は、渋滞用ランチを提供するように義務づけられるという提案もなされた。
[訳者の感想]『ヴェルト』紙の中国特派員であるジョニー・エルリング記者の書いた記事です。中国の道路事情はそうとう悪くなっているようです。
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「失望したインサイダーは、ブッシュに背を向ける」と題する『ワシントン・ポスト』紙の記事。

2006年11月20日 | アメリカの政治・経済・社会
サダム・フセインの銅像が引き倒された一週間後、ケネス・エーデルマンと数名のイラク戦争推進者は、チェイニー副大統領の住居に集まって祝杯を上げた。侵攻は、エーデルマンが予言したように、楽勝だった。チェイニーとその客達は、ブッシュ大統領と勝利を祝って乾杯した。「それは幸福感に溢れた瞬間だった」とエーデルマンは回想する。
3年7ヶ月後(2006年11月)、楽勝は死の行進のように見える。そしてエーデルマンは、ブッシュ・チームと分かれた。彼は防衛長官ドナルド・ラムズフェルドと喧嘩をした。彼とチェイニーとはもはや言葉を交わす仲ではない。そして大統領は、エーデルマンが「イラクの大惨事」と呼ぶものに対して最終的に責任があると彼は思っている。
元レーガン大統領の高官で、一時、「イラク戦争ブレーン・トラスト」のメンバーであったエーデルマンは、大統領あるいはその政策に反対の声を挙げたブッシュ・サークルからの最近の声に過ぎない。彼の大統領職の最後の期間に突入し、中間選挙の大敗を喫したばかりのブッシュは、ますます友人が少なくなっていると感じている。最強の戦争支持者達の何人かは、離れてしまった。元のイサイダーは、公的に不同意を唱え、議会の共和党議員は、ブッシュが下院で多数を失ったと責めている。
「失われた生命は多い」と先週、インタービューでエーデルマンは述べた。「国家が危険に曝されている。地域が危険に曝されている。これは、法外な事態だ。これほど拙劣にマネージされる必要はなかった。」
「ラムズフェルドが辞めていたら、もっと違っていただろう」とアーレン・スペクター共和党上院議員はテレビで言った。
 あるインサイダーは、ホワイト・ハウスは、大衆の反発を招いたと言った。「いつでも誰でも自分たちを神聖だと思いたがる。彼らは違った尺度で判断される」とブッシュのホワイト・ハウスの宗教上のイニシャティブの指導者であったデイヴィッド・クオは言った。彼は『誘惑する信仰』と題する本を書いて、ホワイト・ハウスがキリスト教保守派に迎合していると非難した。「ホワイト・ハウスは、自分自身を神聖だと思っているのだ。」
 国務省の高官であって、現在「外交関係評議会」の議長であるリチャード・ハースは、世界情勢への根本的に異なるアプローチは、当然、批判を生み出すと言った。「民主主義の促進について強調すること、政権の変更について強調すること、イラクでの選択の戦争、これらは、伝統的なアプローチとは離れている。だからそれがより多くの反応をよぶことは、驚くに足りない。」
 ブッシュと断絶したいという傾向は、大統領がワシントンにいる多くの自然な賛同者のご機嫌をとるのに余り時間をかけてないという事実を暴露する。議会の共和党指導者達は、彼らが目にするのは、ホワイトハウスの「俺たちの言うとおりにしろ」というアプローチであるということに怒っている。ブッシュとより個人的な関係をもっている人たちのうち幾人か、例えば、チェイニーやラムズフェルドは、失望の念をもっと鋭く感じているが、その理由は彼らが大統領が彼らの政府に課した目標に非常に近づいていると思っているからである。
 ブッシュの二期目の弧が見せたのは、最も強力な批判が内部に発しているということである。コリン・パウエルを囲むプラグマティストの集団は、彼が国務長官を辞めた二年前から口を開き始めた。ハースやアーミテージやカール・フォードやローレンス・ウイルカーソンは、政策論争を公にした。イラクで働いた多くの人たちは、酷く取り乱して、『浪費された勝利』(ラリー・ダイアモンド)、『イラクを失う』(デービッド・フィリップス)などの本を書いた。軍やCIAの高官は、政府を去った後で、言いたいことをぶちまけた。その頂点が、退役した将校達がラムズフェルドの解任を要求した「将軍達の反乱」である。(以下省略)
