海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「イラク中央銀行襲撃の際、26人死ぬ」と題するAPの記事。

2010年06月14日 | イラク問題
(前略)数は分からないが攻撃側の数名が上の階に到達しようとし、幾つかの書類に火を放ったのち、銀行員を盾にして逃げたかもしれない。
イラク治安部隊のアル・ムサウイ少将は、15人が死んだと言ったが、警察と病院の関係者によると死者は26名で負傷者は60名に達する。
銀行のそばで衣料品店を経営するガイト・アブドラは爆発で人々は、逃げだしたが、その中には銀行員の女性も含まれていた。彼は住民を護ることが出来ないという理由で政府を非難した。
「私は私の財産や生活のことを考えてはいなかった。私の心配は、もし、自殺爆弾や出鱈目の射撃で私が殺されたら、私の家族はどうなるかということだった。」
宗派的な暴力は減少しているが、政治的に動機づけられた攻撃の特徴を持った銀行襲撃事件は、イラクでは増えている。イラクの官憲によると、それらの幾つかは、現金に困った軍事勢力が自分たちの作戦のための資金を手に入れようとしているせいである。
しかし、日曜日の攻撃は、米国に支持された政府と他の国家機関に対する信頼を掘り崩そうとして、「イラク・アルカイダ」に指導された反政府勢力のような政治的動機をもっているように見える。それは一連の米軍とイラク軍の攻勢以前の2006年から2007年にかけての内戦の瀬戸際まで行った宗派的対立の際に共通だった暴力行為を思い出させる。
銃を持った男達がイラク北部のモスルでも、警官を二人殺した。
去る3月7日に行われた国会選挙で辛うじて勝利したスンニー派に支援された「イラキヤ党」は、スンニー派とシーア派の緊張が続いた数年の後の世俗的イラク政府にむかう兆候だとおもわれた。
しかし、アル・マリキ首相と他の大きなシーア派連合は、イランの援助を受けて、政治的な駆け引きを行い、政府を不安定な状態に置いている。(後略)
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「覚醒運動の指導者、イラクで逮捕される」と題する『ロサンジェルス・タイムズ』の記事。

2009年12月06日 | イラク問題
 殺人容疑での逮捕を免れようとしてきたスンニー派の半軍事組織指導者は、イラク国軍によって収監されたと権威筋は月曜日に語った。
 ムスタファ・カマル・シビーブ陸軍准将は、先週、2007年にバグダッドのドラの近隣で殺された「イラク・アルカイダ」グループの5人の死との関連で拘置された。その事件では、シビーブは「覚醒」という呼び名で知られた半軍事組織を指揮していた。
シビーブの軍隊はその年、ドラとジャブールにいたアルカイダを掃討する際に、鍵となる役割を演じた。それまで、テロリストたちは、この集落から、数十台の自爆自動車を繰り出して、首都バグダッドを攻撃していた。
 木曜日に、イラク内務省のエリート集団がこれまで彼の逮捕を妨げてきた駐留米軍や国軍の知らない間に、シビーブを逮捕した。
 米軍は、シビーブに弁護士を雇い、法廷内でこの殺人事件について争うように忠告すると同時に、彼が収監されないように働きかけてきた。彼らはシビーブが逮捕されるか国外に逃亡すると、「イラク・アルカイダ」がその隙間を埋めることを心配している。
 シビーブは、彼のグループが国内に秩序を再建するのを助ける役割を演じたのに、「覚醒運動」の指導者を法廷での追求から守るのに失敗したと軍事筋を非難した。
米国官憲は、「覚醒運動」の兵士を国家治安部隊や他の仕事に組み込むというイラク政府の約束を指摘している。しかし、シビーブと他の人々は、この約束に慰めを見出さなかった。その代わりに、彼らは彼らの仲間の覚醒運動の指導者の継続的な収監を見た。「イラク・アルカイダ」と戦うために反政府勢力を離脱した多くの人たちは、自分たちが免責されていると信じていた。
 『ロサンジェルス・タイムズ』とのインタービューで、シビーブは、自分の無罪を主張し、法廷で殺人容疑と争うと宣言した。その間、彼は議会筋に働きかけた。
 スンニー派の議員であるオマール・アブドル・サッタルや他の議員たちは、シビーブの逮捕を非難した。「『覚醒運動』の指導者を標的にしたこの動きは、イラクにおける政治的治安的状況に非常に否定的な影響を及ぼすだろう」とサッタルは述べた。
[訳者のコメント]スンニー派の武装集団に対する恐怖がシーア派政府の中にあるのでしょうか?第二のサダム・フセインの出現を避けようとしているのでしょうか?
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「ますます多くのイラク人が宗派の対立を乗り越えようとしている」と題するL.T.の記事。

