海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「アブ・ダビは、ドバイ危機を和らげようとしている」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2009年11月29日 | 国際経済
アブ・ダビ発:アラブ首長国のアブ・アブダビは、多額の負債を抱えている隣人のドバイに土曜日、援助を確約したが、包括的な救援を約束したわけではない。援助はケース・バイ・ケースに行われると、政府代表は、ロイター通信に述べた。「アブ・ダビは、会社を探し、援助が行われる会社を選ぶだろう。」アブ・ダビは、ドバイと同様、アラブ首長国連邦の一部である。
金融危機の際、ドバイ政府は、長い間、自分の問題を秘密にするように努力してきた。先週、水曜日に首長国政府は、「ドバイ・ワールド」社の債権者に債務の払い戻しを延期するように要請した。「ドバイ・ワールド」の負債は、590億ドル(5兆3,100億円)ある。これは、この首長国全体の負債の約4分の3に当たる。支払い延期は、世界経済全体に影響を及ぼしている。
ドバイの支払い延期は、ドイツの企業にも打撃を与えている。「ドイツ商工会議所」(DIHK)の支配人であるマルチン・ヴァンスレーベンは、『新オスナブリュック新聞』に対して、次のように述べた。「われわれは受注の際、このことに気づくだろう。多くの企業は、打撃を蒙っただろう。」ドバイの建設ブームは、ボーリング機械からショベルカーや計器や窓に到るまで建築をめぐる製品やサービスを供給するすべての企業にとって、多年、重要な市場であった。
DIHKの支配人であるヴァンスレーベンは、負債危機の心理的影響を恐れている。「現実の不安定な状況では、どの反応も危険である。この背景を前にして、ドバイは、大変なショックである。」景気に対する持続的な影響を彼は予想してない。しかし、「国営企業が600億ドルの債務を抱えて動揺し、他の不安のファクターと合併したとすると、相変わらず不安定な金融市場は、ひどい打撃を蒙った。」
ウオール街も、緊張してドバイに注目している。かってのブーム首長国の金融問題が悪化すれば、株式仲買人の推定では、金曜日の痛ましい損失は、一週間続くだろう。ドバイの二つの国営企業の支払い延期要請は、投資家達にとって、世界経済の回復が希望していたよりももっとぎくしゃくしたものとなるだろう。(後略)
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「湾岸諸国は、ドバイ・ショックの帰結を恐れている」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事・

2009年11月27日 | 国際経済
ドバイ/フランクフルト発:支払い延期のお願いに過ぎなかったが、その帰結は、破局的であるだけでなく、グローバルに感じられる。以前ブームを呼んでいた湾岸首長国ドバイの金融危機は、木曜日に世界中の株式相場を下落させた。ドイツの株価指数DAXは、ロンドンのFTSE100や、フランスのCAC40と同様、約3%下落した。アジアの株式市場もはっきりと弱含みである。上海の指数は、過去三ヶ月以来、一日では最大の下落幅を示した。アジアにおけるイスラム系金融商品は、平均15%も下落した。
DAXは、ヒケまでに、3.25ポイント下落して、5,614ポイントとなり、それでもって、数週間以来最大の下落を蒙った。どの指標も一ポイントも上昇しなかった。特にカタール首長国がそのかなりの部分を所有しているフォルクスワーゲン株は、6.2%下がり、ドバイ首長国が参加しているダイムラー社の株は、4.6%下落した。この日の最大の負け組は、ドイツ銀行の株で、6.4%下落した。このドイツ最大の金融機関は、明らかに湾岸地域に多額の投資をしている。米国の株式市場は、「感謝祭」の休日で、閉まったままで、景気データは、予定表に載っていおらず、取引は落ち着いていた。もっとも、原油価格は明らかに後退した。
「ドバイからのニュースは、今朝、晴天の霹靂のように、やってきた」とフランクフルトのシュニッゲ債券取引銀行のディーラーであるノルベルト・エンプティングは言った。「それは、われわれが乗り越えたと思っていた金融危機を再び思い出させた。」それに対応して、不信に陥った市場の気分は悪いと彼は言う。
エンプティングは、ニュースの射程を過小評価しないように警告している。「ドバイは、これまでは、最初の名宛人だと思われてきた。今度は、ダイムラーのような企業が仲間に入っている。」国際的なアナリスト達は、展開の規模に似たような評価をしている。「ドバイの債務不履行とそこから生じる不安とは強力なドミノ効果を引き起こした」とロンドン在住のBCGパートナーのデイビッド・ビュイックは言う。
ドバイは、一年前には、湾岸諸国の中では金融危機によってもっともひどく揺さぶられた。そうこうするうち、数十件の建築計画は中止され、外国人労働者は、群れをなして、この國を立ち去った。国有のドバイ・ワールドと有名な人工島「パルム・ジュメイラ」を建設中の不動産の兄弟会社ナクヒールとは、特に被害を被った。