[訳者の感想]これまでネオコンに属していた人たちまでが、一斉にブッシュを批判し始めたようです。選挙で負けると大統領でも負け犬同然ということでしょうか。
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「この選挙で米国は地球を共有しやすくなったか?」と題する『ガーディアン』紙の論説。

2006年11月13日 | アメリカの政治・経済・社会
中間選挙に続いてジョージ・W・ブッシュがカメラの前に現れたとき、彼は集まったメディア関係者に「なぜ憂鬱そうな顔をしているんだ」と尋ねた。実際は、憂鬱そうな顔をしていたのは、米国大統領と落選した共和党候補者だけだった。選挙の敗北が、当の国だけでなく、他の国々でもこれほど喝采されたことは滅多にない。ブッシュはやっと地球の大部分を纏めた。イランのアヤトラやヨーロッパ諸国の首相達や、アメリカ人の多数や、自分たちの政党が厳罰に値すると考えた何人かの共和党員は、選挙権者による非常に大きな打撃を祝っていた。これはイラクでなされた破局的な失敗に対する断罪的な判決だけではなかった。それは共和党が米国立法府を支配してきた12年間の終わりだった。
この選挙結果についての一つの非常に良い点は、それがアメリカ人や世界の残りに、民主主義はまだ米国で機能しているということを示したことである。数週間前、私が読者に、イラク戦争と汚職と不道徳とが共和党にパンチをくらわせると考えているということをリポートした。大西洋の両側でそれは早すぎる予測だと考えた人たちが沢山いた。彼らはケリー大統領候補に投じた間違った希望を思い出し、ゴアの幻滅を思い出し、共和党の投票マシーンの威力を大きく評価しすぎた。
投票箱は浄化の仕事をやってのけた。共和党は、彼らの当然の運命を蒙った。米国中に右翼の恒久的な覇権を作り出そうとする企ては、はじけた。この選挙についての楽観的な見方は、それが世界の残りに対してもっとスマートでより単独主義的でないアプローチをとるように米国を導くだろうというものだ。こういうことが起こるかどうかは、ブッシュが敗北に適応するか、それとも敗北を無視しようと試みるかに懸かっている。兆候は入り交じっている。ドナルド・ラムズフェルドは、やっと首を切られた。大統領は、上院と下院とをコントロールする民主党と協力すると約束した。このような敗北の結果、彼にはなだめるように聞こえる以外選択の余地はない。問題は、彼が非常に違った大統領になれるかどうかである。彼が以前と同じ対決的な路線にしたがって、統治しようとすれば、それは議会との対立を麻痺させるための処方箋になるだろう。その最後の数ヶ月が次に起こるであろうことによって形作られるトニー・ブレアは、ホワイト・ハウスが超党派的路線をとることを熱烈に望んでいる。次の18ヶ月間ブッシュのホワイト・ハウスと仕事をすることになりそうなゴードン・ブラウン(次期英国首相)も同様である。
民主党も、大きな決断をしなければならない。この選挙が民主党に対する熱狂の印しであるよりは、共和党に対する反感の記録であったということを、彼らの中の抜け目のない人たちは理解している。民主党は、混乱した、意見の分かれた政党である。少なくともイラク問題関してはそうである。3人の民主党員が一部屋でイラク問題について議論すると四つの異なる意見が出そうだと言われている。(以下省略)
[訳者の感想]この論説を書いたのはアンドリュー・ローンズリーという人です。ブッシュが今後どのような政策をとるか世界中が固唾を呑んで見守っています。ブッシュが今までとは違う大統領になれるかと聞かれれば、なれそうもないというのが正直な答えでしょうが。
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「イスラエル軍、死臭を残して撤退」と題する『ガーディアン』紙の記事。

2006年11月12日 | 国際政治
 イスラエル軍が今朝、ベイト・ハヌーンの町から撤退した数時間後、タラル・ナスルは、彼の13才の娘の遺体を埋葬するための場所を探して、墓地にいた。
六日間で初めて、町の住民は、家から出ることを許された。それはガザ地区に対する数ヶ月間で最大のイスラエルの軍事作戦が続いた日数である。通りは人で一杯になり、多くの人たちは死者を弔い埋葬するために進んだ。