2009年11月01日 | イラク問題
うだるように暑いホテルの大広間で、スンニー派部族の指導者であるアーメド・アブ・リシャは、シーア派の内務大臣ジャワド・ボラニの隣に立っていた。ボラニの隣は有名なスンニー派の宗教的指導者で、その隣にはシーア派の人権活動家が立っていた。
スンニー派とシーア派ムスリムが新しい政治的運動「イラク統一同盟」の誕生を宣言するために並んでいた。それは来年1月に予定された国会議員選挙に統一のプラットホームとして動くだろう。
周期的に聴衆の間の部族長が立ち上がり、同盟のテーマを支持して、。「イラク万歳」とスローガンを叫び、群衆からは「神よ、イラクを護り給え!」というつぶやきが漏れた。
選挙の季節が近づくにつれて、ナショナリズムの新しい感覚が、イラクを数年前に紛争に突き落とした荒っぽい宗派主義に挑戦しようと台頭している。シーア派のヌリ・マリキ首相は、自分自身を世俗主義者に切り替え、彼の「法治国家連合」と立ち上げた。それはスンニー派にも手を伸ばしている。
シーア派世俗主義者のアヤド・アラウイ元首相とスンニー派の指導者サレー・ムトラクは、別の連合を立ち上げた。
「われわれはスンニー派とシーア派の同盟について語るのにうんざりしている」と「統一同盟」に参加した優れたシーア派解説者ドヒア・シャカルチは言う。「われわれはイラク人だ。われわれはわれわれの國の利害についてのみ関心を持っている。」
スンニー派とシーア派アラブ人の間の統一の感覚はまだ脆弱だ。それは北部にまでは及ばないかもしれない。そこでは、クルド人とアラブ人とトルクメン人とが権力のために張り合っている。
スンニー派の過激派である「イラクにおけるアルカイダ」でさえ、新しいムードを承認したように見える。それはシーア派が集まるモスクや市場に爆弾攻撃をする戦術を変更しつつある。その代わりに、それは、一週間前の司法省とバグダッドの州政府前で行われた爆弾攻撃のように、イラク国家を目標にしている。
米国の官憲は、「イラクにおけるアルカイダ」の出店である「イスラム的イラク国家」があの攻撃の責任を主張したが、彼らは新しい宗派的戦争を挑発することを諦めたと思っている。
(後略)
[コメント]『ロサンジェルス・タイムズ』の記事です。
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「イラク人は、新たなテロに平然と反応している」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』の記事。

2009年08月16日 | イラク問題
8月13日発:新たなテロの波がイラクを見舞っている。先週金曜日以来だけで、少なくとも122人のイラク人が殺された。テロの犠牲者数は、再び増加している。彼らの多くはシーア派のイラク人である。五月には、テロの犠牲者数は、155人で、2003年以来最も少なかった。
確かに、最近のテロ攻撃は、内戦中と同じくらいよく準備されている。けれども、あの流血の内戦時代の恐怖は戻らない。アルカイダと距離をおいているスンニー派の反政府派も、テロを非難し、シーア派の聖職者は、信者に対して復讐を諦めるように要求している。それゆえ、バグダッドや他の都市では、晩に、以前よりも、もっと多くのイラク人が公園やティグリス河の岸で散策している。最近のテロにはアルカイダの指紋がついていると内務省の報道官は言う。彼らは良くコーディネートされている。暗殺者は、イラクでは手に入らない爆薬を仕掛けている。テロ攻撃の数は月に200回以上に上ったが、殺される人の数は内戦中ほどは増えていない。
そこから、イラクとアメリカの専門家は、暗殺者達が弱体化し、内戦中ほど致命的な攻撃を繰り返すことができないと結論している。その代わり、彼らは特定の機会から暗殺を企てる。一つのきっかけは、6月30日の諸都市からの米軍の撤退であった。もう一つのきっかけは、来年、1月に行われる議会選挙である。そこでテロリストの攻撃目標は、少数民族かキリスト教徒かモスクであって、イラクやアメリカの治安部隊ではない。
先週、月曜日の死者60人のテロは、もっとも流血が多かった。朝、モスルに近いハズナで、トラックに乗った二人が、シャバク族の家族が住んでいる小さな町を破壊した。これはクルド人やシーア派に近いが、独自の宗教を実践している人たちである。シャバク族の族長は、死者を43人、負傷者を150人だと述べた。この宗教共同体は、繰り返し、アルカイダの攻撃目標となった。同様に、月曜日には、バグダッドで9つの爆弾が20人以上を殺した。一つはセメント袋に隠されており、シーア派の日雇い労働者を標的にしていた。(以下略)
[訳者の感想]最近のテロの目的が米軍やイラク政府軍ではなく、宗教上の少数派だというのが、驚きです。
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「1991年以来行方不明だった米軍パイロットの遺体見つかる」と題する『ワシントン・ポスト』紙の記事。

