田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

市民カレッジ 「北の大地の羅針盤になった先達」① 永山武四郎

2009-11-17 19:49:14 | 札幌学 & ほっかいどう学
 ※ もはやブログホリックと化してしまった私にとって4日間の空白は耐え難いものでした。まだ投薬はしばらく続き、いつまた休止に追いやられる体たらく演じるかもしれませんが、しびれを切らして本日より投稿を再開することにしました。どうぞよろしくお願いします。 

 日本の南端薩摩藩士の子孫であった「永山武四郎」が、北の大地北海道の開拓になくてはならぬ人であったことは興味深いことです。
 
 さっぽろ市民カレッジ2009秋のシリーズが札幌市生涯学習センター(愛称:ちえりあ)で始まりました。私はこれまで同様「札幌学」を受講することにしました。
 その第一回目の講座が体調を崩しつつあった11月10日(火)にありました。
 講座は「屯田兵の父・永山武四郎の業績と人生 ~我が躯は北海道に埋めよ、必ずやかの地を守らん~」と題してノンフィクション作家の合田一道氏を講師に迎えてのものでした。

 今回の講座で私は合田一道氏から講義を受けることを楽しみにしていました。
 合田氏は道内在住のノンフィクション作家として著名ですし、各地の講演でも好評を博している方だったからです。事実、講義室で私の近くに座った3~4人の高齢者の方々は合田氏の「追っかけ」らしく、合田氏から「また来ているのかい」と声を掛けられていました。
 講義内容はまとまったものとは言い難く、話があちこちに飛び火するものでしたが、合田氏の豊富な知識がそうさせたものでけっして不愉快なものではありませんでした。というのも永山武四郎の業績について受講者はある程度の知識があるという前提に立ってお話しされていたように思われたからです。
 その講義の中で私自身が興味を抱いたことを断片的にレポートしてみます。

○武四郎は戊辰戦争の薩長軍の一員として従軍、その後明治新政府により北海道開拓使を命ぜられた。
○屯田兵について、当時の北海道開拓の責任者であった黒田清隆の命を受けた永山武四郎らが中心となって「屯田兵制度」の試案を作成し、それが実現したものであった。
○屯田兵は、北海道の警備(ロシアの侵攻に対する)と開拓を担うもので、戊辰戦争で敗北した東北諸藩の士族出身者を充てたものだった。(後年は平民も屯田兵として徴用された)
○屯田兵の組織は、「伍」が最小単位で準伍長1名、兵卒4名であった。伍が六つ集まって「分隊」、分隊が四つ集まって「小隊」、小隊を二つ合わせて「中隊」、中隊を二つ合わせて「大隊」、大隊三つを合わせて「聯隊」とした。
○西郷隆盛が起こした西南の役には、永山武四郎も率いた屯田兵が鎮圧のために九州に赴き、自らの出身藩である薩摩の人たちと戦うという苦渋も経験した。

 こうしたことが、古文書から、また合田一道氏の話から明らかになっていきました。
 まだまだ得た知識はたくさんありますが、永山武四郎は「屯田兵制度」を作成しただけではなく、その後も屯田兵に関わり続け、全道各地に屯田兵が進出し開拓をしていく際の中心的な役割を果たしたのでした。
 非常に重要な役割を担い功績を上げたにもかかわらず、武四郎に政治的野心はなく、彼の思いはただただ「公」のために尽くす、北海道をロシアの進出から護ることに注がれていたようです。
 このことから派生して、合田氏は「現代は公の意識が全く欠落した時代である」と断じました。
 確かに国を司る立場の人や公に殉ずるべき高級官僚が私することばかり考えている現状を知ったら永山武四郎も嘆き悲しむことでしょう。
 武四郎は1904年、病没しましたがその遺志により亡骸は札幌市内の霊園に眠っているそうです。

 久しぶり(?)のレポートは固いものになってしまいましたなぁ~。
 また、今日は第2回目の講座だったのですが、涙を呑んで今回は自粛することにしました。