海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「鉄の沈黙」と題する『ツァイト・オンライン』の論説

2009年09月30日 | 中国の政治・経済・社会
書籍見本市は、文化のオリンピックになるべきだと中国では言っている。去年の夏のようにこの國は特に一つのこと、つまり、承認を得たいと思っているのだ。轟音はものすごくなる。500万ユーロ(6億7500万円)で、政府は選抜された作家達をドイツへ来させる。ロジスティクに関する準備以下、平和な文化的大国のイメージをわれわれに信じさせるために、いくらかのことがなされる。われわれが我が国で検閲と呼んでいるものは、中国では「文化政策的」用語を用いて「調和化」と呼ばれている。
裂け目は目に見えてはならない。調和のための努力は、「作家のベイ・リンとダイ・チンが参加するなら、計画されたシンポジウムをボイコットするぞ」という最近の脅しにおいて明らかになった。行事のテーマは、「中国と世界:知覚と現実」である。フランクフルトでは、中国の願いを入れて、両作家の招待を取り消した。この急ぎすぎた従順さは、今年の書籍見本市がどれほど不安定な基礎の上に立っているかを次第にはっきりさせる。
 「中国について対話するのではなくて、中国と一緒に対話して欲しい」と見本市の所長ユルゲン・ボースは言った。だから、この妥協を認めなければならないというのだ。シンポジウムの司会者であるペーター・リプケンは、「反体制派と中国学研究者」との集会が問題ではないと言明した。だが、批判者でないとしたら、一体誰が中国内の知覚と現実との関係に何か貢献できるだろうか。シンポジウムについての公式の告知では、そこでは、数百の後に続く催し物のための第一声がだされるべきだと彼は言う。
それが本当なら、なんとも情けない。そうするとわれわれは、中国がそこで数日間文学の中心であると感じるような見本市を覚悟せねばなるまい。中国はわれわれに出版部数を示し、毎日印刷され販売される数千冊の書物について語るだろう。われわれは、質問する代わりに、驚いて欲しいというわけだ。
中国がなぜ国際的作家団体である「ペン・クラブ」を承認せず、逮捕された反体制派について聞く耳を持たないのか聞きたいものだ。なぜ、中国政府が作家のリュウ・シアボを何ヶ月も監禁しているのか?世界的に有名な芸術家のアイ・ウエイウエイは、国家によって迫害されている。どうして、作家のヤン・リャンケが彼の批判的な長編小説のために出版社を見つけることができず、フランクフルトへ来ることができないのか?このような言論の自由と人権についての質問は、山ほどある。
「10月の見本市は、そのための適切な場所だ」とユルゲン・ボースは言った。だが、開会の数週間前の宥和政策は、別の方向を暗示している。今年の見本市の取り組みは、綱渡りになるだろうと大抵の人が予感していた。
チェン・ダンチンの言葉が耳に響く。この中国人の抒情詩人は、ちょっと前に、『南ドイツ新聞』で述べていた。「あなた方は中国との対話で体制が変わるといつも思っている。実際は中国が君たちを変えるのだ。」書籍見本市が鉄の沈黙のお祭りにならないようにと希望するだけだ。
[訳者のコメント]筆者はダーヴィド・フーゲンディックと言う人です。
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「アルカイダ、連邦議会選挙後にテロ攻撃をすると脅す」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2009年09月19日 | テロリズム
ベルリン発:金曜日午後に公表された脅迫ビデオの発信者が、高い確率で実際にアルカイダなかったとすると、それを真剣に受け取ることは難しいだろう。話し手は、このような場合には考えられる限り典型的でない服装をしている。つまり、彼は、黒い背広を着て、青いネクタイを締めている。赤いカーテンを背景にして、ボン出身のイスラム過激派ベッカイ・ハラハの脅迫ビデオは、この種の公開ビデオのどのスタイルとも違っている。