2009年08月03日 | イラク問題
海軍大佐マイケル・スペイチャーを見つけるのに20年かかった。彼の乗った戦闘機は、湾岸戦争第一日に、打ち落とされたが、日曜日に、米軍は、イラク・アンバル県の人里はなれた砂漠に住んでいるイラク人が、米国海兵隊員を埋葬場所に案内したことで、遺体が発見した。
 スペイチャーの運命は、彼の搭乗機が1991年1月17日にイラク西部で撃墜されて以来、いくつかのハイレベルの国防省の調査や何百という噂や無数の陰謀説の主題であった。彼の友人や家族は、スペイチャーが消息を絶ったとき、まだ、よちよち歩きだった二人の大学生を含めて、彼が見つかるだろうという希望を諦めなかった。
 歯の治療記録に基づいて、ロックビルにある国防省の病理学者たちは、顎の骨と頭骨の一部を含む遺体がスペイチャーのものだということを確認することが出来た。国防省は、また、遺体のDNAテストによって、それらが海軍大佐のものだとういことを決定的に確証するつもりである。これらのテストの結果が出るまでに24時間かかるだろう。
 海兵隊員を操縦士の埋葬場所に案内するのに、米軍のイラク侵攻以来、なぜ6年もかかったのかという理由は明らかでない。スペイチャーの搭乗機が墜落したアンバル県は、イラク戦争の間、スンニー派の武装勢力の中心地であり、イラクで一番、暴力行為が行われた地方だった。2006年末、それまで、「イラクにおけるアルカイダ」と結託していたスンニー派部族は、スイッチを切り替え、米軍と共同で過激派と戦うことにした。
 先月初め、一人のイラク市民が海兵隊兵士に近づき、自分は米軍機が墜落した場所を覚えているほかの二人のイラク人を知っていると言った。海兵隊は、二人の証人を見つけ出したが、彼らの一人は、ベドウィン族の一グループがスペイチャーの遺体を埋葬したとき、自分はその場に居合わせたと述べた。二人のイラク人は、スペイチャーの遺体が見つかった墜落現場に海兵隊員を連れて行った。海兵隊が、スペイチャーの骨を見つけるのに数日かかった。国防省は、なぜベドウィン族がスペイチャーを埋葬することを選んだのか説明しなかった。ベドウィン族が遺体に対する尊敬の念から彼を埋葬したということは可能である。(中略)スペイチャーの家族の代弁者は、日曜日に、AP通信に対して、自分は国防省が彼を見つけるのを決して諦めなかったことを喜んでいると述べた。「家族は、捜索を諦めないでほしいという家族の要望を国防省が受け入れたことを誇りに思っている」と家族の代弁者であるシンディ・ラキダラは述べた。
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「イラクの占領終わりに近づく」という『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2009年06月30日 | イラク問題
その顔に勝利と挫折とこの六年間の悲劇全体が読み取れる顔を持った男がイラクにいるとしたら、それは、非常に疲れた恐ろしく上機嫌の神経科医のムワファク・アル・ルバイである。
今日、イラクを統治している多くの人たちのように、ルバイは、2003年に米軍の戦車といっしょに十年間の亡命から帰ってきた。彼は2004年に治安問題顧問になり、彼の宿敵であったサダム・フセインに牢獄の中で向かい合って立ち、三年後には寒い冬の夜、この男を絞首台へと連れて行った。「私は彼の腕をしっかりと掴んだ」と彼は言う。
彼は自分の国がテロに落ち込むのを見た。彼が2006年から2007年にかけて毎月3000人の殺人や爆弾テロの犠牲者を嘆いた。彼はアメリカ人に我慢してくれと言うために、ワシントンへ飛んだ。それから、情勢が改善された後、米軍の撤退について交渉し始めた。イスラムの聖職者の祝福をうけるために、彼はナジャフとテヘランへ行った。だがそれは届かなかった。数ヶ月の摩擦の後、ヌリ・アル・マリキ首相は、6月初めに、ルバイに、彼の勤務はもはや必要ではないということを知らせた。ルバイは、まだ、バグダッドのグリーン・ゾーンの中の首相の私邸の隣に住んでいる。だが、議会は、既に彼の書類をかき回して、彼の引越し料を吟味している。治安顧問としては彼はもうお仕舞だ。何たる恥辱。
彼は諦めたのか。いや、そうではない。彼は「アル・ワサット」と称する政党を立ち上げた。それは、「中央」を意味している。二週間前、この党は、伝説的な「パレスチナ・ホテル」で創立会議を開いた。ルバイが欝になるひまはない。彼はイラクについて大きな計画を持っている。彼は自ら首相になるつもりなのだ。(後略)
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「スンニー派アラブ人も投票所へ」と題する『ロサンゼルス・タイムズ』紙の記事。