 ベイト・ハヌーンの墓地は小さくて、混み合っている。ナスルさんが娘のワラーのための場所を見つけるのに三時間かかった。彼女はイスラエルの狙撃兵の弾丸に額を打ち抜かれた。最後に、ナスルさんは、30年前に掘られた墓地のてっぺん近い場所に墓地を見つけた。彼と換えの家族は、新しい穴を掘り、それが日陰になるように六つに折った椰子の葉を立てた。
 ワラーは、先週、軍事的侵入の真ただ中で死んだ。時刻は夕暮れで、ナスルさんは、彼の四人の若い娘と義理の妹と家にいた。ラウドスピーカーを通じて、イスラエル軍は、16才から45才までの男達に尋問に出頭するように呼びかけた。ナスルさんの息子と隣のアパートに住んでいた兄弟とは尋問をうけるために出かけた。
 イスラエル軍部隊が家族の家の前に現れて怒鳴り始めた。「彼らは叫んでいたが私たちには彼らの言っていることが理解できなかった」とナスルさんは言う。「私は義理の妹に窓を少し開けてくれと頼んだのです。電気は来ていなかったので、家族は、ろうそくをともしていた。「妹は窓から兵士に向かって何の用事なの。何か欲しいの」と言いました。突然射撃が始まった。
 義妹は肩を撃たれた。それから弾丸が一発、窓から打ち込まれ、部屋を横切って廊下に立っていたワラーに当たった。彼女が死んだ場所には今もどす黒い血だまりが残っている。
 「私たちは動くことができませんでした。それほどおびえていたのです」とナスルさんは言う。私は「娘が死んだ」と叫びました。彼らはろうそくを取り上げ、階下へと急いでおり、道路へでました」そこには、イスラエル陸軍の一小隊がおり、ナスルさんにその建物には兵隊がいると思っていたと語った。数人の兵士がナスルさんを連れて家を捜索したが何も見つけなかった。救急車はワラーの死体を運んだ。今日、彼らは初めて自宅に帰ってきた。
 「単に攻撃の行為だったのです」とナスルさんは言う。「彼れらは自分たちの作戦はロケットを止めることだったと言いました。だが、以前には平和プロセスの必要性を確信していたとしても、今は私は確信していません。私の娘達も自分たちの姉妹が目の前で殺されたのだから、どうやって、彼女たちに平和のプロセスを確信させることができるでしょうか?」
 後で、ワラーの叔父が墓地で彼女の墓の前に立って言った。「彼らが武装勢力に圧力をかければかけるほど、ますます多くの人々が武装勢力の味方になるのだ。」
 少なくともこの作戦で、50人のパレスチナ人と一人のイスラエル兵が殺された。死者の中には、市民や兵士もいる。激しい戦闘は、町の中心の大きな部分を廃墟と化した。その中には、先週、戦士の一団が掘り出されたアル・ナスル・モスクが含まれている。
 多くの家の前壁は壊されたので、居間や台所がむき出しになっている。通りには栗石が散乱し、下水が溢れ、庭は戦車によってこね回されている。
 イスラエル軍は、「秋空」作戦の目標は、イスラエルにロケットを打ち込む武装勢力を攻撃することだったが、数ダースの武装戦士が殺され、ロケット発射装置や迫撃砲やライフルを含む大量の兵器が発見されたと述べた。九箇所のロケット発射坑が破壊された。「イスラエル国防軍の作戦は、テロ組織とテロリストのインフラだけを目標にしており、市民を傷つけることは極力避けるように努力をしている。国防軍は市民に戦闘地域に近づかないように繰り返し警告している」と述べた。
[訳者の感想]レバノン攻撃が目的を達成できなかったので、イスラエル軍の威信を取り戻すために軍事的にはより弱いガザ地区に侵入したのだと日本の新聞の解説に書かれていました。
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「新国防長官は、実務家」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2006年11月11日 | アメリカの政治・経済・社会
次の国防長官に決まったロバート・ゲイツは、彼の前任者であった74才のドナルド・ラムズフェルドと同様、「古い親衛隊」の一人である。ゲイツは、63才で、さまざまな公的官庁や政府機関での多くの経験を振り返る。彼の経歴は、40年前に情報機関であるCIAから始まり、いくつかの役所や地位を上へ上へと昇って、1991年から1993年までCIAの長官を務めた。