水曜日には、600億ドルの債務を抱えた国営ファンド「ドバイ・ワールド」は、その債権者達に少なくとも六ヶ月間の支払い猶予を要請し、それによって国際的金融市場にショックを与えた。首長国政府は、支払い延期の要請をファンドの再組織が必要なためだと理由づけた。
首長国は、推定800億ドル(7兆400億円)の負債を抱えている。専門家の意見ではビジネスに対する投資家の熱狂が砂漠の国家に帰ってくるまで、数十年かかる。なぜならば、これまで、投資家とアナリスト達は、ドバイがその大量の負債を期限以内に皆済するということを前提していたからだ。(以下省略)
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「トルコ人移民は犠牲者の立場に逃げ込んでいる」と題するネクラ・ケレクの論説

2009年11月25日 | イスラム問題
 あなた方がご存じのように、私はトルコに生まれ、1967年に10才でドイツへ来、ドイツ国籍を取得した。この経歴を私は何千人もの移民と共有しているが、私は次のような問いを自分自身に問わねばならない。私は私がドイツに来る前の1933年から1945年までにドイツで起こったことに対して責任があるだろうかと。何十年も前にトルコで起こり今日起こっていることが私に関わりがあるだろうか。
 私のトルコ系同胞の多くは、特に若い人たちは、今日、自分で選んだ歴史を持たない状況、無責任状態のなかで生活している。彼らはトルコの歴史や現状を知らずそれに影響を与えることができない。彼らは遠い故郷を悪く言われたくなく、歴史の暗い過程に光を当てようとすると、一種の集団的反射で抗議する。
 ドイツの歴史とも、彼らは無関係だ。ドイツの旅券を持たない人は、選挙することができず、責任を引き受けることができない。彼らは他人が彼らのためにやる政治の犠牲である。そう言うわけで、次のような広まった態度をとることになる。つまり、責任があるのはいつも他人であり、疑わしい場合は、ドイツ人である。
 移民は、他人に依存して生きている被後見人である。実際、犠牲者の役割は、トルコの政治によって当に祝われている。こういう風に歴史的健忘症のなかで生きるということは、悪い状態である。多くの移民もトルコ社会も幼児的な社会に生きている。それは自分自身に歴史的社会的責任を課さず、歴史を持たない世代になるのだ。
われわれドイツに生活する市民にとっては、しかし、この態度から解放される可能性がある。文句を言うことを止め、参加し関与し、この國の国民になるのだ。統合は、社会への参加であり、それは、移民に対しても反対給付を要求する過程である。自由は学ばねばならず、責任も担われなければならない。
 20年前、私はこの問題で、鍵となる体験をした。私は学生として、11月9日に、ハンブルクのユダヤ教会の祈念式式典に行った。そこでは、ラルフ・ジョルダーノが話をし、彼の家族や隣人達の収容所への輸送を描写した。私の中で奇妙なことが起こった。この物語は、ドイツ人の犯罪についてトルコ人としての私を怒らせることはなく、人間としての私を打った。私は人間として、他人にそう言うことを加える人間を恥ずかしく思ったのだ。
 ずっと後になって初めて、連邦共和国は責任問題を引き受けることを学んだ。1967年に激しい反応を引き起こしたある本が出版された。それは、戦後社会がそのときまで持っていた「意識の検閲」に基づく自己確信がどれほど脆いかを示した。それは、アレクサンダー・ミッチャーリヒとマルガレーテ・ミッチャーリヒの共著『悲しむことができないこと』という書物である。
 これは戦争世代が第三帝国でなされた罪に対して責任を取ることを拒否していることについて論じた本で、それは、二人の著者にとっては、独裁者アドルフ・ヒトラーに対する権威的な固着から自分を解き放し、追悼の仕事をなし得るためには、必要な前提であった。
 連邦共和国の歴史においては、この「想起の仕事」は、今日まで、繰り返し、日常茶飯事である。議論は大抵は非常に対立して行われるが、それは集団的な理解によって、一種の成熟過程を可能にし、それと共に、この共和国の民主的市民的性格を固定するのに役だった。(中略)
 1933年にトルコ共和国は、トルコに新しい大学を創設をするために、30人のドイツ人学者を、後には200人のドイツ人学者を招待した。彼らは多くは「外国におけるドイツ人学者の緊急共同体」に所属する人種的な被迫害者であった。その中には建築家のブルーノ・タウトや、組み込みキチンの発明者のマルガレーテ・シュッテ=リホツキーや作曲家のパウル・ヒンデミットやエルンスト・ロイターと彼らの家族、総勢1千人が含まれていた。
 1938年にケマル・アタチュルクが死ぬと、大抵の契約は延長されず、多くの移住民は、抑留民収容所に入れられた。「中立トルコ」は、ドイツ政府の圧力に基づいて、避難民に「アーリア人証明」を要求し、トルコ経由によるユダヤ人の逃げ道を閉ざそうとした。トルコ在住のユダヤ人とも上手くは行かなかった。ユダヤ人組織の陳述によると、戦争開始以前、2万人のトルコ系ユダヤ人がヨーロッパに住み着いていた。これは、トルコ政府が記録した8万2千人のトルコ系ユダヤ人と比べると大きな数である。彼らはベルリンにトルコ系ユダヤ人のためのユダヤ教会を持っていた。(後略)