だが、彼の告知は、はっきりしている。ドイツの治安当局は、それを真剣に受け止めた。アルカイダの名前を使って、このボン出身者は、連邦議会選挙が、連邦軍のアフガニスタンから撤退するという意志を反映しない場合には、ドイツ国内でテロを行うと脅した。
言葉どおりに引用すると、ハラハは、「ドイツ国民が戦争に踏み切れば、それは自分自身の判決を下したことになる」と言った。「その場合、聖戦は、ドイツに及ぶだろう。ドイツ在住のムスリムに対して、14日の間に、あらゆる生活に必要でない場所に立ち入らないように、また、子供たちを手放さないように、警告した。キール市は、どんな場合にも安全であるだろうという箇所は、説明できない。ハラハは、2004年のマドリッドと2005年のロンドンでのテロに言及した。
他方では、今年、「ドイツ人アブ・タイハ」という名前で本物だと思われるビデオを公開したハラハは、「ドイツには現在置かれている運命を免れる機会がある」と述べた。連邦軍の最後の兵士がアフガニスタンから撤退するならば、最後の聖戦士もドイツから呼び返されるだろうと述べた。
このビデオは、金曜日午後に、アルカイダや他のテロリスト集団が利用するいくつかのウエッブ・サイトで放映された。
ドイツの治安当局は、現在、このビデオを検討中である。公開場所や公開の仕方は、話し手の声や音調と同様、本物であることを窺わせる。数ヶ月前から、アルカイダがドイツ国内の目標に対するテロ攻撃を行う兆候が濃厚になっていた。アルカイダのシンパは、インターネットの中で、「ドイツの9.11」について公然と語った。アメリカ政府の陳述では、パキスタン在住のアルカイダ指導部は、北アフリカにいる「マグレブのアルカイダ」に対して、「ドイツ人に標的を絞って攻撃するように」指令を出した。(以下略)
[訳者の感想]「ベッカイ・ハラハ」は、モロッコ系ドイツ人だそうです。トルコ系ではないようです。
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「フランス帝国の誘惑」と題する『メルクーア』の評論。

2009年09月14日 | 国際政治
(前略)
米国がアフガニスタンとイラクでジレンマに陥っているように、フランスもアフリカでジレンマに陥っている。なぜならば、不定な時間、自分の兵隊を軍事的な手段だけでは勝てない非対称的な紛争において犠牲にしようという国民の意志が存在しないのと同様に、危機的地域に持続的な平和を約束する出口戦略は存在しないからである。にもかかわらず、「法と秩序」を作り出すために、ワシントンと同様、パリは、ジンバブエ大統領ロバート・ムガベのような独裁者に対して接触を恐れない。ムガベは、2003年にフランスによって組織されたパリでのアフリカ・サミットに招かれたが、それは多くの欧州連合の不興を買った。だが、この振る舞いは、フランスでは伝統である。民主制と自由、このフランス革命以来世界中で宣伝された二つの価値は、常に単なる脇役を演じてきた。パリがその保護する手を伸ばした政治家のリストは、カメルーンのビヤや中央アフリカのボカサから始まって、ガボンのボンゴとギニアのコンテを経て、トーゴのエヤデマやザイールのモブツに及んでいる。
それゆえ、アメリカ人と同様、フランス人が最近アフリカでのあまり自慢にならない過去を振り返ったとしても驚くことではない。ワシントンと同様、パリは、1994年に、ルアンダにおける大量殺戮の実行者を保護し、この犯罪を防ぐために何もしようとしなかった。その直前に起こったソマリアでの失敗に終わった干渉と同様、災難を恐れたクリントン大統領は、殺戮を「部族の怨恨」と過小評価した。ミッテラン大統領は、それどころか、「大量殺戮は、アフリカでは、他所ほどひどくない」といったと言われている。だから、両者は目立つほどゆっくりとしか反応しなかった。彼らの関心は、自国民を避難させることにのみ向けられた。(後略)
[訳者のコメント]フランスの外交政策がアメリカのそれと非常に似ているというこのトーマス・シュペックマンの指摘は、なかなか的を射ていると思いました。
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「母体の中の虐待」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2009年09月12日 | 健康
