ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

埼玉県川越市郊外の伊佐沼では、ソメイヨシノの桜並木が満開になっています

2019年04月07日 | 季節の移ろい
 埼玉県川越市郊外の字伊佐沼にある伊佐沼では、西側の岸辺にあるソメイヨシノの桜並木が満開になっています。

 川越市郊外の伊佐沼(いさぬま)は、周囲の田んぼなどに水を供給する農業用水の池です。

 11月下旬の農閑期以降は、蓄えていた農業用水を大幅に減らし、水面が大幅に下がっていました。しかし、ソメイヨシノの並木が花を満開にしたころになり、また農業用水として田植え用の水を蓄え始めています。。

 南北方向に細長い伊佐沼の西側には、立派なソメイヨシノの桜並木があり、提灯などが飾られて、満開の花を盛り上げています。



 その西側にあるソメイヨシノの桜並木を、東側の岸辺から見た風景です。





 4月上旬になり、暖かい日になって、このソメイヨシノの桜並木は花をよく咲かせています。





 北側のハス田部分の“島”の干潟部分には、まだヒドリガモやカルガモなどが滞在しています。



 伊佐沼全体では、冬鳥のカモのヒドリガモの数はだいぶ減りました。岸部近くを進むヒドリガモです。





 コガモは、もうあまりいない様子です。

 ユリカモメも今回は見つけることができませんでした。

 一番の変化は、北側のハス田近くにあった干潟が水位が上がって水没したことです。このため、コチドリだちはどこかに行った様子です。

 この伊佐沼北側のハス田近くにあった干潟にコチドリが来て、エサを探していた話は、弊ブログの2019年3月25日編をご参照してください。

埼玉県北本市石戸宿の東光寺ある石戸蒲ザクラの木は、白い花をたくさん咲かせていました

2019年04月07日 | 季節の移ろい
 埼玉県北本市石戸宿の東光寺の境内に立つ石戸蒲ザクラの木は白い花をたくさん咲かせていました。

 この石戸蒲(いしどかば)ザクラの木は、樹齢800年と推定されています。この石戸蒲ザクラの木は、エドヒガンザクラとヤマザクラの自然交配種と推定されており、江戸時代後期にはまれに見る巨木のサクラの木として有名だったそうです。

 エドヒガンザクラとヤマザクラの自然交配種は、この木だけだそうです。白っぽい花を咲かせています。この石戸蒲ザクラの木は、国指定の天然記念物になっています。



 現在は、東光寺のかなり狭い境内に、石戸蒲ザクラの木は、数本の添え木などで補強されて立っています。









 見た目でややこしいのは、樹齢が推定800年で、木の周囲に子どもや孫の木らしいものも育ち、本体の枝かどうかなどが紛らわしいことです。



 しかも、東光寺の境内はかなり狭いために、石戸蒲ザクラの全体をうまく撮影できません。石戸蒲ザクラの部分的な枝振りをご覧ください。

 資料によると、木の高さは12.1メートル、枝ぶりは南北方向に16.3メートル、東西方向に20.5メートルだそうです。この数字からは、江戸時代後期にはかなりの巨木だったようですが、現在は剪定されて、何とか生き延びている古木のようです。

 この石戸蒲ザクラの木とその子どもや孫の木と一緒に花を咲かせています。満開時には、大きさが少し小さい白い花で空間が埋るそうです。

 この石戸蒲ザクラの「蒲」(かば)とは、源範朝(みなもとのりより)を意味しています。源頼朝の異母弟の源範朝が、源頼朝によって追われて、この現在、北本市の石戸まで逃げてきた時に、杖を指したら、このサクラの木になったという伝説から「かば」ザクラと呼ばれるようになったそうです。

 源範朝は、現在は浜松市にある“蒲御厨”で産まれて育ったために、蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれたことからの由来です。

 江戸時代後期に、石戸蒲ザクラの巨木ぶりが江戸市内中で有名になり、江戸後期の戯作者の滝沢馬琴が大いに興味を持ち、友人の絵師に絵を描かせているそうです。

 この石戸蒲ザクラの巨木が育つ東光寺は、北本自然観察公園の南端から徒歩7、8分の距離にあります。

 東光寺から北本自然観察公園の南端まで戻り、大雑把に言えば「く」の時の形の一番下の南端から北本自然観察公園内を東端の入り口まで、雑木林の小道を進みました。



 その際に、オオアラセイトウ(ムラサキハナナ)の明るい赤紫色の山野草の花に出会いました。



 また、ウグイスカズラの花も見かけました。



 北本自然観察公園内では、サクラの木が所々で花を咲かせ、一部の木々は緑の葉を伸ばしていました。





 広大な北本自然観察公園内の雑木林を歩いて、春の進みを強く感じました。