[訳者の感想]『ヴェルト・オンライン』に掲載された論説です。中途半端な訳になりました。「トルコ系ユダヤ人」と言うのは、「トルコ国籍をもったユダヤ人」を意味しているのか、それとも「人種的にトルコ人であってユダヤ教を信じている人」であるのか私にはよく分かりません。どうも後者を意味しているように思います。統計によると、トルコには少数のユダヤ教徒が住んでいるようですが、これも「人種的にはトルコ人であって、ユダヤ教を信じている人」のように思われます。
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「昏睡患者は、23年間、意識があった」と題する『シュピーゲル』誌の記事。

2009年11月22日 | 健康
ハンブルク発:「あなたは、どのように過去20年あまりを過ごしてきたのか」と聞かれると、ロム・ホウベンは、「私はずっと夢を見て過ごしたのだ」と言う。『シュピーゲル』誌の情報によると、この46才の男は、23年間、間違って昏睡患者だと見なされてきた。しかし、彼は殆ど完全に意識があったのだ。
 ベルギーのゾルダーの医師と看護師たちは、この患者に希望のない事例だというレッテルを張った。この格闘技の選手で技術系の学生だったベルギー人は、1983年に重大な自動車事故の後で、意識のある昏睡状態に陥った。
 リュティッヒ大学の新しい診察によって、初めて、ホウベンが実際はこの23年の間、ただ麻痺していただけだということが明らかになった。断層写真の撮影は、彼の大脳が殆ど完全に機能できる状態であることを明らかにした。
 その間、この患者は、特殊なキーボードのついたコンピューターの助けを借りて、自分の言いたいことを伝えることができる。事故の後、目が覚めると、自分の体がもはや言うことを聞かなくなっていたと彼は報告している。「私は叫んだが、声にならなかった。」看護師や医師がどのように自分に語りかけているか、そして結局彼らが一切の希望を放棄してしまったかが分かった。
 そう言うわけで、思考の中で、過去やもっと良かった時代に逃避する可能性しか彼には残されていなかった。「彼らが僕を発見した日を僕は決して忘れない。それは僕の二度目の誕生だった」とホウベンは書いている。
 ホウベンの新しい診断を指導した神経科医のスチーブン・ローリースは、この夏、ある研究報告書を公表したが、それによると、覚醒昏睡患者は、しばしば、間違った診断をされている。僅かに植物状態と決めつけられた症例のうちの40%において、注意深く検査を行うとまだ、意識の残りが証明可能である。これらの患者は、話しかけることが可能である。治療がよければ、明らかな進歩が得られる。原因は、診断のいい加減さではない。すべての異議のある症例において、診断した医師は、自分の診断の正しさを確信している。
 しかし、この神経科の医師は、長年の間違った治療をどうして解明したのか。どうして、医師や看護師たちは、このような状況に間違った診断を下し得たのか。ローリースは、システムに一つの間違いがあると信じている。「一度『意識がない』と刻印を押されると、その診断を覆すのは非常に困難です。」
 ドイツでは、毎年、10万人が重度の頭蓋損傷と脳損傷に罹っている。2万人近くが、その後、三週間以上昏睡状態にある。彼らのうちのかなり多くの人は死亡し、他の人たちは、健康になる。だが、推定3千人から5千人の人間は、中間状態に捉えられたままである。彼らは二度と意識を取り戻すことなく、生き続ける。
[訳者の感想]言葉で反応できなくても意識が働いていることは、脳のMRIか何かで分かると思っていました。一度、下した診断を撤回するのは、医師にとっては、難しいようです。
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「オバマの中国訪問」と題する『フィナンシャル・タイムズ・ドイツ語版』の記事

2009年11月18日 | 国際政治
バラク・オバマ大統領が4月にロンドンのG20で初めて他の世界の指導者たちと出会ったとき、化学については沢山議論された。殆ど同年齢のメドヴェージェフ・ロシア大統領との出会いが行われた和やかな雰囲気や、いささか取り澄まして、愛想のないメルケル連邦首相がアメリカに与えた謎についてもいろいろ論じられた。只一人の男だけが肯定的にせよ、否定的にせよ、感情の入り込む余地を与えなかった。中国の胡錦涛主席は、同じ表情で握手を繰り返し、どの写真でも同じ姿勢を取っていた。彼に対しては個人的な関係を築くことは困難だ。彼の国民もそう考えている。だが、彼と一緒に仕事をすることはできるし、しなければならない。このことを、オバマ政府の多くの人たちは確信している。
なぜならば、中国と米国とは、世界の運命が頼っている二本の柱だからだ。そのことは、グローバルな金融危機と経済危機とが明らかにした。イランと北朝鮮という危機の火種もこのことを明らかにした。米国政府にとっては、今こそ中国政府と実務的なテーマについて対話を始める時である。ジョージ・W・ブッシュ政府のポールソン財務長官が生命を吹き込んだ経済対話から、最高レベルにおける戦略や経済についての対話が生まれた。
