田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

プロフェッショナル 仕事の流儀

2009-11-20 20:57:43 | その他
 とタイトルを付けてみたけれどけっしてNHKの番組について語るのではありません。

 その日、私は札幌医大付属病院耳鼻咽喉科の点滴ベッドに横たわっていました。
 付属病院も手狭なのだろうか、点滴ベッドは診察室の一隅をカーテンで囲っただけのものでした。
 ひたすら点滴が終了するのを待つだけの私の耳に、カーテン越しに診察室の医師と患者のやりとりが聞こえてきました。

 診察室のやりとりを聞くとはなしに聞いているうちに、私は大きな感動に包まれている自分に気付いたのです。
 「あ~、調子はどうですか」
 「ああそう、右の方の調子が悪かったんだね」
 「だいぶん良くなってきたみたいだね」
 「そうですか。仕事忙しいんですね」
 「うん、直ぐには良くならないよ」
 「薬はこれとこれを出しておくけど、それでいいかな」
 「今度はいつ来れますか」

 その医師は女性だったのですが、やりとりを聞いていると、その医師は患者の気持ちに寄り添いながら、患者の訴えを全て肯定的に受け止めているのです。
 その上で、専門家として確かなアドバイスを与えています。
 私が点滴を受けている間に4人の患者とのやりとりがあったのですが、どの患者も医師を信頼しきって悩みや不安をぶつけているように思えました。

 私はそれらのやりとりを聞いていて、「この医師は医師である前に、第一級のカウンセラーである」と思ったのです。
 けっして医師だからと上から目線で患者と向き合うのではなく、同じ目線で患者の悩みや不安に向き合い、患者が勇気づけられるようなアドバイスをしているのです。

 私の医師に対するイメージは、なんとなく権威的で、患者は医師の言うことを素直に聞け!というようなものでした。
 しかし、今や医師の世界も変わりつつあるのでしょうか。
 それともこの女性医師の個人的な資質がそうさせているのでしょうか。
 いや、きっと医師の世界でも権威主義的なものは過去のものとなり、カウンセリングマインドを身に付けた医師が主流となっていると信じたいと思います。
 それがプロフェッショナルな医師としての仕事の流儀であるように・・・。

 札幌医大付属病院の耳鼻咽喉科の女性医師・・・、その名は難聴外来担当の「縫 郁美」という医師でした。
 

札幌ウォーク 108 南区・藻南公園・川沿公園コース 後編

2009-11-19 19:21:30 | 札幌ウォーク & Other Walk
  コースのゴールにあたる藻南橋に立った時、「おいらん淵」の疑問が再び頭をもたげてきたのですが…。 

 藻南公園・川沿公園コース(コースマップはこちら 約4.4Km)の後半は「石山橋」を渡り、豊平川右岸を反対に戻ってきます。
        
        ※ 青いペンキが塗られているのが「石山橋」です。
                
 国道230号線が走る石山橋を渡り豊平川右岸に出ますが、マップ上ではコースの直ぐ横に「石山北公園」があるように思いました。ところがこの辺りの右岸は河岸段丘のようになっていて、公園はコースから外れて階段をかなり上ったところにありました。
         
        ※ 河岸段丘の上にあった「石山北公園」です。       

 「石山北公園」は近隣公園に類別されており、芝生広場や野球場、サッカー場などを備え、遊具も適度に配置されていて、近隣住民が利用しやすい公園のように見受けました。
        
        ※ 地域の人たちが憩いやすく見えた「石山北公園」でした。

 公園を離れると豊平川沿いに舗装された遊歩道が延びています。川面と河岸段丘の丘が近接しているため道幅が狭くなっているところがあり、夏季間はイタドリの葉が生い茂ってちょっと不気味な遊歩道になるのではなどと思いながら歩いていました。
 そこへ常連さんらしい婦人が通りかかったので、そのことを問うたところ「そうでもありませんよ」という答えが返ってきました。        