2009年02月02日 | イラク問題
バグダッド発:アブ・ムジャヒードは、先月、米陸軍のハムヴィーを攻撃し、二人のアメリカ兵を負傷させたことを自慢している。今は彼はスンニー派の候補者を応援し、治安の重要性について当たり前のようにしゃべっている。
「これは休戦協定のようなものだ。選挙は、安全な環境で実行されるだろう」とアブ・ムジャヒードは言う。彼は、スンニー派アラブ人のグループである「1920革命防衛隊」の活動的なメンバーだ。「われわれは人々に投票を許し、彼らに他のグループからの圧力なしに決定させたいのだ。」
片足は政治的プロセスにつっこみ、他方の足は、しっかり、暴力行為に根ざしながら、アブ・ムジャヒードのような戦士は、過去5年間のスンニー派コミュニティの進化をかいま見させてくれる。イラクの増大するシーア派多数派と背景にいる米国に対してゲリラ戦争を遂行していた状態から、選挙による政策を一時的に採用するまで。
アブ・ムジャヒードの曖昧な態度は、イラクの傷つきやすい民主主義に対して賭けようという決断がどれほど殆どひっくり返りやすいかを物語っている。銃は、変化を結果するための、有効な道具だとまだ見られている。
「米軍が撤退し、彼らが選挙を通じては、前進できないと感じ、米国がシーア派指導者達に武器を供与したら、彼らはまた、暴力行為に返るだろう」と「国際危機グループ」のイラク専門家のヨースト・ヒルターマンは言う。「彼らにとっては、イラクのアイデンティティとその中での自分たちの役割が大事なのだ。彼らは閉め出されることは受け入れないだろう。」
住民の態度は、県によって異なっているが、武装したスンニー派アラブ人のグループの概観は、2005年に行われた国民投票とは大きく変化している。あのときは、武装勢力は、投票すれば殺すぞとスンニー派のコミュニティを脅していた。バグダッドでは、以前の武装勢力は、スンニー派と一緒に候補者名簿に登録した。スンニー派の反乱と同義語だったバクバやサマラでは、武装勢力は、候補者を支持した。
スンニー派武装勢力が参加する事態に警告されて、シーア派政治家達は、好戦的な連中が、政府部内の職を取りたがっていることを心配している。なぜなら、彼らはこの国の新しい秩序を壊すかもしれないからだ。(後略)
[訳者の感想]宗派の対立は余り緩和されたように、見えませんね。米軍が撤退した後で内戦が始まる可能性さえあります。サウディ・アラビアなどは、スンニー派を支持するでしょう。
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「イラクで、地方選挙始まる」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年01月30日 | イラク問題
谷村新司 ベスト&ベスト

プルーク

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バグダッド発:イラクでは、最初の選挙者が地方選のために一票を投じた。選挙委員会の代表の伝えるところでは、昨日、兵営や警察署、病院や監獄に1672箇所の投票所が開かれた。土曜日の本来の投票では、61万4千人の兵士・警官・病人・囚人は、早期に投票する可能性が与えられた。2005年度の国会議員選挙では、投票日にはたった一日に決められていたが、それは当時、役所がロジスティック上の問題や治安問題と戦っていたからである。
選挙権者名簿に記載された1500万人のイラク国民は、明日、土曜日に選挙に出かける。最初の結果は、翌火曜日には判明する予定だ。全部で、1万4431名の立候補者が、18ある州のうち、14州にある地方議会の440議席を争うことになる。
「国際危機グループ」(ICG)の見積もりでは、地方選挙は、数年前から暴力によって不安定にされたイラクに安定をもたらすだろう。2005年に行われた地方選挙と憲法制定国家選挙では、内戦が起こったが、今度の選挙は、平和な選挙になるだろうと、ICGが発行した報告は述べている。その理由として、今回は、2005年の選挙をボイコットしたスンニー派政党が参加するということが挙げられている。
[訳者の感想]どうして、スンニー派が今回は選挙に参加することになったのかという理由は書かれていません。選挙に参加しないと彼らの政治的立場がますます不利になるからでしょうか。
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「アメリカはどのようにしてテロリスト達を押さえ込んだか」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2008年09月07日 | イラク問題
ベルリン発:バグダッドやイラクの他の多くの場所に向かって、彼らは毎晩出撃する。米軍の特殊部隊と情報機関の職員は数ヶ月前からイラクで最も探し求められているテロリスト達を追跡している。彼らは、その異常に効果的な戦術によって高度に効果的である。数百人の過激派やその支持者達が過去数ヶ月の間に、特殊部隊の手中に落ちた。少なくとも、情報機関や国防省の代表は、『ワシントン・ポスト』紙に対して、イラクにおける反テロ戦争の新種の作戦のかなりの成功率について語った。
 同紙の報じるところによると、特にこの情報機関と軍人の混成チームは、ペルシャ湾沿岸におけるテロ件数の後退に影響を与えた。国防省によると、米国は、特にイラクにおけるテロネットワーク「アルカイダ」に対して圧力を加えた。アルカイダは、去る6月以来バグダッドだけで10人の高位のテロ指揮者を失ったと『ワシントン・ポスト』紙は報じている。最も成功した仕事の例として、同紙は、「トラ」と呼ばれたアブ・ウツマンの逮捕を挙げている。米軍の見解では、このテロリストは、アメリカ人ジャーナリストのジル・キャロルの誘拐や一連の米軍兵士とイラク人市民に対する流血の攻撃の背後に隠れていた。8月11日、米軍の特殊コマンドは、ある示唆にしたがって、バグダッドのある家で「トラ」を逮捕した。既に前もって、ウツマンの追求の手は身辺にまで迫っていたので、彼は適当な隠れ家を探すのに忙しく、新たなテロ攻撃を計画するどころではなかった。
『ワシントン・ポスト』紙のこの報告は、花形記者ボブ・ウッドワードの暴露記事を裏書きしている。彼の新著『内部の戦争:ホワイト・ハウスの秘密の歴史、2006-2008』の中で、ウッドワードは、イラクにおける暴力行為の減少にとって、ブッシュが主導した「大波」と名付けられた作戦は、それほど大きな役割を果たしていないと述べている。その作戦では、2007年1年間に、約3万名の兵士が増派されたのだが。
 ウッドワードの主張によると、米軍投入の画期的な新形式が、決定的にこの成功に導いた。それでもって、アルカイダや他の反政府グループの指導者を見つけて殺すことが可能になった。
 『ワシントン・ポスト』紙は、イラク市民からの通報が特殊部隊の成功にとって好都合であったという「国防省報告」を引用している。多くのイラク人達は、かなり前から、反政府勢力に対する同感を失い、彼らの隠れ場所を密告した。この示唆は、直ちに特殊部隊司令部に伝達され、司令部は隠れ家に照準を合わせた。特殊部隊のチームは、しばしば、一晩にいくつもの目標に向かって出動した。特に、ある作戦が別の隠れ家の存在を示唆した場合には。
 作戦は、軍人によって指揮された「タスク・フォース」によって調整された。そこでは、CIAや「国家安全保障委員会」(NSA)の情報員や、FBIの犯罪専門家、政治的アナリスト達が協力している。さまざまの治安官庁が過去数十年間、競争関係にあった後で、「タスク・フォース」は、直接的協力がどれほど有効であるかを明らかにした。
 「タスク・フォース」の司令部の所在地は、バグダッド北部のバラド空軍基地内の古い格納庫であり、そこには、以前にはフセイン・イラク元大統領の戦闘機が格納されていた。ここから、特殊部隊は、イラク北部、西部、南部やバグダッドへと出撃するのである。
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「イラク政府軍兵士1千人以上、バスラの戦闘から脱走」と題する『ニューヨーク・タイムズ』の記事。