互いに猜疑の目で見ている両国の軍人も、その間に、対話の回路を築いた。
実務的なレベルは、確かに技術官僚である胡錦涛の心に届く最善の通路である。世界観上の議論や政治体制の問題は、イデオロギーに関して自信を失った中国指導部にとっては、恐怖の対象である。中国が持っている実務的レベルでの協力をする用意を西側はしばしば、過小評価してきた。中国の権力者達は、自分たちの経済的成功によって自分たちを正当化しており、それゆえ、具体的な技術上の問題に取り込むことには、もっと関心を持っている。
このことを、他ならぬ、カリスマ的なオバマ大統領は、認識した。ここで攻勢に出ているのは、第一級の法律家であるオバマであって、その複雑なテーマへの細部にこだわった近づき方は、治水工学技術者である胡錦涛にとっては、それほど異質のものではない。オバマ政府は、中国政策を脱構築し、細部に分けた。それは、テーマを個別的に細分し、異なる路線に置いた。その際、違いは列車が交差せず、まして、衝突しないようにすることだ。(後略)
[訳者の感想]この論説の執筆者は、ザビーネ・ムスカットという女性です。米国政府がどうやって、中国と良い外交関係を築くのに苦心しているかを書いていると思います。
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「文相会議議長、大学のやり方を批判」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2009年11月15日 | 大学問題
ベルリン発:大規模な学生の抗議運動は、政治や学術諮問委員会で部分的に賛成を得た。文相会議議長の役を演じているメクレンブルク・フォアポンメルン州の文部大臣ヘンリー・テッシュは、抗議運動に関して、『日曜版ビルト・ツァイツング』のための寄稿論文で「今度は諸大学が、学生たちの要求に耳を傾ける義務がある」と書いている。
諸大学は、「ドイツの歴史において一度も享受されたことのない自由を手に入れている。」それらは納税者の手段で「独立した企業のように、」振舞った。
この「キリスト教同盟」(CDU)所属の政治家は、教師たちにより高い柔軟性を要求した。「しかし、教授たちも自分を犠牲にせねばならない。学士過程や修士課程に学業の可能性を保証するために、彼らのうちの多数は、自分の特殊な教授研究の関心を講義の中に持ち込むことを止めなければならない。」文相会議議長は、デモをしている学生に対して理解を示し、彼らの要求は正しいと述べた。
学術諮問会議の議長であるペーター・シュトローシュナイダーは、学士課程導入の際の「手仕事的誤り」を認めた。週刊誌『フォークス』に対して、彼は「異なる学科を一律に扱った」と述べた。「若干の精神科学は、もっと多くの構造を担いうるのに、技術関係の学科はむしろもっと自由が必要だ。」学士課程の改革は、それ以外に、あまりに一面的に研究時間の短縮に向けられたと彼は言う。
連邦文部大臣のアネッテ・シャヴァン(CDU)は、この雑誌の中で、自分は、数日中に各州の科学大臣と話をするだろうと述べた。「学生たちは、授業を改善するために、われわれが企てていることを知る権利があリます」と彼女は言った。
社会民主党は、はっきり学生たちを支持している。ドレスデンで開かれている社会民主党の党大会は、土曜日に、学費に対する抗議とよりよい学習条件のための参加を歓迎した。「同盟が授業料を導入したところでは、それは再び廃止されなければならない」と可決された決議の中で述べられている。「われわれに必要なのは、教育におけるもっと多くの機会の平等である。経済的なハードルは、なくされねばならない。社民党は、幼稚園から大学の修士課程までの無料の教育に賛成している。」
さらにそこでは、「新しい学士課程と修士課程を導入する際の間違った展開は、修正されなければなるまい」と言われている。「われわれはもっと多くの選択の自由と余計なものを取り去った研究秩序と改善された実務定位を望んでいる。」
学生たちは、目下、さまざまな大学で、彼らの意見によれば悪化した研究条件に注意を向けるために、講義室を占拠し玉まである。11月17日には、連邦全域で行動集会が開かれる予定だ。
[訳者のコメント]ドイツの大学は以前は学士過程や修士課程の区別がなく、博士課程が本来の目標とされていたようです。ここ2、30年ぐらいの間に他の國と同様、学士課程や修士課程を導入したのですが、それにあったような教授体制が十分できていないようです。それが学生の不満を引き起こしたのではないでしょうか。
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「地震の後」と題する『ツァイト・オンライン』の記事

2009年11月14日 | 日本の政治と経済