 特に変わり映えのしない遊歩道を離れて、「札幌軟石の採石場跡」に立ち寄ることにしました。
        
        ※ 札幌軟石のテーブルなどを配した「採石場跡」です。
 
 採石場跡は藻南公園の一部となっていて、説明板や軟石を運ぶ際に使われた貨車などが展示されていたり、軟石をモニュメント化したりときれいに整備されていました。
        
        ※ 当時使用された軟石を運ぶ貨車が展示されていました。

 豊平川の両岸に広がる藻南公園を繋ぐように架かる「藻南橋」を私はゴールとしました。
        
        ※ コースのゴールとなった「藻南橋」です。

 その橋を渡っているとき前編でも触れた「おいらん淵」を橋上から眺めてみました。
 するとどうも身を投げるほどの高さがあるようには見えないのです。むしろ対岸の方が見上げるように崖がそびえていて、そこから身を投げるとひとたまりもないように見えました。
 私はもう一度「おいらん淵」に寄ってみることにしました。そこへ地元のような方が通りかかったので、その疑問をぶつけてみました。するとその方は「私たちはこちらが“おいらん淵”だと聞いています」ということでした。
        
        ※ こちらが本来の「おいらん淵」です。

        
        ※ 対岸には「おいらん淵」よりはるかに高い崖が聳えていました。

 私の疑問は邪推に過ぎなかったのかも知れません。
 当時と現在では地形もずいぶん違っているのでしょう。また、「淵」ということですから崖の高さより、川がえぐられて深くなったところを指すのですから、身を投げると助からないほど川底が深かったということなのでしょう。

 秋も深まった一日、豊平川の上流河岸を歩くコースでしたが、心地良い夏の日にスポーツに興じる市民の姿を眺めながらのウォーキングを楽しんでみたいと思った藻南公園・川沿公園コースでした。
《ウォーク実施日 ‘09/11/8》

札幌ウォーク 108 南区・藻南公園・川沿公園コース 前編

2009-11-18 18:55:04 | 札幌ウォーク & Other Walk
 秋も深まったというより、初冬の色濃い11月8日(日)午前、豊平川上流の河畔地帯をウォーキングしてきました。
 
 今年中の市内ウォーキング全コースの踏破は難しくなってきましたが、全119コース踏破を目ざしてボチボチと取り組んでいます。この日は車で藻南公園まで行きウォーキングを開始しました。
        

 この藻南公園・川沿公園コース (コースマップはこちら約4.4Km)のスタート地点は豊平川沿いに広がる藻南公園の西端にある藻南交番です。
        
        国道230号線と藻南公園に近接した藻南交番です。

 交番から直ぐに「藻南公園」に入ります。
 「藻南公園」は総合公園に類別され、南区で最も大きな公園で、豊平川を挟んで両岸沿いに広がる公園です。コースはその藻南公園の左岸側からスタートしたことになります。
 公園に植栽されているほとんどの木も葉を落とし、冬間近しの印象です。人の姿もあまり見えず、この時期の公園は寂しいかぎりです。
        
        ※ すっかり葉を落としてしまった藻南公園の木々です。

 藻南公園でフッと思いついたのが「おいらん淵」の話です。
        
        ※ おいらん淵の上から豊平川を覗いたところです。

 公園内を歩いていると藻南橋の近くに「さっぽろ・ふるさと文化百選」として「おいらん淵」の説明が書かれてありました。それを転写すると・・・、
「このあたりは明治の頃、クマザサがうっそうと生い茂り、豊平川は曲がりくねり急に深くなっていた。吉原遊郭から身請けされて札幌に来た一人の花魁が世をはかなんでこの淵に身を投げたという伝説にちなみ、おいらん淵と呼ばれるようになった。由来についてはいろいろな説があり、事実は定かではないが、札幌では数少ない伝説にちなむ地名である。」と書かれています。
 この「おいらん淵」を実際に見て、私にはふっと疑問がよぎりました。その疑問については後編で述べることにします。
        
