海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「日本の芸術的シュート、ベスト・エイト入りか」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2010年06月25日 | 日本文化
ハンブルク発:先入見を改めるのに遅すぎることはない。これまで、日本のサッカーチームは、ゴールの前では全く無力だと思われていた。だが、デンマークに対する3:1の得点によって、2002年度ワールドカップのホスト国だった日本は、ベスト・16に入っただけでなく、そのサッカーの歴史上最高の勝利を収めた。
「僕はとても嬉しい。僕らのチームは以前から見ると最高の日本チームだ。信じられない」と「ヴォルフスブルク」所属のキャプテン長谷部誠は言った。デンマーク人トレーナーのモルテン・オルセンは、「ゲーム全体は、この二つのフリー・キックで決定された」と落胆していた。
「ロイヤル・バフォーケン・スタジアム」の2万8千人の観客の前で、デンマーク・チームは、初めは、日本よりも上手くゲームを始め、主導権を握った。デンマーク・チームのゴール・キーパーであるトーマス・ソーレンセンは、ボールの軌道に身を投げ出し、より悪い結果を防いだ。二度目の攻撃は長谷部が放ったが、彼のシュートは、ゴールすれすれに逸れた。
日本のフォワード本田圭祐は、17分にフリーキックを行い、25メートルの距離からゴールを抜いた。
デンマーク・チームは、ショックを受けたと言うよりも猛然と憤慨して反応し、日本のゴールを真正面から攻めた。ともかくも、彼らは対カメルーン戦よりも防衛線を下げていた。だが、脚力に勝るアジア人達は、殆ど空き地を作らず、何度もデンマークチームを失敗させた。デンマーク・チームはミドルフィールドを抜くことが出来ず、まして敵陣の奥に入れなかった。
 これに対して、日本人達は、30分後、チームには凄腕のキッカーが一人だけいるのではないこと証明した。ペル・クレルドルップのファウルの後、南ア人の審判ジェローム・ダモンは、日本のフリーキックを決定。今度は、遠藤保仁がボールを22メートルの距離からゴールに放った。(後略)
[訳者の感想]この記事、発信地が「ハンブルク」となっているのを見ると、アフリカではなくて、ハンブルクの編集部でテレビ観戦をしていた記者が書いたように見えます。岡田ジャパン、万歳!!!
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「定年後の男性は、『粗大ゴミ』として家の前に出される」と題する『新チューリヒ新聞』の記事

2006年09月14日 | 日本文化
 彼女は自分の名前が新聞にでるのは好まない。けれども、この59才の女性を「山田マサコ」と呼ぶことにしたいのだが、彼女は自分の計画について率直に話をする。華奢な女性で、日本の地方都市金沢の近郊で、世話好きの女房と母親の役割を演じてきた彼女がそんな計画を持っているとは信じられない。つまり、十年以上前から、彼女は夫の給料からかなりの金額をつまみとっておいて、主人が定年になる数年先には十分な金額を集めて離婚し、物質的な心配や神経に障る亭主抜きで、快適な晩年をエンジョイしようと夢見ている。彼女が定年を待っているわけは、彼女の夫が雇用者から二年分の給料に当たる金額を退職金として支払われるからである。この金から彼女は当然自分の取り分を要求するのだ。
 山田さんは、定年後の亭主と一緒の生活を想像することができない、あるいは想像したくない唯一の日本女性ではけっしてない。どの年齢層よりも年金生活者のところでの離婚率が増大している。20年以上結婚していた夫婦の離婚件数は、1985年以来20年間で二倍になったとすると、少なくとも結婚歴30年以上の夫婦については、離婚件数は4倍になった。事実上、離婚を申し出るのは、常に妻である。この傾向が弱まるのは殆ど期待できない。人口の展開や法的改革は、むしろ、反対の事実を裏書きしている。そういうわけで、2007年と2009年の間に、1947年から1949年までの一番出生が多かった年に生まれた人たち、つまり「ベビー・ブーマー」が定年退職する。その上、離婚した妻に夫の年金の半分を保証する法律が、2007年に発効する。それによって、離婚による経済的リスクは、女性にとって遥かに少なくなる。