2008年04月04日 | イラク問題
北京五輪に群がる赤いハゲタカの罠
浜田 和幸
祥伝社

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バグダッド発:先週行われたバスラ市でのシーア派民兵に対する戦闘の際、1千名以上のイラク軍兵士および警察官が戦うことを拒否するか、簡単に彼らの持ち場を離脱したと、木曜日にイラク政府の高官が述べた。イラク軍の将校によると、このグループには、数十人の将校と二人の野戦司令官が含まれる。
重要な戦闘の最中の脱走は、アメリカ軍が訓練したイラクの治安部隊の有効性に新たな疑いを投げかけている。大統領官邸は、アメリカ軍撤退の条件としてイラク軍と警察の準備ができることを挙げた。
バスラ作戦についての脱走問題や他の問題によって作り出された危機は、十分深刻なので、ヌリ・アル・マリキ首相は、急いで地方のシーア派部族からの募集兵がイラク軍に参加するように煽った。この動きは、すでにスンニー派の部族の間に怒りを生み出した。その理由は、スンニー派の反乱軍や犯罪集団に対する戦闘で彼らが協力したにもかかわらず、マリキ首相が、スンニー派から兵士を募集することには熱意を示さなかったからである。
 英国軍の将校は、マリキ首相が既にバスラ市に駐屯している3万人の治安部隊に対して6,600人の増強を行ったと述べた。米軍の高位の将校は、自分は1千名から1千5百名が脱走したと考えていると述べた。それは、投入された兵士の約4%にあたる。
 新しい「イラクに関する国家情報評価委員会」は、治安の改善を引用しているが、治安はもろいと結論している。
 役人たちは、バスラ作戦中のイラク軍の計画と遂行にかかわる問題を記述しているけれども、ムクタダ・アル・サドルとの緊張は再び増大する兆候が木曜日に出ている。日曜日に、支持者たちに戦闘を停止せよと要請したアル・サドルは、木曜日には、百万人のイラク人が、アメリカ軍の占領に抗議して、来週、シーア派の聖地であるナジャフに行進するよう要求した。彼はまた、マリキがイラク政府との協定の条項に違反したという理由で、マリキ軍に対する脅迫を述べた。
 戦闘に参加したなかったカラフ大佐が参加しなかった理由は、イラク治安軍は、彼が受け取った生命に対する危険に対して自分を守ることができないからであるとカラフ大佐の仲間は述べた。「もし、彼が戦えば、彼は何時か殺されるかもしれない。」(以下省略)
[訳者の感想]ムクタダ・アル・サドルには、軍人を脅迫する力があるようです。

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「アルカイダが、ビデオでイラク軍将校の射殺を流す」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年09月23日 | イラク問題
イラクのアルカイダに近い武装勢力は、イラク軍の誘拐された五人の将校を射殺するビデオを公開した。ビデオは、武装勢力が利用するインターネットのサイトに掲載された。その中では、覆面した男が、前もって目隠しをされた五人の将校の頭をピストルで撃つ場面が見られる。ビデオを作ったグループは、ビデオの犯行を「彼が自分の夢から覚めるように」というブッシュ大統領への宣告だと述べた。
将校たちは、アルカイダの別称とみられるいわゆる「イラクのイスラム国家」の反乱者によって、バクバ市内で誘拐されたと彼らは述べた。米軍はバクバを首都とするジアラ州でアルカイダや他の反政府勢力を攻撃していた。このビデオで、イスラム過激派は、アメリカ政府とイラクの首相が戦争に敗北しそうであることを証明していると述べた。「私は、警察官や兵士に、仕事を放棄するように忠告する」と将校の一人は射殺される前に画像の中で述べた。
 