        ※ おいらん淵の説明が書かれてあったプレートです。

 藻南公園を後にして、豊平川左岸を遡ると河岸が芝生に覆われた「川沿緑地」に出ます。
        
        ※ 芝生の広場が広々と広がる川沿緑地です。

 広々とした芝生広場、それに続く少年野球のグランド、テニスコートなどシーズンには多くのスポーツ愛好家が楽しむエリアなのかもしれません。
 緑地では少年野球の一団と、何かのグループがボールゲームを楽しんでいました。
        
        ※ 何のゲームなのか分かりませんが女の子が楽しんでいました。 
 
 川沿緑地と堤防上の道路をはさんで住宅地側に「川沿公園」があります。
 緑地とは違い、たくさんの木々が植栽されていて、遊具も適度に配された典型的な公園という感じです。
        
        ※ 適度に遊具などが配されていた川沿公園です。

 この堤防上の道路が珍しく舗装されていない道路だったために、面白い光景を目にしました。
        
        ※ 市内の堤防では珍しく舗装されていませんでした。

 それは落ち葉がいくつかの偶然が重なって土の表面に固定されていたのです。木の葉の化石ができる生成過程を見るようでした。
        
        ※ 土(泥)の中に取り込められた落ち葉です。

 川沿緑地が終わりに近づく頃、コースの折り返し地点である「石山橋」が見えてきました。(この後は後編で)
《ウォーク実施日 ‘09/11/8》

市民カレッジ 「北の大地の羅針盤になった先達」① 永山武四郎

2009-11-17 19:49:14 | 札幌学 & ほっかいどう学
 ※ もはやブログホリックと化してしまった私にとって4日間の空白は耐え難いものでした。まだ投薬はしばらく続き、いつまた休止に追いやられる体たらく演じるかもしれませんが、しびれを切らして本日より投稿を再開することにしました。どうぞよろしくお願いします。 

 日本の南端薩摩藩士の子孫であった「永山武四郎」が、北の大地北海道の開拓になくてはならぬ人であったことは興味深いことです。
 
 さっぽろ市民カレッジ2009秋のシリーズが札幌市生涯学習センター(愛称:ちえりあ)で始まりました。私はこれまで同様「札幌学」を受講することにしました。
 その第一回目の講座が体調を崩しつつあった11月10日(火)にありました。
 講座は「屯田兵の父・永山武四郎の業績と人生 ~我が躯は北海道に埋めよ、必ずやかの地を守らん~」と題してノンフィクション作家の合田一道氏を講師に迎えてのものでした。

 今回の講座で私は合田一道氏から講義を受けることを楽しみにしていました。
 合田氏は道内在住のノンフィクション作家として著名ですし、各地の講演でも好評を博している方だったからです。事実、講義室で私の近くに座った3~4人の高齢者の方々は合田氏の「追っかけ」らしく、合田氏から「また来ているのかい」と声を掛けられていました。
 講義内容はまとまったものとは言い難く、話があちこちに飛び火するものでしたが、合田氏の豊富な知識がそうさせたものでけっして不愉快なものではありませんでした。というのも永山武四郎の業績について受講者はある程度の知識があるという前提に立ってお話しされていたように思われたからです。
 その講義の中で私自身が興味を抱いたことを断片的にレポートしてみます。