 いわゆる「熟年離婚」というテーマは、日本社会では大きな位置を占めた。テレビ・ドラマがかなりのドラマ性をもってこの現象を取り上げただけではない。書店でも、啓蒙書は沢山手には入る。日本の医学者は、定年退職した主人という重荷の下であえいでいる女性のためにこの病状を「定年主人症候群」略してRHSと命名した。RHSとは、ストレス病で、その症候は推定によれば、定年後の主人を持った女性の60%が罹っている。病気のもととなる定年退職者は、女性の言い回しでは「粗大ゴミ」と呼ばれている。その理由は、面倒見るのが難しく、「濡れ落ち葉」のように靴にくっつくからである。日本人の女性なら誰でもそれが何を意味しているか知っている。
 当然、退職によって、日本の結婚だけが挑戦を受けるわけではない。だが、日本では、文化的な理由からこの問題に特別の重さが付け加わる。そういうわけで、かなり多くの日本人にとっては、生活世界と労働世界とは一致している。会社の同僚とは労働時間を共有しているだけでなく、仕事後の飲み屋や週末のゴルフまで共有している。僅かな休暇も同僚と一緒に過ごす。その間、妻は女友達と旅行する。その結果、体験世界をほとんど共有しない夫婦の間の情緒的関係は冷えている。さらに、職業活動している間、趣味や会社外での喜びのための時間を見出さない退職男性が落ち込む穴は深い。かなり多くの定年退職者は、仕事をしている妻に話しかけたり、彼女が家の外で過ごした数分について弁明を求めたりして退屈をしのぐ。
 男性が新たに手に入れた時間で何か意味のあることをするのにかなりの努力をするのに対して、女性は殆ど退屈を知らない。彼女らの多くは、家事や子育ての重荷にもかかわらず、何十年もの間私的講座に参加し、他の人は合唱団に参加してきた。彼女らに共通しているのは、定年になっても断絶しないことが明らかな密接な関係を持っているということである。日本のように死亡年齢が非常に高い国では、60才の女性は、まだ26年の寿命を期待できるが故に、このことは一層値打ちがある。晩年の生活をどのようにするかという問題は、それだけ重要である。すると答えは常に離婚に有利になるとすれば、年金生活者の確かな財政状態にもとづいても離婚は有利である。貯金好きの日本では、いづれにせよ、他のどの年齢層も、同様の高い購買力を持っていない。かなり多くの家庭の主婦は、平和の時代にも秘密の「軍事金庫」を持っている。夫は、この「へそくり」と言われるお金については大抵は何も知らない。とりわけ、日本では家計のやりくりは、伝統的に主婦の領域に属しているから。
 「亭主、達者で留守がいい」ということわざは、日本の男性もよく知っている。けれども、彼らが定年後も自分の家でふんぞりかえり始め、突然、離婚してくれと言われると、年金生活者にとっては、青天の霹靂である。多くの夫は世の中が分からなくなる。特に彼らが何十年もの間、職業の義務を遂行することを愛情の証明だと見なしてきたのだから。その際、ショックは二重である。社会的な孤立に日常の事柄において不器用であることが加わる。日本の夫にとっては、家事は普通、未知の領域であるから、かなり多くの男性は、お茶を入れることや、まして、衣服を洗濯することさえできない。
 最近、年金生活の初心者のための教室が雨後の竹の子のように出て来たのは、驚くに足りない。人生の第三段階で、老人は、より多くの独立性のために訓練を受ける。例えば、料理教室、掃除教室、相手とのコミュニケーション教室などである。最後のものは、古典的な三語の命令形「風呂、飯、ビール」を乗り越えることを目標にしている。仕事年齢で既に離婚予防のために訓練を受けている「サラリーマン」は、時代の兆候を見抜いている。日刊紙『朝日新聞』は、最近、妻から「粗大ゴミ」として処理されるという運命を免れるための道を探す互助グループについて報道している。グループのメンバーは、大抵は50才台であるが、その際、「結婚上の悟り」のさまざまな段階を判定して貰う。妻と手を握っての散歩を卒業できた人々には、一から十までの等級のうち第五級が与えられ、妻に対して赤面せずに「お前が好きだ」と言える人々には、一番難しい第十級が与えられる。これまで入会した250人の会員でこの等級を与えられた人は、まだ一人もいない。自分の妻をもう一度征服することは、年金生活者の卵にとっては、ちょっと困難な仕事である。
[訳者の感想]「熟年離婚」が社会現象になりかかっている現代日本の社会を皮肉った文章ですが、余り的ははずれていないと思います。
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「エジプトには、相撲のファンがいる」と題する『アルジャジーラ』の記事。