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「ブラックウオーター事件、アメリカを痛撃」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年09月20日 | イラク問題
コンドリーザ・ライス国務長官は、イラクのアル・マリキ首相に、日曜日にバグダッド市内でブラックウオーター社が派遣した警護人と攻撃者の間の戦闘で犠牲となった8人の民間人の死に対して遺憾の意を伝えた。イラク内務省の報道官は、加害者はイラクの法廷に立たされるねばならないと述べた。その前に、マリキ首相は、シーア派の過激派指導者であるムクタダ・アル・サドルの圧力でブラックウオータ社からライセンスを取り上げていた。
1.民間の治安警備会社は、米国の軍事政策の一部
 イラクにおける外国人警護人の役割を巡って、激しい議論が起こっている。警護人の撤退は、単なる脅しなのかどうか。それはアメリカを痛撃するだろう。ブラックウオーターや他の治安警備会社は、軍事セクターを民間会社に移すという米国の軍事政策の一部である。
移譲のための法的基礎は、1985年にロナルド・レーガン元大統領によって、軍隊のロジスティックを「民間で強化する計画」で作成された。しかし、最初に大規模に、民間会社を軍事に投入したのはビル・クリントンだった。彼は、1992年に治安警備会社にソマリアでの国連軍のロジスティックを委託した。同じことは、1999年に東チモールで、2000年にハイチで起こった。それは異常なことではない。アメリカの国防長官は、しばしば、産業界の出身で、国防省の官僚は、非効率で有名である。そのためい、アメリカ大統領はしばしば、不愉快な質問を突きつけられる。
 民間会社は、国防省の周辺で、膨大な合理化利益をかぎつけた。1996年には、キリスト教保守派の軍事専門家であるエリック・プリンスが治安ビジネスに手を染めた。彼は、ノース・カロライナ州に「ブラックウオーター治安警備会社」を設立した。イエーメンでのアルカイダによる駆逐艦「コール」の攻撃の後で、2000年にブラックウオーター社は、ビル・クリントンから船舶の警備を委託された。「黒いげんこつ」の旗印のもとで始まったこの企業は、ノース・カロライナ州で第二の雇用者に成り上がった。新しい本部は、6千平米あり、ドアの取っ手は、銃身でできている。ブラックウオーター社は、監視用の飛行船をテストし、地雷で破壊されやすいハムヴィー・ジープに替わる車を開発した。国防省は、この会社に米国民間人の警護を委託した。
2.私的治安警備会社の法的抜け穴
 ブラックウオーター社の条件は、民衆の口では「戦争の犬」と呼ばれている従業員の不逮捕特権である。彼らは民間人だが、投入された国の法に従わない。このことは、2004年にイラク政府に主権が渡された際に確証された。それが唯一の法的穴ではない。米軍とは違って、契約者は、議会に報告の義務がない。(後略)
[訳者の感想]民間会社が戦闘行為を許されるというのは、どうも理解できませんが、国家の特権を譲ってまで、軍事力の一部を民営化するという思想には、大きな問題がありそうです。民営化もここまで来るとすごいなと思います。
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「イギリス軍、バスラから撤退、将軍たちは、アメリカの戦略を罵倒」と題する『シュピーゲル』誌の記事。

