天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

映画『敦煌』三田佳子が原作者井上靖の描く「豊満で肌に艶持つ一糸纏わぬ全裸西夏女」を演じた違和感を抱く

2011-03-26 11:14:37 | 日記
今日の日記は、今お茶の間鑑賞している映画『敦煌』(1988年製作 佐藤純彌監督 吉田剛・佐藤純彌脚本 西田敏行 佐藤浩市主演)のことです。
もうこの映画の舞台になっている歴史的にとても魅力的な街・敦煌を訪れることが出来なくなりましたが、久しぶりに映画鑑賞しました。また、この映画の原作である井上靖著「敦煌」も、昔読んで知っていますので、この原作本を再度熟読しました。
そうしたら、映画版と原作のとても大きな違いに私は気付きました。それは、2項目あります。以下に、それを説明します。
・(1).映画での主演クレジットの序列が、朱王礼役の西田敏行が一番目になっている--これは、明らかに実質の映画と原作の主人公である趙行徳役の佐藤浩市にたいへん失礼な行為です。私は佐藤浩市を一番にするべきであったと思っています。
・(2).原作の冒頭登場する西夏女の描写に大きな違い--原作では、趙行徳が科挙に落第し失意で街を歩くと、黒山の人たかりを見つけます。その原作から、問題の描写を引用・抜粋します。
『行徳の眼に最初映ったものは、木箱の上に置かれた分厚い板の上に横たわっている一人の女のむき出しにされた下半身であった。・・女は一糸纏わぬ全裸の姿で横たわっているのであった。一見して漢人でないことは明らかであった。肌はそれほど白いというのではなかったが、豊満な感じで、行徳がいままで眼にしたことのない艶を持って居り、仰向けにされた顔は顴骨が出て、顎は細く、眼は幾分落ち窪んで暗かった。』
この女性は、後に西夏への通行証を行徳に渡すとても重要な役割を行います。だから、映画では、三田佳子(特別出演)が扮しています。添付した写真は、その映画のシーンの三田佳子です。
しかし、映画では、この原作本の強烈な描写をまったく無視した別な表現(逃げ出した春を商う胡服を着た女を、博徒が街頭で売りに出すとても穏便な場面)になっています。また、原作での女性は、漢人(ほとんど日本人と同じ)は違うエキゾチック容姿になっています。そして、当時の国際化した中国を考えれば、この女性の容姿表現は、映画化に際して特に斟酌する必要があります。
だから、この役をまったく日本人女性の典型である女優・三田佳子が演じるのは、完全なるミスキャストであったと私は思っています。やはり、佐藤純彌監督には、原作に忠実に映像表現してほしかったです。
その為には、この役を広く公開オーディション(職業的な俳優だけでなく踊り子やストリッパー等も含めて)で募集すれば良かったのです。私は、映画鑑賞して、とても残念でしょうがないです。
だから、何時の日か、日本人作家の井上靖著「敦煌」を忠実に映画化した中国人監督(張芸謀ら等)と中国人俳優(梁朝偉ら等)による国際的な歴史作品を製作してほしいと、今私は思っています。
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