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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り №19

2022-11-04 13:08:55 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 北区歴史と文化の八十八選巡りの最後№19、20は藍の栽培で一時代を画したあいの里地区を巡った。本項ではあいの里地区の中心街からは少し離れた5件の物件についてレポートする。

79〉水野波陣洞(はじんどう)句碑

 この句碑を見つけるのには少々苦労した。というのも句碑のあるところが「ガトーキングダムサッポロ内」となっていた。そのホテルガトーキングダムへ至る引き込み道路を行くと、その途中に次にレポする〈80〉の川端臨太句碑は容易に見つかった。ところがこちらの水野波陣洞句碑はなかなか見つからない。ホテルまでの引き込み線を往復するうちに、なんとその引き込み線の入口近く、奥まったところに句碑は目立たなく建っていた。他から訪れる者のために、もう少し何か目印のようなものがほしいと思ったのだが…。

   

   ※ 水野波陣洞の句碑は、写真右端の倉庫のような建物の脇に建てられていました。(石が白く光っています)

   

   ※ 傍へ寄って撮った句碑です。

   

 句碑には「白鳥の 翼の唸り ふり被り  波陣洞」と刻まれていた。傍に立てられた北区制作の説明板には次のように記されていた。

 白鳥の翼の唸りふり被り」、水野波陣洞は、北の風物をとらえた作品の句作に務めてきた。この作品は、本人が土木測量等の仕事に従事しながら、頭の上を飛んでいった様を歌ったものであると言われている。昭和51(1976)年、札幌市文化奨励賞を受賞                                              

〔住 所〕北区東茨戸ガトーキングダムサッポロ内

〔訪問日〕10月7日

80〉川端麟太句碑

 こちら川端麟太の句碑は前述したようにホテルガトーキングダムへの引き込み道路の中間あたりで容易に見つけることができた。句碑の周囲もそれなりに整備されていた。

   

   ※ 一方、川端麟太の句碑は石碑の周りがそれなりに整備されていました。

   

   ※ 川端麟太の句碑です。

   

   ※ 句碑の傍には川端の略歴が刻まれていました。

 こちらの句碑には「のぞみありて 庶民の帽の 青きひさし  麟太」と刻まれていた。そしてその傍には次のように記された説明板が立っていた。

 のぞみありて庶民の帽の青きひさし」、青木麟太は庶民のうたごえとしての俳句をめざし、豊かな庶民感覚を盛り込んだスケールの大きい作品が多い。この作品は一生懸命働いている人の様を歌ったものであると言われている。 

  〔住 所〕北区東茨戸ガトーキングダムサッポロ内

  〔訪問日〕10月7日

〈81〉藍栽培ゆかりの地

 この「藍栽培ゆかりの地」は、あいの里地区の西端の興産社地区会館の敷地内にたくさんの石碑が建っているが、その中に「藍栽培ゆかりの地」という銘板が立てられていた。その記念碑的石碑は「報徳碑」という形で建てられ、その碑の裏側に藍栽培にまつわる経緯が記されていた。その碑文を転写する。

   

   ※ 石碑が立ち並ぶ広場の一角に建つ興産社地区の地区会館がありました。

   

   ※ 祖の地区会館の横には写真のようにさまざまな石碑が立ち並んでいました。

   

   ※ その中の一つに「報徳碑」が建ち、藍栽培が盛んになった謂われが説明されていました。(下の文参照)

 興産社社長滝本五郎翁は、徳島(阿波)の生まれで、幼少の頃から聡明であった。開拓精神に富、明治十四年に弟の阿部興人、原文吉、近藤庫太郎などと相談して、札幌郡篠路(拓北)の地を開墾したが、その十七年間は困難をきわめた。しかし、粘り強く頑張りついに六百九十町を開拓し、農民百五十人を入植させる偉業を達成した。明治二十三年には藍の製造で全国一等賞を受賞し、更に明治二十九年藍綬褒章を受章したが、明治三十二年十月九日病のために六十四歳にて惜しまれて逝去した。その業績に対して次の言葉を贈り、その徳を讃えます。剛健なり、金銭堅固なり、自ら辛酸をなめ、風雪に耐え、勤倹に勤め、慈愛に満ち、鬱蒼たる荒れ地を開き、藍の栽培で国を富ませ、その素晴らしい功績がこの地に永久に留まることを祈念いたします。功績多大のため、その一端を掲載するのみです。

追記

 既存の報徳碑は、建立から百七年も経過し、刻印された文字も薄れ読み辛くなりましたので、簡単な現代文に改め開拓魂を引き継ぐ絆といたします。

 平成十九年八月十九日 唐牛 繁三

   〔住 所〕 北区篠路町篠路419番地

   〔訪問日〕 10月7日

〈82〉宮西頼母歌碑

 上記と同じ敷地内にこの「宮西頼母歌碑」は建っていた。歌人・宮西頼母はこの地で農業に従事しながら作歌活動をしていた人で、この歌は昭和43年の宮中歌会始に入選した歌だそうだ。石碑には頼母の直筆による「チモシーの 禾積(にほ)つみ終へし 土手のうへ 石狩川は 波立て見ゆ」と刻まれている。歌碑の傍に立てられている説明板には次のように記されていた。

   

   ※ 宮西頼母歌碑の歌碑です。

 チモシーの禾積つみ終へし土手のうへ石狩川は波たちて見ゆ」昭和43年の歌会始め詠進歌に入選した歌である。「チモシー」とは、牧草の一種、「禾積(にほ)」とは牧草を円錐状に高く積み上げたものである。石狩川の近くで農業に従事しながら作歌活動を続けてきた歌人であり、北の厳しい自然と大地に挑む農耕歌を多く発表している。

   〔住 所〕 北区篠路町篠路419番地

   〔訪問日〕 10月7日

   

   ※ 八十八選には含まれていない「拓北記念碑」です。

〈83〉興産社の馬頭観世音

 報徳碑や宮西頼母歌碑のある広場からあいの里市街地に寄った道路端に、先に出てきた興産社の馬頭観世音が建っていた。直ぐ目に入るのは大正年間に建てられた方のようだが、本来の馬頭観世音はその傍に小さく建っていた明治年間に建てられた方なのかもしれない。

   

   ※ この馬頭観音は大正年代に建てられたものであるようだ。

   

   ※ その横で朽ち果てそうになっているのが明治年間に建てられた石碑のようです。

         

         ※ この石碑は大正年間に建てられたものであることが刻字から読み取れます。

 傍に立てられていた説明板でそのあたりの経緯にも触れている。その内容は…、

 藍の栽培と製造を行った興産社農場は、安価な輸入染料によって経営が行き詰まったことから、事業家の谷仙吉が農場を譲り受けて谷農場となった。谷農場の耕作農家にとってかけがえのない農耕馬や繁殖馬の健康を願って、同農場の18名によって明治42(1909)年にこの馬頭観世音が建立された。同観世音の周囲には、大正年間に建立された馬頭観世音もある。

  〔住 所〕 北区篠路町拓北87番地2

  〔訪問日〕 10月7日