2007年09月03日 | イラク問題
ロンドン発:ゴードン・ブラウン首相は、彼の前任者だったトニー・ブレアと同様、イラクからの撤退計画の時間割を公表することを拒んだ。しかし、彼は、国会が夏休みから帰ると、撤退を10月に開始すると公表した。今年の初めには、バスラとその周辺に、まだ7千名のイギリス軍が駐留していた。
イラクにおける元イギリス軍総司令官だったマイク・ジャクソンは、自分の自伝の中で、イラク紛争における米国の戦略と政策を「知的破産」であり、「ばかげている」と述べた。アメリカは、民主主義的構造を建設する代わりに、軍事力にあまりに多くを賭けたと述べた。
イラク攻撃の直後にイギリス軍の総司令官であったティム・クロス大将も、「イラクに対するワシントンの戦略は、致命的に間違っていた」と述べた。『サンデー・タイムズ』紙とのインタービューでは、当時のラムズフェルド国防長官が、正しい警告を無視するか、退けたと述べた。
攻撃の作戦計画立案中に、クロス大将は、ラムズフェルドに、攻撃後の時期に対する詳細な計画ができていないということを指摘したが、ラムズフェルドは、全く聞き入れようとせず、イラクが半ば自動的に復旧され、短期間で民主的な国になると信じていた。ジャクソン大将もクロスと同意見であった。
1991年の「砂漠のネズミ」作戦で最高司令官だったパトリック・コーディングリー中将は、「プレス・アソシエーション」に対して、「クロス大将の批判は的を射ている」と述べた。問題は、彼や他の人たちがどうして自分の言うことに耳を貸すように説得できなかったのかということだ。」
これでもって、労働党政府が直接批判されることになる。英国政府の代表者たちがこの論争に首をつっこむのを差し控えている間に、野党の自由民主党の優れた代表者であるメンジース・キャンベルは、「将軍たちの言明は、絶対に正しい」と支持した。
保守党の国防大臣だったマーカム・リフキンは、BBCとのインタービューで、「根本的な批判点の一つは、ラムズフェルドが無能力だったことではなくて、彼の上司であるブッシュ大統領が国防省とラムズフェルドに国家の再建まで任せるという異常な決断をしたことだ」と述べた。
将軍たちの非難は、ロンドンの政府にとって具合の悪いときに起こった。デス・ブラウン国防相とデービッド・ミリバンド外相は、金曜日に『ワシントン・ポスト』の寄稿で、ワシントンとロンドンの間の緊張関係をごまかそうとしていた。
解放と安定化のためのこれまでの戦略は不十分だという英国のトップの軍人の批判は、米国政府の敵対者を援助するかもしれない。米国議会の民主党は、戦略の変更を要求している。
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ブッシュ、イラクの選挙に失敗」と題する『ワシントン・ポスト』紙の記事。

2007年08月31日 | イラク問題
イラク暫定政府のアヤド・アラウイ元首相は、先週、テレビのインタービューで、イラクの戦後の一番理解されていない転換点の一つを示唆した。それは、2005年1月に行われたイラクの国会議員選挙である。
 「われわれの敵対者は、経済的に他の方面からたっぷり援助を受けていた。われわれには経済的援助がなかった」とアラウイ元首相はCNNテレビのウオルフ・ブリッツァーに語った。「われわれはわれわれを支持するイラク人以外からは何らの援助を受けないで、選挙戦を戦ったのだ。」
 アラウイの言葉の背後には、イランの政治的干渉と対決するひそかな行動計画を実施するかどうかについての陰謀と米国の不決断についての物語が横たわっている。このような計画は、中央情報局CIAによって念入りに作られたが、後で下院の民主党体表ナンシー・ペロシと当時国家安全保障委員会顧問だったコンドリーザ・ライスを含むあり得ない連携からの反対によって引っ込められた。
 元政府高官によって物語られたように、この物語は、イラクでの米国の努力の多くを特徴づけている傲慢さとナイーブさの混合を表現している。ブッシュ大統領から、官僚に至るまでイラクの民主化には熱心だが、イランとその代理人が支配的な政治的勢力として台頭するのを確実にする行動を取ったのだ。
 CIAは、2004年の夏と秋に、イランが、2005年1月30日の総選挙を操るために、「連合イラク同盟」として知られるシーア派の連合体のためにイラクにお金をつぎ込んでいると警告した。CIAの一人は、イランの秘密の基金は、イランに友好的で、シーア派の大アヤトラであるアリ・シスタニ師の旗の下に集まった候補者のためのメディアと政治的作戦のために一週間に1千百万ドル(13億2千万円)が使われていると推定した。CIAは、選挙を有利にするために、毎週、イラク南部の諸州で投票登録するために、偽造の配給カードを持った5千名のイラン人が国境を越えていると報告した。
 このイランの潮流に対抗するために、CIAは、2千万ドル(24億円)かかる政治的行動計画を提案した。この活動は、イラク穏健派の候補者とスンニー派部族長の支配範囲及びイランの影響に対抗する他の努力に対する基金を含んでいた。秘密の行動計画は、2004年の秋に準備され、ブッシュ大統領の署名を得た。法律に定められていたように、ペロシを含む議会の高位のメンバーに報告された。
 だが、答申が署名されて一週間以内にCIA高官は、それが引っ込められたと聞かされた。
 バグダッドにいた情報員は、イラクの政治家に会い、分配された資金を返還するように求めた。CIAの高官が聞かされたところでは、ライス顧問とペロシとは、米国がイラクの民主制を祝いながら、他方でそれを密かに操作することはできないとう結論で一致したのだ。
 倫理的には、それは確かに原則的な考え方だった。しかし、イラクの現場では、スタート・ストップ行動は、穏健派で世俗的なイラク人の足下をすくう効果があった。情報局の答申を引っ込めた点について質問すると、ライスとペロシの報道官はコメントを拒否した。
 「イラン人たちは、戦場の命令を完遂した」と当時イラクにいた米国の官僚は回想する。
 「イラク人たちは混乱していた。彼らはアメリカ人が何をしているのか理解できなかった。アメリカはイラクをイランに差し出しているように彼らの目には見えた。われわれはワシントンにこれは不幸をもたらす出来事だと報告した。(中略)
 将来の歴史家は、ブッシュの行政府は、実際、新生イラクについての民主主義レトリックで生きていたが、ある時点でそれはイランの影響に対抗することを目指す行動計画を破棄したと記録すべきだ。現在、行政府は、イランがイラクに介入することに対抗しようとしている。だが、恐らく今となっては遅すぎる。
[訳者の感想]コラムニストのデービッド・イグネイシアスが書いた評論です。イランに民主主義を確立するという建前と裏で世論操作をするという矛盾を超えられれなかったということでしょうか。あれほど権力をもったブッシュがライスの意見を尊重したためでしょうか。ちょっと信じられないほどのナイーブさだと思います。
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「不安と新たな自己意識の間にいるスンニー派」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』の記事。

