世田谷区羽根木の長谷川の家に行ってきた。
大学時代の同級生だ。
さすが3年前まで、中堅商社の社長様だった男の家だ。豪邸である。
部屋が何部屋あるかは、聞いていない。
もし10部屋あるなどと言われたら、火をつけてしまうかもしれないからだ。
その豪邸のリビングに備え付けられたバーカウンターで接待を受けた。
「昼間から酒を飲めるなんて、ついこの間までは、考えられなかったよ」
午後1時過ぎ。私は一番搾りを飲み、長谷川はカティサークのロックを飲んだ。
つまみは、チーズの盛り合わせだ。
3年前に、突然長谷川から電話があった。
「社長を退任しようと思うんだけど、どう思う?」
そんなの知るか、お前の勝手だろうが。
「なんとなくマツに聞いてみたくなってな」
それは、奥さんに医療現場に戻ってもらいたいってことか。
長谷川の奥さんはもともと医師をしていた。しかし、長谷川が社長を継ぐにあたって、医師を休業して長谷川のサポートに回ったのだ。
長谷川は、そのことに、いつも負い目を持っていた。
「だって、俺の代わりはいくらでもいるけど、医師は代わりがいたとしても足りることはないだろう。俺は、俺より有能な女房を社会に返してあげたいんだ。命を救える人は何人いてもいい」
さすがに「キレイごとのシンちゃん」だ。
私は、大学時代、いちいちまともなことや純粋なことを言う長谷川のことを「キレイごとのシンちゃん」と呼んでいた。
飲み会の席でも、四方八方に気を配り、キレイごとを言う男。
私が、そんな長谷川に皮肉の言葉をあびせると「さすがマツだな。皮肉にも愛情がこもっているな」という長谷川。
それを聞く度に、私は、鼻毛をペンチで抜いてやろうかと思った。
御坊ちゃまだと思った。
その御坊ちゃまは、大学を卒業すると、スポーツ用品メーカーに就職した。
そして、32歳のとき、女医と結婚した。
子どもも立て続けに生まれた。
その後、人生が、急転直下した。
長谷川が35歳のとき、父親が病に倒れ、半身不随になったのだ。
長谷川の父親は、中堅商社の創業者だった。その時点で会社の経営は、まだ磐石と言える状態ではなかった。
社長が倒れたことで社員が動揺して、会社を辞めるものも出てきたという。
そのとき、病室に長谷川は呼ばれて、父に頭を下げられた。
「俺の会社を助けてくれないか」
長谷川の一歳下の妹も呼ばれた。
「トライアングルの体制で、今の危機を乗り切りたい。頼む」
父親の鬼気迫る姿に、長谷川と妹は、頷くしかなかったという。
その後、創業者の「血の結束」が入ったことにより、社内の動揺は徐々に収まり、業績は持ち直した。
その業績を確認した父親は2年後に息を引き取った。
37歳で、長谷川は会社を継いだ。とても若い社長だ。
「でもな」と長谷川は言う。
「あの会社は、親父が作った『親父の会社」だ。つまり、俺が作ったものではない。だから、俺のものではない。世襲は、俺の代で終わらせたい」
そう言って、自分の2人の息子には、別の会社に入るように提案した。
息子たちも会社を継ぐ気はなかったようだ。
その結果、3年前、長谷川は部下に社長の座を譲った。
どこまでも「キレイごとのシンちゃん」。
社長を辞めたと言っても、長谷川は筆頭株主であり、オーナーなのだ。
したたかだな、おまえ。
私が、そう言うと、長谷川は、「オーナーとしての権限は、行使するときが来るかもしれない。社員の生活がかかっているときだけな」とカティサークの3杯目を飲みながら、高らかに笑った。
経営に携わる者とは、そういうものなのかもしれない。
俺が、甘いのだろうな。
「いや、マツは、こんな世界とは違うところで生きて欲しいと俺は願っているんだ。どこまでも、あるいは何歳まで、俺たちの現実世界を笑って生きていけるか、俺はおまえにそれを期待しているんだ」
所詮は「キレイごとのシンちゃん」。
俺をバカにしてるんじゃないか。
4本目の一番搾りを空にしたとき、長谷川が、「あー、そう言えば、言ってなかったよな」と酔いの回った目で私を見た。
「七恵が、三連休に東京に来てるんだ」
はあ? 早く言えよ、この家に今いるのか。
「いや、ちょっとした買い物を頼んだから、もう少し時間がかかるかもな」
「帰ってきたら、マツを引き連れて、邦子の墓参りに行くって言ってたぞ」
墓参り、おまえはしたのか、と長谷川に聞いたら、「とっくにな」と、まるで人を落とし穴に陥れるような邪悪な笑顔で、答えた。
七恵は、長谷川の妹の養女だ。今年28歳になるお転婆娘だ。ふざけたことに、私のことを「マッチん」と呼んでいた。
たまに、「ヒョロヒョロ」と呼ぶこともある。お茶目なガイコツを何だと思っているのだ。
七恵にとって、俺は何なんだろうな、と当然の疑問を長谷川にぶつけた。
「七恵にとって、マツは、ものすごく細い糸で繋がれた赤の他人だ、と言っていたな」
「細い糸だけど・・・他人だけど、切りたくない糸だとさ」
すぐにも、ちぎれそうなほどの細い糸だが、ないよりはましってことか。
「いや、ないよりは、絶対にあった方がいい糸だ」
そんな感動的な話をしていたとき、お転婆娘が帰ってきた。
「マッチん、墓参りに行くぞーーー」
この話、次回に続く。