「日本の政治は中国と同じだった」と昼食の際、老齢の企業の会長は笑った。彼のやせた顔には沢山の喜ばしいしわが刻まれている。「だっていつも同一の政党なんだ。」彼自身には常にうまくいっていた。日本だけでなく、世界中のすし屋では、彼の会社が作った醤油が机の上に置かれている。自分の名前が新聞に出るのを好まないこの男は、自由民主党の54年間の支配の間、富裕に強大になった。そして彼とともに、国中が豊かになった。アジアの事情から見ると、それどころか童話的に豊かになったのだ。
だが、いつの頃からか、日本人は自民党にうんざりし始めた。この日本株式会社の年取って歯の抜けた政党に。銀座のバーでの猟官運動、政治的寄付スキャンダル、無意味な巨大プロジェクトを巡る大企業との取引、これらすべてが日本人に毎年、反感を呼び起こした。
二ヶ月ほど前、憤懣がついに爆発した。8月30日の衆議院議員選挙の際、民主党は、480議席のうち、308議席を獲得した。それ以来、日本の政治はそれ以前とはまったく異なる。
2001年にも、一度、自民党について同じことが起こりえた。だが、この党は、チャーミングな改革好きの候補者を競争に出した。小泉純一郎は、選挙に勝ち、自民党に最後の執行猶予を与えた。「いまや自民党は全く堕落している」と国際交流センターの山本タダシは言う。小泉の後継者たちは、この党に止めを刺した。三年間に三人の無力な顔の無い首相が入れ替わったが、彼らの名前はほとんど記憶に無い。自民党が退場する時間だった。
日本ほど、しばしば、地震が揺れるところは、世界中どこにもない。しかし、政治的には、自民党が創設された1955年以来、何も動かなかった。1993年から94年にかけて、野党が短期的に権力を握ったけれども。与党が統治し、野党は無意味になった。その次期は終わった。日本の政治は緊張したものになった。
新しい鳩山首相は、興奮のあまり、政権奪取を1868年の「明治維新」に喩えた。それ日本が近代世界に突入したことを記し付けたのだ。主権はいまや国民に返還されたのだ。しかし、それが起こるためには、まず第一に、官僚政治が克服されなければならない。
日本の物言わぬ官僚軍は、新時代の最初の犠牲である。自民党や産業界と共同で、彼らは悪名高い「鉄の三角地帯」を形成してきた。この権力カルテルを、民主党を打ち破ろうとしている。そうしてのみ、汚職と浪費は克服できると民主党は信じている。
 「天下り」制度は、その一部である。高級官僚は、50才半ばで、国家の奉仕を辞め、私企業のなかの給与のいいポストに鞍替えするのだ。今後、それは禁止されるだろう。
民主党の考えでは、官僚は、政党に従うべきである。これまでは、むしろ逆だった。省庁の役人は、大臣に言うべきことを教え込み、大臣は、それを議会で棒読みにした。政策の方針を与えるために、現在、大臣と政務次官とは深夜まで、書類に首を突っ込んでいる。
 最近、沖縄の米軍基地の将来について交渉するために、ロバート・ゲイツ国防長官が東京にきた際、岡田克也外務大臣は役人を一人も同席させなかった。ワシントン駐在の日本大使でさえ、話し合いに同席することを許されなかった。
 「混乱」が日本の外交を支配していると東京中で言われた。ワシントンとの関係は妨げられていると言われた。日本には、4万7千人の米兵が駐屯している。その半数は沖縄にいる。数十年間、米国は防衛力だと考えられた。その核の傘の下で、自分の福祉は増大された。
 鳩山政府は、いまや、米国と対等に話をしようとしている。自民党が骨折って交渉した基地協定を、民主党ははじめて執行停止しようとしている。民主党はまた、インド洋での給油でアフガン戦争をこれ以上支持するつもりはない。
 民主党によれば、ワシントンが日本に対して連帯行動を要求すると、この国がそれに従う時代は過ぎたのだ。今週、東京を訪れるバラク・オバマは、自分の領域にもっと強力に目を向けようとしている政府に出くわすだろう。中国が軍事的な脅威でありつづけるとしても。特に、中国は、門前の巨大市場である。二つの隣国の間の貿易は、とっくに日米間の貿易よりも大きくなった。
 鳩山由紀夫は、欧州同盟を模範として、「東アジア共同体」を夢見ている。米国の参加はそこでは、予想されていない。
 ワシントンはいらだっている。まるで、他の心配はないかのように、よりによって、日本の古い誠実な同盟国が愚痴をこぼし始めた。
 ひょっとしたら、新しい政府とともに、既に20年前にアメリカによってもはや後見されない「普通の日本」を宣言したある男が政権に着いたためである。目下、日本では第二番目がいない一人の権力政治家小沢一郎は、彼が1993年に自民党から抜け出したとき、その前に既に自民党で幹事長にまで上り詰めていた。彼の育ての親は、田中角栄であり、彼は戦後に政府のトップになった最大の悪漢であり、非常に抜け目の無い黒幕だった。現在、小沢は、民主党の党首である。
小沢と鳩山とは、奇妙なコンビをなしている。鳩山は、タイヤ・コンツェルンの「ブリジストン」の遺産相続人の一人として、ものすごい富の中に生まれて、理想主義者である。正義についての彼の考えは、フランス革命の約束だった「友愛」に基づいている。小沢はそれを密かにあざ笑っているかもしれない。(以下略)
[訳者の感想]ツァイトの東京特派員であるマチアス・ナスが書いた記事です。ところどころ勘違いがあるように見えますが、一応正確な報道と言えるのではないでしょうか。