2007年08月15日 | イラク問題
助けを求める叫びは、劇的に聞こえる。バグダッドのスンニー派は、「先例のない民族殺戮キャンペーン」に曝されていると、「イラク統一戦線」の議長であるアドナン・ドライミは、嘆く。シーア派民兵と殺戮集団の背後には、イランが働いていると、このスンニー派の政治家は見ている。これらの戦闘集団は、相変わらずスンニー派をバクダッドから追い出すそうとしている。彼らに対して適当な時期に抵抗しなかったら、彼らはその行為を隣接するアラブ国家に広げるだろうとドライミは、警告する。
目につくのは、シーア派のマリキ首相が、かなり長い滞在の後イランから帰国して、バグダッドで、すべてのスンニー派政治家が辞職した自分の政府を救うために、内戦の危機について述べたとき、スンニー派の政治家がアラブ人の連帯を求めたことだ。長い条件のリストが満たされたとき、初めて、彼らは政府に復帰しようと望んでいる。ドライミの「統一戦線」は、マリキの招待に応じて、遅くとも今週火曜日に予定されている会合に参加する予定の唯一のスンニー派政党である。
不安と落胆と新たな自己意識とが、最近、イラクのスンニー派の間に看取される。スンニー派政治家たちの間では、マリキに対する信頼は底をついたように見える。「イスラム聖職者連合」の議長であるシャイヒ・ハリト・アル・ダリは、月曜日に、マリキの「傀儡政府」との接触を停止するように、米国に要求した。他方、「民族対話戦線」のハミド・アル・ムトラグは、マリキに対して、自己賛美とシーア派よりの一方的政策を非難した。
 これに対して、イラク西部のスンニー派部族は、マリキとの密接な協力をする用意があり、過去数ヶ月の間に、真剣に受け止められる軍事的政治的勢力になった。特にアンバル州とジアラ州では、彼らはアルカイダに対して戦って成功を収めた。
専門家の見解では、テロ組織は、打ち負かされるどころではないが、数字がそれだけで雄弁に語っている。2006年夏には、毎週、アンバル州のあるイラク西部では、400件の武力衝突が数えられたが、2007年7月には、100件より少なかった。米国の研究所によると、今年初めからの軍事攻勢の成功の一部は、部族の新たな参加に基づいている。アメリカ軍は、部族たちを武器供与によって援助し、いくつかの部族と密接に協力している。
だが、部族はそれだけで満足していない。イラクから報道が間違っていなければ、彼らはもはやアルカイダに対してだけでなく、スンニー派を圧迫し首を絞めているシーア派民兵に対しても戦うことを望んでいる。だが、これらの武装したスンニー派は、部分的にバグダッドの指導的政治家と密接な結びつきを持っている。だから、マリキ首相は、部族の参加を賞賛した。しかし、同時に、彼は、スンニー派民兵を国の別の地域に投入することに対して警告した。その理由は、そんなことをすれば、シーア派とスンニー派との内戦になるだろうと言うことだ。
 イラク西部のスンニー派の最近の変化は、アメリカの軍事専門家であるアンソニー・コーズマンの見解では、特にマリキ政権次第である。「六ヶ月前に連合軍兵士やイラク治安部隊の兵士を標的にしていたスンニー派は、いまや、中央政府と協力するつもりである。ただし、政府が協力すればの話であるが。政府が彼らに金と地位と権力の一部を与えれば、彼らは忠誠宣言に署名し、正規の警察と陸軍に参加するだろう。けれどもそれは速やかに実行されされなければならない。なぜならば、部族の忍耐は限られているからである。そのための時間を4カ月から6カ月と見ている米軍将校の言葉を引用している。
 ますます多くの力と自律性とを考える部族は、マリキの率いる弱い政府にとっては、挑戦である。バグダッドの国民議会にとっても、彼らは、競争相手になるだろう。スンニー派部族の居住地域では、部族指導者は、遙かに大きな権威を持っているからである。
 マリキがスンニー派を政府に再び帰るように動かした交渉では、部族は、ある役割を演じたが、それには理由がある。「われわれが望んでいるのは、危機を終わらせ、大臣が帰ってくることである。だが、もしこれが起こらなければ、われわれは、われわれに助力を申し出ているシーア派の兄弟に目を向けるだろう」とマリキは、告知した。
[訳者の感想]イラク西部では、アメリカ軍は、スンニー派民兵と協力して、アルカイダを攻撃していたようです。しかし、スンニー派とシーア派両者の長年の対立関係から見て、両派が政府内部で一致協力する体勢は簡単にはできそうにありません。
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