リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

カバー曲

2012-06-06 06:11:14 | オヤジの日記
カバー曲、と聞いて思い出すのは、何だろう。

真っ先に浮かんだのは、ホワイトベリーの「夏祭り」だ。
この曲は、ジッタリンジンというロックバンドのカバーだった。
これは、オリジナルより売れたと思う。

好きなのは、ジミ・ヘンドリックスがカバーしたボブ・ディランの「見張り塔からずっと」。
ギターのドライブ感がかっこよくて、哀愁を含んだジミヘンの声もよかった。
ディランのオリジナルよりも、曲の世界観を出していたと思う。

近年では、My Little Loverの「Hello, Again ~昔からある場所~」をJUJUがカバーしたのを聴いたが、これはJUJUが完全に自分のものにして歌っていた。

いい曲は、切り口を変えても、いい曲である。

たとえば、シュープリームスという女性R&Bグループが歌った「ユー・キープ・ミィ・ハンギン・オン」というヒット曲があるが、これをヴァニラ・ファッジというロックグループが原曲を留めないほどのアレンジで演奏したものがある。
まったく同一曲とは思えないほどの斬新なアレンジで、構成力豊かな表現で名曲に仕上げている。

あるいは、ビートルズの「ウィズ・ア・リトル・フロム・マイ・フレンズ」を男性R&Bシンガーのジョー・コッカーが、やはり原曲を留めないアレンジで、ソウルフルに歌い上げている。
その熱いソウルのほとばしる歌声は、圧巻である。
個人的には、オリジナルよりもジョー・コッカーの歌う「ウィズ・ア・リトル・フロム・マイ・フレンズ」の方が好きだ。
おそらく百回以上聴いていると思う。

ここまでメロディとアレンジが変わると、むしろ、どちらもオリジナルなのではないかと思ってしまう。

こういうのが、カバー曲の醍醐味と言っていいだろう。


翻って、日本の歌手が歌うカバー曲は、メロディも歌詞も変えずに、歌手とアレンジだけが変わるというのが多い。

耳に馴染んだメロディだから、聴く側としては、安心して聴くことができるという利点がカバー曲にはある。

日本のカバー曲の場合、原曲を大きく変えるという冒険はせずに、まるで有名歌手がカラオケを歌うような感覚として、存在している。

知っている歌を、お気に入りの歌手が歌ってくれる。
それだけでファンは喜ぶ。

それは、悪いことではないが、私としては、曲の知名度頼みの安易な図式が透けて見えるようで、そんなお手軽なカバー曲は、好きではない。

またアルバム全体をカバー曲で埋めるという方式もある。

徳永英明氏は、それで一時代を築いた感があるが、どの曲も、同じアプローチ、同じ歌唱方法で表現されると、歌手の無個性さが強調されて、原曲の密度が薄くなるような気がする。

耳に馴染んだ曲だからこそ、大胆なアプローチで原曲を凌駕して欲しいと思うのだが、多くは、ただ「俺が(私が)上手に歌いました」の域を出ていない。

まして、アルバム全てをカバー曲で埋めるなら、徹底的に曲を解剖して、思いもよらない切り口で表現して欲しい。
同じ曲なのに、こんな表現方法があったのか、という感動が欲しい。

己れの歌の上手さに酔いしれるだけのカバー曲は、自己満足でしかない、と私は思っている。


平井堅の「大きな古時計」は、意外性と斬新さという点で、日本のカバー曲として群を抜いているのではないか。

私は、そんなカバー曲が聴きたい。