○武四郎は戊辰戦争の薩長軍の一員として従軍、その後明治新政府により北海道開拓使を命ぜられた。
○屯田兵について、当時の北海道開拓の責任者であった黒田清隆の命を受けた永山武四郎らが中心となって「屯田兵制度」の試案を作成し、それが実現したものであった。
○屯田兵は、北海道の警備(ロシアの侵攻に対する)と開拓を担うもので、戊辰戦争で敗北した東北諸藩の士族出身者を充てたものだった。(後年は平民も屯田兵として徴用された)
○屯田兵の組織は、「伍」が最小単位で準伍長1名、兵卒4名であった。伍が六つ集まって「分隊」、分隊が四つ集まって「小隊」、小隊を二つ合わせて「中隊」、中隊を二つ合わせて「大隊」、大隊三つを合わせて「聯隊」とした。
○西郷隆盛が起こした西南の役には、永山武四郎も率いた屯田兵が鎮圧のために九州に赴き、自らの出身藩である薩摩の人たちと戦うという苦渋も経験した。

 こうしたことが、古文書から、また合田一道氏の話から明らかになっていきました。
 まだまだ得た知識はたくさんありますが、永山武四郎は「屯田兵制度」を作成しただけではなく、その後も屯田兵に関わり続け、全道各地に屯田兵が進出し開拓をしていく際の中心的な役割を果たしたのでした。
 非常に重要な役割を担い功績を上げたにもかかわらず、武四郎に政治的野心はなく、彼の思いはただただ「公」のために尽くす、北海道をロシアの進出から護ることに注がれていたようです。
 このことから派生して、合田氏は「現代は公の意識が全く欠落した時代である」と断じました。
 確かに国を司る立場の人や公に殉ずるべき高級官僚が私することばかり考えている現状を知ったら永山武四郎も嘆き悲しむことでしょう。
 武四郎は1904年、病没しましたがその遺志により亡骸は札幌市内の霊園に眠っているそうです。

 久しぶり(?)のレポートは固いものになってしまいましたなぁ~。
 また、今日は第2回目の講座だったのですが、涙を呑んで今回は自粛することにしました。

ブログ一時休止宣言

2009-11-12 20:09:26 | その他
 無念です!残念です!
 一昨年、1月13日以来連続投稿を続けてきたのですが、ここで一時休止せねばならなくなりました。

 実は一週間前くらいから体調が絶不調に陥りました。
 PCに向かうことができないのです。
 これまでは症状の現れる隙間をねらって投稿文を作成し、なんとか投稿を続けてきましたが、それもちょっと無理な状況となりました。

 今日、これまで通院していた病院を変えて診察したところ、なんとか回復の見通しも立ちましたので、しばらくの休養と療養で遠くない時期に回復できるのではという見通しも立ちました。
 ここは思い切って休止して、回復を優先させることにしました。

 完全な回復を見た後、また精力的に投稿を続けたいと思っています。
 そのときにはまた叱咤・激励をお願いいたします。
 それではそれまでの間、しばしお別れします。


映画 10 「地球交響曲 ~ガイア シンフォニー」~ Part Ⅳ(瀧村仁講演)

2009-11-11 22:39:37 | 映画観賞・感想

 映画「地球交響曲~ガイア シンフォニー~」の監督瀧村仁はなかなか魅力的な人でした。彼の話は映画の理念を語るのではなく、映画を作り続けることの苦心を語るという意外なものでした。
 
 登壇した瀧村仁氏は当年とって69歳とは思えぬ若々しさで、言葉も飾らず精力的に語り始めました。
 私は瀧村氏が映画を創るにいたった動機とか、映画を通じて世に問いたいことなどを語るのではと期待していたのですが、期待は見事に裏切られました。そうしたことは全て映画の中に込められているとでもいうように・・・。
 そして彼が語ったのは、こうした硬質の映画を作り続ける資金的な難しさについてでした。

 第一番は1989~1991年にかけて制作しましたが、公開まで一年を要したそうです。それは資金回収の目途が立たなかったために、映画館側の協力が得られなかったからです。
 瀧村氏の奔走の結果、第一番はセゾングループのオーナーの堤清二氏の支援を受けて公開することができました。セゾングループの業績不振から、第二番~三番は京セラの稲森和夫氏の理解を得て支援を受けました。