木曜日の夜にかけてホワイト・ハウスで行われた任命式で、彼はジョージ・W・ブッシュは、自分が公的役職を引き受けた七番目の大統領だと述べた。
けれども、ゲイツは、ラムズフェルドとは別の「古い親衛隊」の一人である。彼は父親のH・W・ブッシュ大統領の国家安全保障会議の副議長として、自分の形成期を経験した。1989年は、ベルリンの壁が崩壊した年である。1991年は、最初の湾岸戦争の年で、アメリカ軍は、連合軍の一員としてクエートからイラク軍を追い出したが、バグダッドまでは行かなかった。国家安全保障会議における彼の前任者は、ブレント・スコウクロフトであって、彼は今日まで、父親のH・W・ブッシュの親密な友人である。パパ・ブッシュは、ここ数ヶ月、ますます頻繁に、イラクにおける戦争や他の重要な外交安全保障政策にについて憂慮と忠告をもって発言してきた。
パパ・ブッシュと彼のかっての協力者達は、厄介な同盟国のパートナーと協力し、注意深く一歩一歩前進することが偉大な歴史的勝利へと導くことを経験によって記憶させられた。ラムズフェルドは、ネオコンとして国防省にやってき、彼の対決的なやり方や21世紀の非常に統合的で高度に機動的な軍隊について彼の考え方のためにある人達からは、賞賛され、他の人たちからは非難された。
ゲーツは、髄からの保守的実務家であって、彼は宇宙の沢山の衛星についてよりも、地上のブイツについて良く理解している将軍達の意見に耳を傾けるだろうという評判が先行している。多くの人々は、ゲイツとともに、古いプラグマティズムの精神がペンタゴンに戻ってくると信じている。そのことは、イラクにおける困難な状況に関して必要なことである。
ロバート・マイケル・ゲイツは、1943年9月26日、カンザス州のウイチタに生まれた。ウイリアムアンドメリー大学、インディアナ大学、ジョージ・タウン大学で学び、最後の大学でロシアとソビエト連邦の歴史で博士号をとった。学生時代にすでに彼はCIAによって採用された。10年前に彼は、CIAと「国家安全保障会議」における30年間の勤務についてメモワールを公刊した。有名な大学のトップの地位を与えられた。最後に彼は、「テキサス・A&M大学の学長を務めた。ゲイツと彼の妻ベッキーとの間には二人の成人した子供がいる。
[訳者の感想]ラムズフェルドの後任国防長官となったゲイツとはどういう人物か興味があったのでこの記事を訳しました。書いたのはマティアス・リュープ記者です。
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「トランク爆弾の仕掛け人、沈黙を破る」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年11月09日 | テロリズム
ハンブルク発:ベイルートで逮捕された所謂「トランク爆弾男」のジハード・ハマドとインタービューするのに初めて成功した。ルミヤ監獄でテレビ・カメラなしで行われた30分の対話について北ドイツ放送局の雑誌『パノラマ』は、木曜日第一放送でニュースを流した。
「ケルンのトランク爆弾男」で知られるようになった、レバノン人のジハード・ハマドは、インタービューの中で、ドイツにおけるテロ攻撃の動機について詳細に語った。彼自身の述べるところによると、彼はテロをユスフ・アル・ハジ・ディブと二人で共謀して計画した。「ユスフは私に二つのドイツの新聞が、ムハンマドのカリカチュアを掲載したと言った。彼は、「われわれは何もしないでいることはできない。何もしなければ、われわれは地獄に堕ちるだろう」と言った。
キールに住んでいたユスフ・アル・ハジ・ディブは、結局ベルリンで逮捕された。ジハード・ハマドは、自分とユスフと二人だけが計画に参加した。「第三の人物は存在しなかった。」
レポーターとの会話で、ジハード・ハマドは、彼がレバノンの検察で述べた彼の供述の第二点を翻した。当時彼は、トランク爆弾の目標は、「できるだけ多くの人間を殺すこと」だったと供述していた。これに対して彼は現在は「爆弾は爆発するはずはなく、単に「人々に恐怖を吹き込み、センセーションを起こすつもりだった」と述べている。
2006年9月4日の白状を翻した理由を、彼は次のような驚くべき主張で説明した。「私は逮捕後、何度も殴られた。お前が認めないなら、俺たちはお前を電気ショックにかけるぞと脅かされた。」ハマドのこの非難に対する証拠はない。反対に、彼の弁護士ファワズ・ザカリアでさえ、自分の依頼人が拷問や他の非合法の圧力手段なしに白状したことを裏書きしている。