ハイデとリザは、双子として通る。彼女らは、茶色い髪をなびかせており、青灰色の目をし、身長は1.6メーターである。
だが、その他の点では、彼女らには共通点は少ない。ハイデは、19才で、リザは、20才。血縁関係はなく、偶然にいっしょに育てられた。どちらも、生後数週間後にヴェストファーレン州のゾーストに住むある夫婦に養女として引き取られた。
マリア(56)とゲルハルト(58)とは、姓を明かされることを拒んでいるが、自分たちの子供ができなかった。二人の養女が来たことで、一つの夢が叶えられたように見えた。「やっと家族を持てたわ」とマリアは言う。彼女は、200平米の大きな自分の家で家計を切り回し、ゲルハルトは、機械工学教授として働いた。
姉のリザは、初めからすくすくと成長し、大学入学資格を取り、医学の勉強を始めた。
これに対して、ハイデは、全く違っていた。「彼女は神経質な赤ん坊で、幼稚園で既に躓いたわ」と母親は言う。「ハイデは落ち着きがなく、騒がしかった。」ティーンエイジャーの時には、授業には殆ど出席しなかったわ。学校をさぼり、ときどきパンク仲間と駅の周辺をうろついた。
現在、彼女は、障害児のための特別学校に通っている。何かが気に入らないと、簡単に、暴れる。「おまえなんか馬鹿だ!」と父親を怒鳴りつけ、母親を「馬鹿×××」と叱る。
彼女の振る舞いは両親を絶望させた。彼らはリザと全く同じようにハイデも受けれなかただろうか?確かにリザと同様、ハイデも、難しい家庭事情を背景に持っていた。だからこそ、彼らは養子に出されたのだ。しかし、同時に、児童相談所のワーカーは、乳児にはどこも具合の悪いところはないと言った。
だが、何年もセラピストからセラピストへと渡り歩いた末、両親は、当時の陳述を疑う理由があった。ハイデは明らかに重大な傷害を抱えてこの世に生まれてきたのだ。彼女の生みの母親の体内で、彼女の大脳は、アルコールによって傷つけられたのだ。二年前にある医者は、「胎胚性アルコール症」だと診断を下した。
赤ん坊を速やかに仲立ちすることが大事だったので、所管のゼーストの児童相談所のワーカーは、真相の全部を語らなかったのだ。ハイデが生まれた1ヶ月後の1989年12月に、事後処理係は、ある内部書類に、ひどいアルコールの問題があると書き込んでいた。実母は、受胎後4週間経って初めて妊娠を確認し、「毎日酔っぱらっていた」と述べた。そえゆえ、アイケルボルンの州立病院への入院が命じられたのだった。
この危険な書き込みについて、養父母は、当時一言も聞かなかったとマリアとゲルハルトは言う。彼らがいろいろと調査した後で初めてこの事情が分かった。しかし、そのとき既にハイデは、17才になっていた。児童相談所の責任ある事務担当者は、先週、『シュピーゲル』に対してこの件に関して発言したくないと述べた。
「私たちはだまされたのです」と髭を蓄えたゲルハルトは過去を振り返って言う。「責任者が私たちにこの子供には精神的な傷害があると正直に言っていたら、私たちはあの子を養女にはしなかったのに」とマリアは言う。(後略)
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「駐アフガン米国大使館、警備員を解雇」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2009年09月05日 | アフガン問題
ハンブルク・ベルリン発:尻の割れ目からウオッカを注いでセックスのシミュレーション。カブール駐在の米国大使館内での猥褻パーティーの写真は目下、憤慨の的になっている。民間の治安警備員のメンバーは、NPOの「政府監視のプロジェクト」(POGO)に助力を求め、上役による虐待と屈辱について報告した。その後で、この団体は、ヒラリー・クリントン国務長官に宛てて「公開状」を書いた。
最初の帰結:この警備会社の8名の社員が解雇された。彼らは金曜日にアフガニスタンを去る。さらに「アルモ・グループ北米」の2名の警備員は、辞職するだろう。米国大使館は、責任ある管理部員が入れ替えられると伝えた。クリントンとロバート・ゲイツ国防省長官は、彼らの脱線に腰を抜かすほど驚いた。