 公開できないという辛い場面、困難な状況の中で、そのことをどう受け止め、どう対処するかが大切ではないかと瀧村氏は語ります。そして、そうした状況は変化し、進化する可能性を秘めた機会でもあると・・・。
 事実、彼は辛い場面を乗り越え三度も理想とする映画を創り、公開できたことに自信を得て、第四番からは市民に浄財を募る方式に切り替え、制作費を回収しながら現在第七番まで制作をしているのです。
 そうした方式を彼は「共に聴くシンフォニーから、共に奏でるシンフォニーへ」と標榜しています。

 素の言葉で気軽に語っているように見える瀧村氏ですが、ガイドブックではしっかりとメッセージは発しています。そのメッセージを伝えつつ、このシリーズを閉じることにします。

「火より孵化る」

 “火よりしでぃる”と読みます。沖縄の格言で、“業火に焼かれる苦しみを経て、新しく生まれ変わる”という意味だそうです。 2001年8月、21世紀最初の『地球交響曲 第四番』が完成した日、出演者の名嘉睦稔から贈られたTシャツに描かれていた言葉です。睦稔の予言どおり、第四番の完成直後にあの9・11テロ事件が起こり、それ以後、今日まで、アフガン戦争、イラク戦争とまさに業火に焼かれるような日々が続いています。日々、新聞やテレビで報じられる悲惨なできごとを見ていると、世界は、地球交響曲の願いとは正反対の方向に突き進んでいるようにも見えます。しかし、そうではない、いや、そうさせてはならない。(中略)
 『地球交響曲 第五番』は、20世紀末に受胎した地球交響曲の魂が、母の子宮の中で「第一番」~「第四番」と順調に成長し、21世紀初頭の陣痛の苦しみを経て、今まさに新しい世界に生まれ出ようとする映画です。 

【エピローグ】
 恥ずかしながら『地球交響曲』を見たのはこの「第五番」が初めてでした。このような良質の映画に遅まきながら出会えたことを感謝しています。こうなったからには「第一番」~「第四番」、そして「第六番」もぜひとも見たいと思います。今その方策をいろいろと講じているところですが・・・。


映画 10 「地球交響曲 ~ガイア シンフォニー」~ Part Ⅲ

2009-11-10 16:27:45 | 映画観賞・感想

  映画「地球交響曲~ガイア シンフォニー」の監督瀧村仁は言います。巨大生命体ガイアは今、新しい世界へ生まれ出ようとする陣痛の苦しみの中にある。ガイアは人類の叡智を結集してきっと生まれ変わるだろうと・・・。
 
 「地球交響曲~ガイア シンフォニー~ 第五番」は、主たる登場人物として染織家の石垣昭子と、哲学者で未来学者のアーヴィン・ラズローを登場させています。(昨日の投稿を参照下さい)
 それと同時に、これまでの一番から四番までに登場した人物の何人かを再度登場させています。
 その方々の印象的な言葉を紹介しますが、その咀嚼はあなたにお任せします。識者の言葉を味わってみてください。

◇元アポロ9号宇宙飛行士のラッセル・シュワイカート氏(第一番出演)
 「困難に挑戦し続けることにこそ、希望がある」 
◇生物物理学者のジェームズ・E・ラヴロック氏(ガイア理論の創始者 第四番出演)
 「理論はあとからついてくる」 
◇チベット仏教最高指導者の14世ダライラマ法王(第二番出演)
 「苦しみが慈悲の心を育てる」
◇悩みや問題を抱えこんだ人たちを受け容れ、痛みを分かち合う癒しの場「森のイスキア」を主宰する佐藤初女氏(さとう はつめ 第二番出演)
 「自然に生んでね」 
◇野生チンパンジー研究家で霊長類学者のジェーン・グドール氏(第四番出演)
 「平和は必ず甦る」 
◇木版画家の名嘉睦稔(なか ぼくねん 第四番出演)
 「何度想っても、幸せは減りません」 
 それぞれの言葉にはそれぞれのバックグランドがあるのですが、それを省略しても含蓄に富んだ言葉が私たちの胸を突いてきます。