2005年07月29日 | 日本文化
書き出し:サメル・サミル・アブデル・カリムは、自分は周囲から尊敬されたりしないが、相撲の世界の英雄達の等身大より大きな肖像画を見上げることは、彼に印象を与える。
両国国技館で、二人の体格の良いティーン・エイジャーが「第六回相撲世界選手権大会」で取り組んでいる。カリムの出番は終わった。彼は重量級で銅メダルを取ったところだ。
「僕は相撲は一年やっただけなので、今日の成績にとても喜んでいる」とカリムは言う。彼は18才で身長186センチ、体重は142キロある。
「相撲をやる前、僕は柔道を8年間やった。でも僕のコーチが一年前に相撲の世界ならお前は英雄になれると言ったんだ。それで相撲をやりだしたんだ」と彼は言う。彼が訓練していないときは、彼はエジプトのマンスーラ大学理学部の学生である。
1.競争
銅メダルまでの彼の道のりは、容易なものではなかった。145キロあるブルガリアの相撲選手や足技の速いハンガリア人と戦わなければならなかった。
「日本で競技をする機会を与えられたのは、本当にすばらしい。このことに対して、僕はコーチと家族に感謝している。相撲の本場にいることは、夢の実現だ」とカリムは言う。
エストニア、トンガ、ブラジル、香港、モーリシャスなどを含む18の国々から来た50人以上の相撲選手が7月初旬に選手権試合に参加した。
国技館では、相撲の試合が3場所行われる。現在、モンゴル出身の朝青龍が横綱であり、日本は彼に対抗できる日本人の相撲を見出そうと懸命である。
エジプト人のコーチ、アーメッド・モハメド・イブラヒム・カリファは、挑戦は自分の国から来ると信じている。
「チームのためにメダルを取ることはいいことだ。私が嬉しいわけは、これがわれわれがジュニア選手権で戦った二度目に過ぎないからだ。この少年達は一年間訓練しただけだ。その前には彼らは柔道をやるか他のレスリングをやっていた。」
彼が言うには、エジプトには、5千人の相撲選手がいて、30のクラブに分かれて、それが国の9つの地方に分かれている。
「このスポーツは、エジプトでは、ますます重要になり、われわれは未来の計画を持っている。われわれは相撲をやるアラブで唯一の国である。エジプトは、アフリカ大陸では最強のチームである」
国際相撲連盟の田中英俊氏は、競技者達が一生懸命にやっていると認めるが、彼らはまだ長い道を行かなければならないと言う。
「日本のジュニア・レベルと比べると、世界の他の選手はまだいろいろな道があるが、今日、ここで私は良い精神を見た。」更に彼はこのような国際トーナメントがこのスポーツの対面を高め、近い将来オリンピックの競技種目になると思うと付け加えた。
新米の香港も東京で戦っているが、ホン・パクト選手はわずか13才である。
「国技館は大きな建物で、僕は相撲の本家にいると感じる」とホン君は言う。
チームメイトのシュン・カミン(17)とヌグ・ツェシン(14)も国技館に強い印象を持った。
「競技場は、僕が期待したよりもずっと大きい。今年はメダルは取れなかったけれども、来年もまた競技をしたい。」
香港チームは賞を取らないで帰国したが、チームのマネージャーであるサムソン・マクは香港で相撲が始まった9年前以来本当に進歩したと言う。
「われわれは1991年にこのスポーツを始めたが、香港には男女子供をあわせると300人の相撲選手がいる。ジュニア選手権に出場したのは二度目だ」と「香港相撲協会」の会長であるマクは言う。
「彼らは家で一生懸命訓練をしているが相撲を学ぶ最善の道は、世界中から来た相撲選手と競争することであり、彼らの経験から学ぶことだ。」
「今日、彼らはとてもよくやった。将来、われわれがメダルを取るのに十分なだけうまくなると確信している。
次回のジュニア・トーナメントは、エソトニアで行われる。香港の選手ホンは、それまでに彼の技を向上させることを目指している。
「僕が土俵に上がるとき、僕は心の中で相手が豆腐のように柔らかいのだと考える」と彼は言う。
エジプトの相撲選手カリムは、エストニアでは出場しないだろう。なぜなら彼は大人の競技会に進むからである。彼が日本の古代のスポーツと取り組んでいるけれども、日本の食事に対しては好きになれなかった。
「日本はすばらしい国で、人々はとてもわれわれに対して親切だ。だけど、食べ物については自信がない。われわれはわれわれが食べられるものについてはいくらか問題があった。」
7月18日付けの『アルジャジーラ』に掲載されたジュリアン・ライアル記者の記事です。