公開状の中で、このPOGOという組織はそれ以外に戦争領域への民間人サービス要員を委託する際の一連の原則的な問題を指摘した。それによると、実行している会社の事業利益と効果的な投入との間に矛盾があるそうだ。利益を得るためには、サービス要員は、もっと長期に滞在せねばならない。これは治安維持上、大きなリスクである。
特に、この分野の巨人であるブラックウオーター社には、いくつかの違反が非難されている。この会社の名前は、現代の傭兵の問題の多い戦争事業と同義的に用いられている。エリック・プリンスが経営するこの会社は、9.11のテロ以来、戦争コンツェルンに成り上がった。ブッシュ政府は、何十億ドルも出してブラックウオーター社の戦闘力を借り出した。
しかし、貸し出された兵隊は、戦場で、いつも職業的な行動で目立ったわけではない。そういうわけで、2007年9月のバグダッドでの交戦では、数ダースの民間人が死んだ。多数のそれ以上に暗鬱な撃ちあいのために、ブラックウオーター社の傭兵は、批判に曝されたが、ブッシュ政府が彼らに治外法権を保証したために、これらの民間人の兵隊は、米国の軍事法廷やイラクの法廷によっても告訴されな得なかった。(以下略)
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「日本の陰の将軍、小沢一郎」と題する『フォーリン・ポリシー』の論説。

2009年09月02日 | 国際政治
(前略)
1990年代初め、小沢は、自民党の利益誘導型政治に失望した。彼は日本の安全保障政策を「正常化」すること、つまり、日本の国外での軍事的参加を弁護し始めた。何よりもまず、彼はこの国にはもっと活力のある民主主義が必要であり、政党が最善の政策を作ることによって投票を競い合うことが必要だと確信した。小沢は、彼の考えを共有する同士の一群を集めた。
小沢は内閣に入らなかったが、短命だった非自民党政府のキー・パーソンだった。彼は脆弱な連立政権を舞台裏から支えた。彼は『新しい日本の青写真』を公刊した。それは選挙法改正とより積極的な外交政策と防衛政策とを要求する高度に影響力のあるマニフェストだった。
「青写真」を実現するため、彼は90年代の間中、安定して強力な野党を作ろうと努力した。彼は「新進党」の創立を助けた。この党は、1997年に解散するまで、一度だけ普通選挙を競った。次に彼は「自由党」を支持した。それは自民党と連立したが、政治的な牽引力はなかった。
最後に、小沢の自由党は、2003年に未熟な民主党と合同した。彼はこの党を騙して中心に食い込み、さまざまなイデオロジーをもった党員の間で外交政策について合意を作り上げ、事務局に将来性のある候補者を募集した。長い間の自民党の支持者に訴えるために、党の農業政策を大きくした。2006年から今年春まで、彼が党代表を務めた三年間に、民主党は規律があり、よりはっきりした目標をもった政党になった。
この彗星のような政治的経歴のせいで、小沢は、問題の多い評判を得た。彼は右から左まで敵には不足してない。政治家や評論家の多くは、彼のマキャヴェリ風の振る舞いや秘密主義のせいで彼を嘲っている。彼は自分の決断の背後にある推論を説明することはめったにせず、信奉者たちが彼の指導を無条件に信じるものと思っている。悪名高いのは、2007年には、彼が多くの民主党の上位のメンバーに相談しないで、自民党と大連立をしようという話し合いをしたことである。
他の人たちは、小沢が政策よりも政治により神経を使う点を非難している。小沢は田中角栄の副官だった時代から変わっていないということである。つまり、彼は権力をどう使うかを考えるよりも、権力を奪取することにもっと興味があるということだ。彼の批判者たちの激しい憎しみと信奉者たちの同様に激しい忠誠とは、結びついている。小沢はインタービューをすることが少なく、舞台裏で仕事をしているから、彼には不可解さの雰囲気が付き纏っている。(後略)
[訳者のコメント]筆者は、トビアス・ハリスという人です。小沢一郎という政治家がどういうタイプの政治家かよくわかって書いていると思いました。
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