 本日の締めに「ガイア理論」創始者のジェームズ・E・ラヴロック氏の示唆に富んだ言葉を紹介することにします。

 かつて人は生きることの意味を宗教や芸術を通じて問い続けてきました。しかし、今や人々はその答えを科学に求めています。ただ、今の科学はそれに充分に答えていない。しかし、科学にもそれができると私は信じます。私たちが、この地球はひとつの生命体であるということに気づけば、何を大切にしなくてはいけないか、何をやめるべきかという道徳的なこともおのずと見えてくるのです。 

        
      ※ ジェームズ・E・ラヴロック氏です。(ガイドブックから転載)

 私の理解度は別にして、私はこのラヴロックの言葉に激しく同意します。(あっ、こんなふうに書くと激しく反発されそうですね…)
 科学が発達し、人々の教育も行き渡った今、人々はガイアに起こるさまざまな現象を科学的な説明で納得しようとします。その納得の上で私たちは生きる意味も見出していくのです。 
 ただ、その科学の説明が今の段階ではまだ不十分と言うべきなのでしょう。私たちが納得しうる科学の説明がかなり近くまでやって来ていると私は思っていますし、そう信じたいと思います。

 ガイアにもう少しこだわります。次回は瀧村仁監督の講演の様子をレポートします。


映画 10 「地球交響曲 ~ガイア シンフォニー」~ Part Ⅱ

2009-11-09 17:37:03 | 映画観賞・感想

※ 昨日「とても書ける状態ではない」と記したのは、お酒に酔って書けなかったとかそういう不謹慎な理由ではけっしてありません。あえて理由は伏せますが、こうしてパソコンの前に座ることのできる幸せをかみ締めています…。それでは気合を入れて!

 
 ガイア(GAIA)とは、「生きている地球」を指す。その生きている地球が今人類の手によって変質されつつあるとしたら、そうした危機感がこの映画の根底に流れているようである。
 
 ガイドブックによると映画「地球交響曲~ガイア シンフォニー~」は監督龍村仁が、NASAの大気学者だったジェームズ・ラブロック氏の提唱する「地球と生物が相互に関係し合い環境を作り上げていることを、ある種の『巨大生命体』と見なす」というガイア理論に勇気づけられて制作が始まったということです。

 私が観賞した「地球交響曲~ガイア シンフォニー~」第五番は、
 沖縄の西表島で絶えていた芭蕉布を再興させた染織家の石垣昭子と、ハンガリー生まれでイタリア在住の哲学者で未来学者のアーヴィン・ラズローの生き様や語りを縦糸として、
 横糸にはこれまで1~4番に登場した海外の著名な数名の科学者や哲学者などの来日が重なるという幸運に恵まれて再インタビューした映像が織りなす交響詩となっている。
 さらにはそこに監督自身の子どもが誕生するシーンも織り込まれ、この地球に初めての生命が誕生して以来の38億年の歳月を通過し、全ての繋がりの中から今一つの命が誕生したというメッセージ性も込められた映画となっています。
        
        ※ 実は会場に瀧村監督が駆けつけていました。写真はガ
         イドブックに瀧村氏からサインをいただいたものです。サイ
         ンには「魂の友へ」というメッセージが添えられていました。

 染織家の石垣昭子は西表島の自然の中で芭蕉(ジャパニーズ・バナナと呼ばれているが実は食用に不適である)を育て、芭蕉から糸を紡ぎ芭蕉布を織り、そして自然の草木で染色している。何よりも沖縄の自然が芭蕉布を作らせてくれていると…。
 しかし、そんな沖縄の自然も開発の中で刻一刻と変わってきていると彼女は言います。
 その現実も受け入れながらなお芭蕉布を織り続けていきたいと力強く語ります。