7月始めに国技館でこのような相撲競技の世界選手権試合があったというのは私は知りませんでした。
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「輸出用の日本美術」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の文化欄。

2005年07月03日 | 日本文化
1854年から58年までの間、日本という島国が開国を強いられて以来、150年以上の年月が経過した。日本は、今や、世界中と密接な経済的関係を維持しているけれども日本文化に対する西欧の理解はまだ特に増えてはいない。その際、その理由として持ち出される日本の鎖国政策は、完全ではなかった。それは、17世紀の30年代に不安定をもたらす宣教師やその後に続いた冒険的な商人に対して向けられていた。
東インド会社の社員であった、オランダ人やドイツ人は、将軍に敬意を表すために、長崎から江戸まで旅行しなければならなかったが、彼らは彼らの観察を記録することができた。エンゲルベルト・ケンプフェルは、1690年に江戸へ旅した。彼の報告は、今日なお基本的に信頼できると思われている。当時、彼の報告は多くの人に読まれ、ヨーロッパの知識人の書架におかれていた。開国を強いられた後、19世紀の後半には、事情も変わった。二つの世界が、考え方や意図は違っていながら、そこで出会っているように見える。17世紀にはヨーロッパ人は、多かれ少なかれお願いする者として、日本にやってきたとすれば、彼らは今度は高圧的に要求する者として現れた。だから、日本は、自分のアイデンティティと独立を維持し、文化的伝統を守るためには、自分自身を表現するように強いられたのである。更に、日本は、時代の経済的要求を満足させるためには、自分自信を国際経済に組み込まなければならなかった。外国の専門家が日本に招かれ、輸出が促進された。その際、陶磁器がよく売れることが分かった。しかし、他方では、西洋の専門家の何人かが師匠を気取った。そして、日本人によってそういう者として尊敬された。例えば、日本の文化意識の救済者だと自負したアーネスト・フェノロサがそうであった。その際、彼は、自分に示されたものを先入見なしに眺める用意は余りなかった。彼は、自分の美的判断の正しさを理由づけるのに古典古代的西欧的尺度をあてがった。そういうわけで、日本人達は間もなく、自分たちの本来の伝統的な美術が西欧では余り理解されないこと、陶磁器の輸出でもって本当に目的を達成しようとするならば、異国情緒を求める西欧の要求に答えなければならないということに気づいた。
それ故、日本人の趣味よりも西欧の趣味に迎合する過度に装飾的な陶磁器が数多くヨーロッパに運ばれた。そしてそういうものにおいて、ヨーロッパ人は、日本美術そのものを認識すると思いこんだ。しかし、このプロセスは、簡単には見破られなかった。だが、最近、ギゼラ・ヤーンは、彼女の大きな研究『明治の陶磁器---日本の輸出用磁器と薩摩焼』によって、この複雑な事情を分析的に解きほぐそうと試みた。文書や同時代人の言葉や当時の大きな博覧会を手がかりにして、彼女は、この明治の陶磁器が必然的展開の結果ではなかったことを示した。日本人は、伝統を近代が必要としているものから区別することができた。日本の陶磁器の伝統を救うのに、大衆運動は必要ではなかった。
多くの人々は、彼らに与えられた二重の課題を意識していた。つまり、一方では、特に絵画において、自分自身の伝統を守りながら、他方では、自分の伝統をヨーロッパ人に理解できるようにするという二重の課題である。そういうわけで、ギゼラ・ヤーンは、ゴットフリート・ワーグナーと重要な陶器画家であった服部キョウホとの協力について述べている。ワーグナーは、下絵と釉薬の技術に関わるだけでなく、絹や紙に描かれた日本の古典的な絵画の好みを通じて装飾に影響を与えた。
日本の絵画に対するヨーロッパの理解を目覚めさせるために、いくつかの芸術家集団がこのテーマを引き受けた。同時に彼らはそれによって、陶磁器に表面的には容易に認識できる芸術的性格を与え、沢山の金を使った植物的装飾を施した。もっとも、このことによって、西欧では長いことこの様式を本当の日本の美学だと見なすことになった。このことは、本来の日本美術に対する眼差しを今日まで歪めているのだが、西欧は、世界博覧会での日本の展示によって、自分たちの考えが裏付けられたと考えた。この美術は、ヨーロッパのビロード張りの広間には似合っても、日本の環境には合わないように見える。同時に、この美術では、もっと沢山輸出したいために、西欧に適合させようとする日本人の意図が明らかになる。