最初の尋問からレバノンで確保されたハマドのコンピューターのなかに何が見出されたかが明らかになった。他のさまざまな爆弾製造のヒントやチェチェンにおける戦闘についての情報や、オサマ・ビン・ラディンの写真である。ハマドは、これらのデータを読むためのパスワードを漏らしたが、それは[ビン・ラディン19388053]であった。
雑誌『パノラマ』の調査によると、トランク爆弾男ジハード・ハマドは、ドイツに入国する以前にイスラム主義者のグループと交際していた。レバノンのトリポリ市では、彼はムスタファ・モスクで規則的にお祈りをしていた。そのモスクには、原理主義者のアブ・アブダラ・フッサン・アズ・ザヒドが金曜日の礼拝を担当していた。モスクの近くにある店では、イマムは、ビデオやカセットを販売し、その中では、無信仰者に対する「聖戦」が叫ばれたいる。
この説教者は、若いモスレムはドイツにおけるムハンマドのカリカチュアの掲載に爆弾計画で反応したことを正当化した。「予言者ムハンマドを侮辱し、後悔の念を示さないものは、殺されなければならない。それはイスラム法が定めた罰である」と彼は述べた。
ドイツ連邦検察庁の認識によると、ハマドとアル・ハジブは、今年の7月31日にケルン中央駅で二つのトランク爆弾を二つのローカル列車に載せたが、点火栓は発火したが、構造上のミスで爆発しなかった。
[訳者の感想]「トランク爆弾」の容疑者が逮捕されたことは、八月初めの記事で書きましたが、これはその後の展開についての記事です。

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「中国の活動家についての評決、覆る」と題する『ワシントンポスト』紙の記事。

2006年11月04日 | 中国の政治・経済・社会
北京発:人権活動家と法律家達は木曜日に盲目の活動家の事件についての評決が覆ったのは、中国の腐敗した官憲に対する勝利だと拍手を送った。
「これは法の支配を実践している党中央委員会の成功だ」とチェン・グアンチェンを弁護している弁護士のリ・ジンソンは述べた。チェン・グアンチェンは、幼児の時の病気がもとで盲目となったが、腐敗した官憲と戦い、法の威厳を保護している合法的活動家である。
チェンと彼の支持者達は、昨年山東省で強制的妊娠中絶や不妊手術を暴露して地方の官憲を驚かせたために、殴打され、投獄され、自宅監禁を科せられてきた。
インアン郡人民法院の裁判官ワン・ジュンに指導された裁判で、チェンは、彼自身の合法的な弁護人を奪われた。八月に彼は交通妨害と財産の毀損のかどで四年以上の懲役を宣告された。支持者達は、告発はでっち上げであり、チェンは、問題の事件の間、自宅監禁であったと注意した。
チェンは、彼の判決をリンイ市の直接裁判所に上告した。この裁判所は、月曜日に、評決をひっくり返し、事件をインアン郡人民法院に差し戻した。裁判は、約6週間で終結するだろうと弁護士は言った。
チェンの妻であるユアン・ウェイジンは、今週の判決は、第一審には重大な問題があることを示したと述べた。当局は、譲歩するように大きな圧力をかけられたと思うと彼女は言った。チェンの裁判は、国際的な注意を集めた。外交官達は、法の支配を改善するという目標をあざ笑っていると述べた。
ユアンは、自分がこの展開に有頂天になっていると言っているが、彼女は第二審に対する期待についての用心を表明した。
「再審の結果を予言することは私にとっては困難です。なぜならば、私はまだ自宅監禁の身だからです。」「もし、私が自由でなければ、村人達は、相変わらず大きな圧力を受けています。私が自由でなければ、証人達は、法廷で率直には話さないでしょう。もし私に自由がなければ、この事件は公正には判断されないでしょう」とユアンは述べた。
リ弁護士は、自分は楽観的だと言った。
「私たちにはまだ希望がある。「現在の結果は、最初の評決が非合法であったことを示しているし、チェン・グアンチェンに対する刑の執行は、効果的に停止された」と述べた。
[訳者の感想]法の支配を確立することはなかなか難しいようです。
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