 哲学者で未来学者のアーヴィン・ラズローの語る言葉は多くの示唆に富んでいます。
 多くの言葉の中から、次の言葉を紹介することにします。

 自然界には、何ひとつ偶然はない。全ては互いに繋がって起こっており、純粋に偶然に起こることなど、何もないのです。全てのいのちが共に働き、共に変化し共に進化し、互いに同調しながら響き合っている
 
と語り、その真理を細胞や分子、さらには素量子論まで引き出しながら語ります。そして彼はさらに…、

 今、行っている全ての営みが、未来の世代に大きな影響を与えます。だからこそ、目の前の自分のことだけに夢中になるのではなく、広く、全人類のため、全ての自然ため、ガイアの全ての命のため、そして未来のために生きることが大切なのです。

と強調します。
 私の引用が適切かどうか自信はありませんが、監督龍村弘が描こうとした「地球交響曲~ガイア シンフォニー~」の意図の糸口くらいには辿りつけたかな、と思っているところです。
 次回は映画の横糸として登場した各氏の言葉を紹介したいと思います。


映画 10 「地球交響曲 ~ガイア シンフォニー」~ Part Ⅰ

2009-11-07 20:34:49 | 映画観賞・感想

 映画が終わった瞬間、期せずして観客から拍手が起こった。私も深い感動に包まれながらそれに和したが、その感動を直ぐには文章にできないほど深く、重い感動でした。
             

 北海道大学のサステナビリティ・ウィーク2009の関連行事の一環としてクラーク会館で行われた映画「地球交響曲(ガイヤ シンフォニー)第五番」を観賞してきました。
 映画といってもストーリー性のある映画ではなく、哲学者や芸術家などが発するメッセージを主体としたドキュメンタリー映画です。そのメッセージを私が咀嚼するには少し時間が必要です。今日のものとはなりません。映画そのものについての感想には今少し時間をいただきたいと思います。

 さて、その映画「地球交響曲(ガイア シンフォニー)」とは、イギリスの生物物理学者ジェームズ・ラブロック博士の唱えるガイヤ理論、「地球はそれ自体がひとつの生命体である」という考え方に基づき、龍村仁監督によって制作されたオムニバスのドキュメンタリー映画で、私が観賞したのはその第五作なのです。
        
        ※ 映画の最後の画面を写しましたがブレてしまいましたね。

 第五番は、染織作家の石垣昭子、哲学者・未来学者のアーヴィン・ラズローの二人のメッセージがメインとなっていますが、第一番から第四番までに登場した方々も再登場してメッセージを発しています。
 それらの一つ一つが深く、重いのです。

 今日の私は映画の感想を自分の言葉で述べることができません。そこで、今日はガイドに掲載されている次の言葉を紹介してお茶を濁すことにします。

 かつて人が、花や樹や鳥たちと  
 本当に話ができた時代がありました。
 
 その頃、人は、自分たちの命  
 宇宙の大きな命の一部分であることを誰もが知っていました。
 
 太陽を敬い月を崇め風に問ね(たずね)火に祈り水に癒され
 土と共に笑うことが本当にいきいきとできたのです。
  
 ところが最近の科学技術のめまぐるしい進歩と共に 
 人は、いつの間にか「自分が地球の主人であり、自然は
 自分たちのために利用するもの」と考えるようになってきました。 
 
 その頃から人は花や樹や鳥たちと話す言葉を  
 急速に忘れ始めたのです。
 
 人はこのまま自然と語り合う言葉を
 永遠に忘れてしまうのでしょうか。
  
 それとも科学の進歩と調和しながら
 もう一度、その言葉を思い出すことができるのでしょうか。
  
 この言葉が映画「地球交響曲 ~ガイヤ シンフォニー~」を雄弁に語っているように思います。