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「リンゼイ・ホーカー殺害事件の容疑者、日本で逮捕される」と題する『ガーディアン』紙の記事。

2009年11月11日 | 犯罪
日本の警察は、リンゼイ・ホーカーを殺害したと思われる容疑者・市橋達也を尋問中だと言っている。このイギリス人教師の殴打された遺体は、2007年3月に東京に近いアパートメントで発見された。
テレビ報道によると、市橋達也は、彼が広範な整形手術を受けて人相を変えようとしたことが明らかになった数日後、西日本にある大阪で逮捕された。
展開は、ホーカーの遺体が東京の東の千葉県の市川市にある市橋容疑者のアパートで発見されてから、二年半経って、やってきた。
コヴェントリ近郊のブランドン出身である22才の英国人教師の遺体は、ひどく殴打され、首を絞められ、腕と足とはプラスチック製の紐で縛られていた。
彼女の父親であるビル・ホーカーは、容疑者の逮捕を「ホーカー家の者にとっては良い日だ」と歓迎した。彼は「自分は日本に行って市橋をこの目で見たい。私たちは正義を望んでおり、私たちはようやく正義を得た」と述べた。
「市橋は、過去二年半の間、なんらの後悔も示さなかった」と彼は付け加えた。「これは長い戦いだったが、それは終わった。私たちは一つの家族として疲れることなく働いたし、私たちは、決して諦めなかった」とホーカーは述べた。「日本の社会が、彼に可能な限り最大の刑罰を与えて欲しいと私は望んでいる。」
これに先立つ報道によると、警察は、市橋がフェリーで沖縄に渡航しようとしていたのを食い止めたとのことだ。
市橋の母親は昨日午前中にテレビの番組で彼に諦めるように懇願した。これは彼が行くへを眩ませて以来、最初の彼の両親の公的なコメントであった。両親はどちらも裕福な医者である。
フジ・テレビで流されたメッセージの中で、「達也!お母さんよ」と母親は言った。「お父さんとお母さんは、自分たちの感情を話す決心をしたわ。お前はこれを好まないでしょうけれど。」
彼女は、「お前が仕事熱心で、両親に孝行しようと望んでいたという、彼の建設会社の同僚達のコメントを聞いて、私と父さんとは嬉しかった」と述べた。「もし、そうなら、どうか警察署へ行って、警察に本当のことを言いなさい。」
日本のメディアは、今日、市橋が先月まで1年以上大阪に住み、ある建設会社で日雇いの労働者として働いていたと報道している。彼は整形手術の費用を払うのに十分なお金を約百万円貯めたと考えられている。
市橋の指紋は、漫画本や英語の辞書、パスポート申請書とともに、会社に属する宿舎で見つかった。警察は彼が海外に逃亡しようとしていたと考えている。
リンゼイ・ホーカーの跡を付けて、彼女の家まで後を追った市橋は、尋問されそうになって、9人の警官をはぐらかし、裸足で金を持たないで逃走して以来、捕まらないままだった。
彼女が死ぬ数時間前、近くの喫茶店で、ホーカーが市橋に私的な語学授業をしているのを防犯カメラが捉えていた。一説では、彼は授業料を払うのに十分な金がないと言って、彼女を自分の部屋に連れ込んだとのことである。それ以後の手がかりは、8千件の目撃情報にもかかわらず、犯人に結びつかなかった。6月に警察は、逮捕に結びつく情報に対する懸賞金を100万円から1千万円へと引き上げた。
ホーカーは、2006年にリーズ大学を卒業してから、ノヴァの英会話学校の支店で英語を教えていた。
[訳者の感想]英国の新聞が「リンゼイ・ホーカー殺害事件の容疑者逮捕」についてどのような報道をしているか知りたくて翻訳してみました。極めて客観的な書き方だと私は思います。
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「ある調査が世界中に資本主義に対する不満が広がっていることを暴露」と題する『シュピーゲル』誌の記事。

2009年11月09日 | 国際政治
ロンドン発:壁崩壊と共産主義支配の終わりから20年経って、世界中で、資本主義的経済体制に対して大きな不満が見られる。今週、月曜日に公表されたBBCの委託による調査報告によると、27ヶ国の回答者の11%だけが、現在の形での資本主義が上手く機能しているという意見である。米国人の25%とパキスタン人の21%だけが、現在の経済秩序に満足している。1930年代以来の最悪の金融危機・経済危機という印象の下で、回答者の51%は、市場はもっと強力に規制されねばならないと思っている。平均して、23%は、全く新しい経済秩序が作られねばならないと思っている。
「ベルリンの壁の崩壊は、その当時考えられていたのとは違って、自由市場経済にとっての圧倒的な勝利ではなかった」とメリーランド州立大学と協力して、2万9千名の人間に質問した「グローブ・スキャン世論研究所」の所長ダグ・ミラーは、述べた。「社会主義の持っている幾つかの要素、たとえば、政府による福祉の平等な配分は、世界中の多くの人たちに引き続き、魅力的である」とメリーランド大学のスチーブン・カルは言った。