[訳者の感想]ギゼラ・ヤーンさんというのは、若手の日本美術研究家だろうと思われます。確かに、ヨーロッパの骨董屋で見かける日本の陶磁器には、これが日本製かと疑われるようなものがあります。
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「東京の素晴らしい味」(シドニー・モーニング・ヘラルドの掲載記事)

2005年02月16日 | 日本文化
オーストラリアの新聞『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙2005年2月11日号の旅行欄に載せられた記事から。
現在、東京と呼ばれている江戸は、徳川家康が将軍になったことで、事実上日本の首都になった。江戸っ子達の胃袋を満足させたのは、「そば」と「寿司」と「ウナギの蒲焼き」と「天ぷら」だった。今日の東京の町を歩くと、この和食の四天王のルーツが分かるだろう。
江戸時代、庶民は、下町に住んでいた。江戸っ子の半分は、商人か労働者か職人だった。住まいは、ごみごみした町の中にあり、通りは徒歩で行き交う人々で混み合っていた。(江戸は、1750年には人口100万人で、当時のロンドンやパリをしのいでいたのだ。)
いわゆる江戸っ子達は、一生懸命働いたが、同時にレジャーを求める人たちだった。彼らは稼いだ金はその日の内に使ってしまう癖があり、朝晩は家で食事をするが、昼は外食をするのが常であった。驚くべきファースト・フード文化はここで生まれたのだ。酒屋で一杯引っかけた後で彼らは「そば」を流し込んだ。「天ぷら」は、串ざしされた。「寿司」は、堅く握られた後、一瞬で呑下された。焼かれたウナギは、酷暑の夏には、精をつけるために食べられた。
「うどん」は既に京都では人気があったが、「そば」は、1664年に江戸の屋台で売られたのが始まりとされている。
ウナギは、江戸で醜い魚から見事な魚に変身した。今日では、浅草と両国にウナギ専門店が集まっている。5月から11月にかけて、地方の川で捕られたウナギは、栄養価に冨み、暑い夏に元気がなくなった労働者に元気をつけさせた。
江戸前の蒲焼きは、背開きされ、たれをつけて焼かれる。前後に蒸される。ウナギの油は、分解され、柔らかい肉が残る。タレは、醤油とミリンを合わせたもので砂糖は加えない。山椒が付け合わされるが、それは、レモングラスのような匂いがする。「ウナギの蒲焼き」は、変わることなく単純で並はずれた料理だ。
もう一つの江戸の発明は、ファースト・フードの「握り寿司」である。発明者は、1824年頃、両国に住んでいた「花屋与兵衛」だと言われている。当時、江戸湾には魚が沢山いたし、白米は、一般的になりつつあった。「すぐできる」ということは、気の短い「江戸っ子」にとってはキーワードだった。実際、それ以前の1000年ほどの間、「寿司」は、できるまでに一番時間のかかる食べ物だった。「すし」は、もともと塩をたっぷり振りかけた魚をご飯の間に挟み込んで、6ヶ月から2年間寝かせたものを意味した。米がゆっくり発酵することによって、魚を長期間保存することができた。
「天ぷら」だけは、ポルトガル人によって練り粉をつけた魚として、長崎からやってきたのだが、それを大衆的料理にしたのは江戸である。江戸っ子は、江戸湾で採れた魚をごま油で揚げ、焼き串にさして、屋台で売った。江戸時代からの伝統を誇る店が、まだ三つか四つある。彼らの最善の献立は、江戸前の(東京湾で採れた)クルマエビとホタテ貝とニベ(whiting)である。
東京は、最近、開府400年祭を祝ったがこの都市を偉大にしたもののリストにはこの四種類の料理が含まれる。それは今や日本(を宣伝する)大使なのだ。
訳者注[この後に、東京の代表的な「そばや」さん、「うなぎ屋」さん、「寿司屋」さん、「天ぷら屋」さんの名前が、6軒、住所と電話つきで列挙されていますが、店の名前を日本語で誤記する可能性があるので、やめておきます。著者は寿司を「ファースト・フード」だと言っているが、日本人の感覚から言えば、そんな安物料理ではなくて、店によっては高級料理ではないでしょうか。原文に書いてあるwhitingというのは、何という魚か、ご存じの方は、「コメント」で教えて頂けると有り難いです。]


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