カバー曲、と聞いて思い出すのは、何だろう。
真っ先に浮かんだのは、ホワイトベリーの「夏祭り」だ。
この曲は、ジッタリンジンというロックバンドのカバーだった。
これは、オリジナルより売れたと思う。
好きなのは、ジミ・ヘンドリックスがカバーしたボブ・ディランの「見張り塔からずっと」。
ギターのドライブ感がかっこよくて、哀愁を含んだジミヘンの声もよかった。
ディランのオリジナルよりも、曲の世界観を出していたと思う。
近年では、My Little Loverの「Hello, Again ~昔からある場所~」をJUJUがカバーしたのを聴いたが、これはJUJUが完全に自分のものにして歌っていた。
いい曲は、切り口を変えても、いい曲である。
たとえば、シュープリームスという女性R&Bグループが歌った「ユー・キープ・ミィ・ハンギン・オン」というヒット曲があるが、これをヴァニラ・ファッジというロックグループが原曲を留めないほどのアレンジで演奏したものがある。
まったく同一曲とは思えないほどの斬新なアレンジで、構成力豊かな表現で名曲に仕上げている。
あるいは、ビートルズの「ウィズ・ア・リトル・フロム・マイ・フレンズ」を男性R&Bシンガーのジョー・コッカーが、やはり原曲を留めないアレンジで、ソウルフルに歌い上げている。
その熱いソウルのほとばしる歌声は、圧巻である。
個人的には、オリジナルよりもジョー・コッカーの歌う「ウィズ・ア・リトル・フロム・マイ・フレンズ」の方が好きだ。
おそらく百回以上聴いていると思う。
ここまでメロディとアレンジが変わると、むしろ、どちらもオリジナルなのではないかと思ってしまう。
こういうのが、カバー曲の醍醐味と言っていいだろう。
翻って、日本の歌手が歌うカバー曲は、メロディも歌詞も変えずに、歌手とアレンジだけが変わるというのが多い。
耳に馴染んだメロディだから、聴く側としては、安心して聴くことができるという利点がカバー曲にはある。
日本のカバー曲の場合、原曲を大きく変えるという冒険はせずに、まるで有名歌手がカラオケを歌うような感覚として、存在している。
知っている歌を、お気に入りの歌手が歌ってくれる。
それだけでファンは喜ぶ。
それは、悪いことではないが、私としては、曲の知名度頼みの安易な図式が透けて見えるようで、そんなお手軽なカバー曲は、好きではない。
またアルバム全体をカバー曲で埋めるという方式もある。
徳永英明氏は、それで一時代を築いた感があるが、どの曲も、同じアプローチ、同じ歌唱方法で表現されると、歌手の無個性さが強調されて、原曲の密度が薄くなるような気がする。
耳に馴染んだ曲だからこそ、大胆なアプローチで原曲を凌駕して欲しいと思うのだが、多くは、ただ「俺が(私が)上手に歌いました」の域を出ていない。
まして、アルバム全てをカバー曲で埋めるなら、徹底的に曲を解剖して、思いもよらない切り口で表現して欲しい。
同じ曲なのに、こんな表現方法があったのか、という感動が欲しい。
己れの歌の上手さに酔いしれるだけのカバー曲は、自己満足でしかない、と私は思っている。
平井堅の「大きな古時計」は、意外性と斬新さという点で、日本のカバー曲として群を抜いているのではないか。
私は、そんなカバー曲が聴きたい。
真っ先に浮かんだのは、ホワイトベリーの「夏祭り」だ。
この曲は、ジッタリンジンというロックバンドのカバーだった。
これは、オリジナルより売れたと思う。
好きなのは、ジミ・ヘンドリックスがカバーしたボブ・ディランの「見張り塔からずっと」。
ギターのドライブ感がかっこよくて、哀愁を含んだジミヘンの声もよかった。
ディランのオリジナルよりも、曲の世界観を出していたと思う。
近年では、My Little Loverの「Hello, Again ~昔からある場所~」をJUJUがカバーしたのを聴いたが、これはJUJUが完全に自分のものにして歌っていた。
いい曲は、切り口を変えても、いい曲である。
たとえば、シュープリームスという女性R&Bグループが歌った「ユー・キープ・ミィ・ハンギン・オン」というヒット曲があるが、これをヴァニラ・ファッジというロックグループが原曲を留めないほどのアレンジで演奏したものがある。
まったく同一曲とは思えないほどの斬新なアレンジで、構成力豊かな表現で名曲に仕上げている。
あるいは、ビートルズの「ウィズ・ア・リトル・フロム・マイ・フレンズ」を男性R&Bシンガーのジョー・コッカーが、やはり原曲を留めないアレンジで、ソウルフルに歌い上げている。
その熱いソウルのほとばしる歌声は、圧巻である。
個人的には、オリジナルよりもジョー・コッカーの歌う「ウィズ・ア・リトル・フロム・マイ・フレンズ」の方が好きだ。
おそらく百回以上聴いていると思う。
ここまでメロディとアレンジが変わると、むしろ、どちらもオリジナルなのではないかと思ってしまう。
こういうのが、カバー曲の醍醐味と言っていいだろう。
翻って、日本の歌手が歌うカバー曲は、メロディも歌詞も変えずに、歌手とアレンジだけが変わるというのが多い。
耳に馴染んだメロディだから、聴く側としては、安心して聴くことができるという利点がカバー曲にはある。
日本のカバー曲の場合、原曲を大きく変えるという冒険はせずに、まるで有名歌手がカラオケを歌うような感覚として、存在している。
知っている歌を、お気に入りの歌手が歌ってくれる。
それだけでファンは喜ぶ。
それは、悪いことではないが、私としては、曲の知名度頼みの安易な図式が透けて見えるようで、そんなお手軽なカバー曲は、好きではない。
またアルバム全体をカバー曲で埋めるという方式もある。
徳永英明氏は、それで一時代を築いた感があるが、どの曲も、同じアプローチ、同じ歌唱方法で表現されると、歌手の無個性さが強調されて、原曲の密度が薄くなるような気がする。
耳に馴染んだ曲だからこそ、大胆なアプローチで原曲を凌駕して欲しいと思うのだが、多くは、ただ「俺が(私が)上手に歌いました」の域を出ていない。
まして、アルバム全てをカバー曲で埋めるなら、徹底的に曲を解剖して、思いもよらない切り口で表現して欲しい。
同じ曲なのに、こんな表現方法があったのか、という感動が欲しい。
己れの歌の上手さに酔いしれるだけのカバー曲は、自己満足でしかない、と私は思っている。
平井堅の「大きな古時計」は、意外性と斬新さという点で、日本のカバー曲として群を抜いているのではないか。
私は、そんなカバー曲が聴きたい。