大佗坊の在目在口

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大久保氏六内庵(三乗寺・本源寺)

2014-12-02 | 小田原

小田原はお寺が多い。太政官が明治2,3年に亘り各藩より上申させ集録した「藩制一覧」によると小田原藩内のお寺は四百三十二寺あったと云い、新編相模国風土記稿(風土記稿)に小田原城下には五十一の寺院が記載されている。そのなかで、善立山三乗寺(浄土宗)、恵日山本源寺(天台宗)、龍鳳山桃源寺(曹洞宗)、盛徳山永久寺(臨済宗)、瑞渓山養詫寺(浄土真宗)、福聚山慈眼寺(黄檗宗)の各寺を大久保氏六内庵という。
桃源寺(曹洞宗)、盛徳山永久寺(臨済宗)の二寺については、小田原城山桃源寺(14-09-15)、小田原駅前北条氏墓碑(14-09-09)で載せた。

内庵については風土記稿に「およそ内庵と云るは、城主の開基なり、城主遷替あれば、随逐して其城下に至り、寺宇を結べるものなり、故に定れる寺地なく、侍屋敷中或除地の寺域中を借地して寺を建、城主より廩(蔵)米或扶助金を宛行へり」とあった。

小田原城主大久保氏は徳川家康譜代の家臣で、寛政重修緒家譜によれば、藤原道兼を遠祖とし宇都宮を名乗っていたが、秦道のとき宇津と称し、弾正左衛門秦昌の時三河松平郷にて信光に仕え、忠俊の時代に大久保に姓を改めたとある。家康関東入部で大久保忠臣が小田原城主となったが、嫡男忠隣のとき、家康重臣である本多正信・正純父子との勢力争いに敗れ改易となる。忠隣の子忠常嫡男忠職が大久保家の家督を継ぎ寛永九年(1632)、美濃加納五万石で入封、寛永十六年(1639)、播磨明石七万石に転封、慶安四年(1649)肥前唐津八万三千石に転封、忠朝(忠隣三男教隆の二男)貞享三年(1686)のとき、小田原十万三千石に転封となり以降、明治初期十代忠良まで続いた。

風土記稿に大久保氏六内庵の一つである三乗寺は善立山示現院と号し、寛永九年大久保忠職、濃州加納在城の頃、城下の宝源寺と云う古寺に一寺を起立し、播州明石に得替の時、城下西谷寺を修造し今の寺号に改め、是より領主に随従して小田原善照寺を借地し移住したとある。(文久小田原城絵図より)

善照寺
 

大正十二年の関東大震災により三乗寺と誓願寺が合併し「湘王山三乗院誓願寺」と改称したと云う。
誓願寺
 
石井啓文著「慶応戊辰小田原戦役の真相」によると戊辰小田原藩の責任を負って自刃させられた家老渡邊了叟の墓は三乗寺が誓願寺と合併したとき小田原板橋の明星山常光寺に移されたとあった。
(常光寺の渡邊家の墓域と渡邊了叟の墓)
 
 
大久保氏六内庵の一つである恵日山本源寺は大久保忠織亡父加賀守忠常のため、濃州加納に法華宗の一寺を建て、本性寺と号したが、貞享三年加賀守忠朝のとき、改宗して今の寺号に改め、天台宗東叡山(東叡山円頓院寛永寺)の末寺として僧宗海(下総国真岡圓林寺住僧)に住持させた。故に此僧を開山と称しているという。
 
この旧武家地の八反畑(栄町)の本源寺には元禄十六年十一月二十三日にこの地方を襲った元禄大地震による犠牲者の供養塔がいくつか残っている。
   
 
 

大久保氏六内庵(養託寺・慈眼寺)

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