久々の沢木本だった。やはり私は沢木の感性に憧れる。そして私は沢木の文体に惚れ惚れしてしまう。私は本書を手にして沢木ワールドに遊び、一気に読了した。そして今ごろ…、とも思うのだがあることに気づいた。
最近の私は本にお金をかけなくなり、新刊書を購入することはほとんどなくなった。その理由の一つは、私の興味が読書以外に向いていることがある。もう一つは、私の本棚が 満杯状態となり、新たな本を収容する余地が全くないことがある。
そうしたことで本書も購入せずに図書館から借りようとしたのだが、さすがに沢木本である。図書館に予約してから実に半年近く待ってようやく私の借りる番がやってきた。
本書はJR東日本の車内誌「トランヴェール」で4年間にわたって掲載されたエッセイから41編を選り抜いて単行本化したものである。「つばくろ」とは、つばめのことをさす言葉だが、まさにつばめのように気ままに日本国内を歩き、見て、食べて、飲み、考えたことを沢木は軽やかに、のびやかに綴っている。
沢木といえば名作「深夜特急」に代表されるように、世界を歩いてルポしたり、エッセイに綴ったりすることが多いのだが、本書では旅の先を国内に絞っている。(国内の旅先案内人であるJRの車内誌だから当然か?)
「旅のつばくろ」に収録されていた41編を一気に読む中である特徴に気づいた。それは特別なことではないのかもしれないが、私には新しい発見だった。その発見とは…。沢木のエッセイの始まりと終わりにある特徴のようなものを見て取ることができたのだ。
文章の始まりで沢木は、一気に沢木ワールドに惹き込む魔力を持っているように思えた。その惹き込む魔力とは、例えば…
「縁というものがある。眼には見えないが強く存在する何らかの関わり、というような意味と私は理解している。」
「朝日が好きかと問われると、はて、と考え込んでしまう。」
「旅は家に帰ったところで終わる。いや、終わるはずである。ところが、帰ったところから新たに始まる旅もある。」
他にも数々の印象的な一文があったが、ともかく私は彼の書き出しの一文で一気に沢木ワールドに惹き込まれてしまう。沢木の非凡な一端はその書き出しにも現われていると私は思っている。
そして文章の締めである。ここでも沢木独特の言い回しが印象的である。例えば…
「人生の不思議、と呼ぶべきなのだろうか。いや、そんな大袈裟な物言いはせず、もっとシンプルに、寄り道の効用を考えたほうがいいのかもしれない。ちょっとした寄り道が、私を「築地明石町」に導いてくれたのだ、と。」
「本来、会うはずのない私たち二人が、偶然こんなところで出会ってしまう。もしかしたら、可能性がゼロに近いという、あの「一瞬と一瞬」の出会いもないこともないのかもしれない。」
「だが、諦めるのはまだ早い。望んでいればきっといつか機会は訪れるはずだ。ふたたび砂漠へ、そして今度こそ駱駝で、と望んでいれば…。」
いずれも余韻が残る文章の締めである。沢木はこの後どうしたのだろう…。私だったらこの後、どうするだろうか、と…。
エッセイストの誰もが文章の始まりと終わりには細心の注意を払うのだろうが、それにも増して沢木の文章ではそのことが印象深い。
寡作の沢木耕太郎であるが、彼の次作を楽しみに待ちたいと思う。