調査が行われた27ヶ国のうち15ヶ国では、多数派が、企業に対する国家のより強力なコントロールに賛成した。22ヶ国の多数派は、政府が福祉を均等にすべきだと考えている。すべての國で回答者の54%は、ソヴィエト連邦の崩壊に賛成した。これに対して、平均22%の人たちは、共産主義的超大国の没落を悪いことだと考え、24%は無回答であった。
メルケル首相は、壁崩壊20周年に際して、ドイツ東部と西部の生活状況を均等にするよう更に努力するように呼びかけた。「ドイツ統一は、まだ完成していない」とメルケルは、公共ラジオ放送局(ARD)の「モルゲン・マガジン」で述べた。なすべきことはまだあり、そのためには連帯ための加算税も引き続き必要であると首相は述べた。
当時の連邦首相であったヘルムート・コールによる新しい諸州における「繁栄する地方」の約束は、実現されたかという問いに対して、メルケルは、「そうです、私たちには沢山の「繁栄する地方」があります」と答えた。ビッターフェルトのような特に被害の大きい地域では、工業による汚染は、減った。当時の平均寿命の差は、「今日、殆ど緩和された。」にもかかわらず、均衡のとれた生活事情の創出においては、まだいくらかなされなければならない。そういうわけで、新しい諸州における失業率は、まだ、ドイツ西部の倍ぐらい高い。均等にするには、東と西の間の「構造的格差」に重点を置かなければならない。メルケルは、1989年11月9日に壁が通行自由になった時点では、サウナに入っていたと述べた。彼女がその出来事について聞いたとき、ボルンハイマー街にある国境へ出かけた。「人々は無言で幸せでした」とメルケルは述べた。(以下省略)
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「バーレーン王国にとってのストレステスト」と題する『シュピーゲル・オンライン』の記事。

2009年11月08日 | 福祉と経済
バーレーンをペルシャ湾岸の原油産出国のなかで特別の國にしている多くのファクターがある。早い時期に油田が発見された。1932年に、40キロメーター×20キロメーターの面積の島は、最初の原油輸出国となった。石油の生み出すドルは、200年前から支配している王家を金持ちにした。それまで、商業と真珠採取で生計を立てていた国家は、教育に投資した。隣国にバーレーンのノウハウを輸出するために、教師や専門的労働者は、数十年間、祖国を後にした。
けれども、1970年代に原油価格が上昇すると、バーレーンの支配者も金の誘惑の犠牲となった。「石油は恩恵であると同時に、呪いだった」とバーレーンの首長であるモハメッド・ビン・エッサ・カリファは言う。石油で稼いだドルで福祉国家は賄われた。
金はバーレーンが一度も成し遂げたことのない快適さへと導いた。その隣人と比べると、それは殆ど無一文だった。隣にあるサウディ・アラビアは、日量1千万トンの石油をくみ上げていたが、バーレーンでは、日量僅か、3万トンに過ぎなかった。25年間で埋蔵量の大部分が汲みだされた。
上層階級は、数十年間、豊かさを享受したが、国民は最低限の生活をしていた。1990年代後半まで、この状態に対する抗議は、小さく押さえられた。次に新しい国王が即位した。彼と共に、用心深い改革が行われたが、十分ではなかった。今日でも、規則的に、スンニー派支配層に対するシーア派住民の反抗が起こっている。
貧しいシーア派と金持ちのスンニー派。人口70万人のバーレーン社会には、憤激がプログラムされている。サルマン・ビン・ハマス・アル・カリフ王子は、それゆえ、1年前に、「2030年構想」を公表した。「バーレーンの経済的発展のための協会」によってそれを実行に移すことが意図されているこの計画は野心的だ。石油の富から世界的に競争能力のある業績社会へ」、「地域のパイオニアからグローバルな競争者へ」が、モットーである。私的経済が駆動力となるはずである。2030年には、この島国の家計の収入を二倍にするという目標に到達するはずである。
他の湾岸諸国のように、バーレーンは、高価な原油価格を利用して、仕事を創出し国民を国家のお布施に対する依存から解き放とうとしている。公式の失業率は、目下、3.8%であるが、専門家は、本当の数字はもっと大ききいと考えている。五カ年計画は、土着の住民の18万5千人に職を与え、外国人労働者をドラスチックに減らすはずである。大学卒業資格をもった3万5千人の土着の人たちを養成して、これまで外国人が占めていた職を彼らに与えようとしている。私的企業の中に仕事を見つけるために、更に15万人の高校卒業資格を持った土着の人たちを養成する予定だ。
特に金融産業は、バーレーンでは、将来有望であると考えられている。すでに現在、この島国は、この分野に属する400以上のサービス企業がここに拠点を置いている。銀行は、国民総生産の4分の1を占めている。
バーレーンが金融危機を上手く通り抜けたのは、イスラム的バンキングのせいである。つまり、イスラム法に基づく金融ビジネスのせいである。(後略)
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「スターリンはこの人間的な輝きを抑圧するのに失敗した」と題する『シドニー・モーニング・ポスト』の記事

2009年11月03日 | 人物
スターリン時代のソヴィエトの作曲家プロコフィエフとショスタコヴィッチの芸術的行為について近年ある激しい議論が荒れ狂った。
一方の側は、彼らはお祝いの作品を書くように強いられたが、彼らはそれらの作品に二重のメッセージを付け加えたので、ソヴィエト連邦の成果は、深く皮肉な発言として聴かれるべきだ主張する。ショスタコヴィッチの第五交響曲に付けられたフィナーレがその例だ。
音楽学者リチャード・タラスキンに率いられた他の側は、彼らが作曲したこれらの作品は、その理想に従って生きる芸術の失敗を代表していると主張する。
「シドニー交響楽団」を指揮するウラジーミル・アシュケナージの「プロコフィエフ・フェティバル」は、これらの論証をテストする機会を与える。
皮肉は、プロコフィエフのスタイルの自然な部分であって、それは彼の作品にその表現的な鋭さを与えたものとなっている。けれども、全体として見ると、最初のプログラムで演奏されたどちらの交響曲も、--第一次世界大戦中に書かれた「交響曲第一番」と第二次大戦が勝利に向かって転換しつつあったときにお祝いに書かれた「第五交響曲」--表面の価値とは何か違ったものと見なされるべきだ。
「交響曲第一番(古典的交響曲)」は、ストラヴィンスキーの新古典派的作品に先行しており、華々しく、ところどころ渋く、ハイドンのスタイルで交響曲を再創造しようとする常に楽しい試みである。リズムやハーモニーやオーケストレーションには小気味の良い現代的ひねりが加えられている。
アシュケナージは、人間的な輝きを引き出すために木管楽器のバランスを取るように指揮した。第三楽章では、アシュケナージは、折り返しの点でマジカルな輝きを達成するようにこの楽章を作り上げたが、コンサートマスターのディーン・オルディングは、弦楽器に強度を集中するように促した。
前半では、ボリス・ベルキンは、「ヴァイオリン協奏曲第二作品63番」を達者に演奏し、陰鬱な妄想から人を惹きつける人間的な暖かさや熱狂的な残忍さにまで及んだ。
プログラムの前半では、瞬間的に規律の逸脱があったにも関わらず、「第五交響曲」の演奏は、アシュケナージが「シドニー交響楽団」を最善へともたらすように上手く扱うことができるという正確さと楽しみの例であった。
[訳者の感想]音楽批評を翻訳したのはこれが初めてですが、このピーター・マッカラムという評論家の表現はかなり難解で手こずりました。もう二度と音楽批評は翻訳しないつもりです。
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「ますます多くのイラク人が宗派の対立を乗り越えようとしている」と題するL.T.の記事。

2009年11月01日 | イラク問題
うだるように暑いホテルの大広間で、スンニー派部族の指導者であるアーメド・アブ・リシャは、シーア派の内務大臣ジャワド・ボラニの隣に立っていた。ボラニの隣は有名なスンニー派の宗教的指導者で、その隣にはシーア派の人権活動家が立っていた。
スンニー派とシーア派ムスリムが新しい政治的運動「イラク統一同盟」の誕生を宣言するために並んでいた。それは来年1月に予定された国会議員選挙に統一のプラットホームとして動くだろう。
周期的に聴衆の間の部族長が立ち上がり、同盟のテーマを支持して、。「イラク万歳」とスローガンを叫び、群衆からは「神よ、イラクを護り給え!」というつぶやきが漏れた。
選挙の季節が近づくにつれて、ナショナリズムの新しい感覚が、イラクを数年前に紛争に突き落とした荒っぽい宗派主義に挑戦しようと台頭している。シーア派のヌリ・マリキ首相は、自分自身を世俗主義者に切り替え、彼の「法治国家連合」と立ち上げた。それはスンニー派にも手を伸ばしている。
シーア派世俗主義者のアヤド・アラウイ元首相とスンニー派の指導者サレー・ムトラクは、別の連合を立ち上げた。
「われわれはスンニー派とシーア派の同盟について語るのにうんざりしている」と「統一同盟」に参加した優れたシーア派解説者ドヒア・シャカルチは言う。「われわれはイラク人だ。われわれはわれわれの國の利害についてのみ関心を持っている。」
スンニー派とシーア派アラブ人の間の統一の感覚はまだ脆弱だ。それは北部にまでは及ばないかもしれない。そこでは、クルド人とアラブ人とトルクメン人とが権力のために張り合っている。
スンニー派の過激派である「イラクにおけるアルカイダ」でさえ、新しいムードを承認したように見える。それはシーア派が集まるモスクや市場に爆弾攻撃をする戦術を変更しつつある。その代わりに、それは、一週間前の司法省とバグダッドの州政府前で行われた爆弾攻撃のように、イラク国家を目標にしている。
米国の官憲は、「イラクにおけるアルカイダ」の出店である「イスラム的イラク国家」があの攻撃の責任を主張したが、彼らは新しい宗派的戦争を挑発することを諦めたと思っている。
(後略)
[コメント]『ロサンジェルス・タイムズ』の記事です。
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