ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

日本経済新聞紙「私の履歴書」に登場した篠原欣子さんの成功要因を考えました

2013年06月28日 | 日記
 2013年6月1日から日本経済新聞紙朝刊の最終面のコラム「私の履歴書」は、人材派遣業のテンプスタッフ創業者の篠原欣子(よしこ)さんが登場し、執筆されています。

 6月末が近づき、篠原さんの事務系人材派遣業というベンチャー企業を創業し、同業界で成功した経緯はほぼ語られたころです。

 テンプスタッフ創業者の篠原さんによるベンチャー企業起こしの歴史では、親しい仲間たちと経営する“個人商店”から、ある程度の規模の中小企業に変身する際の、会社経営のガバナンス導入時点が、結果的に一番の成功要因だったと感じました。



 篠原さんによると、英語を学ぶ語学研修を英国ロンドン市で済まし、その英文をタイプする仕事を、オーストラリアのシドニー市で得た時に「日本と違って、女性が補助職ではなく、対等に会社員の待遇を受けている」ことを知ります。

 この事務能力が高い女性に、事務系の人材派遣業として仕事を与えるという考えが時代の流れに結果的に合っていたと感じました。1973年5月に、東京都港区六本木で人材派遣業を始めた当時は、東京都心部での人材派遣会社としては4社目だったそうです。後追いとして起業した篠原さんは40歳直前の中年としての決断でした。

 篠原さんは「会社の正社員が休みを取った時に、その代理として仕事をこなす臨時スタッフを派遣するアイデアを英国やオーストラリアでの体験から知った」と語ります。ある種の物真似です。しかし、創業後に現在のハローワークから受けた“法律違反疑惑”などの指摘は、社員は全員が正社員として雇用されるという日本の会社のあり方に従った慣例です。この点で、当時の日本の会社文化に挑戦していた点で、テンプスタッフは時代に対する新規性を持っていました。

 法人税のことも知らない篠原さんは、企業経営の素人です。しかし、他人の意見に耳を傾ける“いい人”として、一緒に働きたいと感じさせる人柄だったのではないかと想像しています。この結果、女性たちが自分たちの感性・仲間意識によって、女性が働きやすい事務系の人材派遣業として成功します。家族的な雰囲気の個人商店としての成功は、女性を戦力としてお互いに認め合った結果でした。

 会社の規模が大きくなり、全国展開するようになり、組織としての会社経営に切り替える時期がきます。各支店に運営を一任する“個人商店”として限界を感じた1988年に、リクルートから水田正道さんをスカウトします。女性だけの視点に、男性が加わり、事業計画・戦略を数値目標で管理する近代化を断行します。一緒に苦労してきた女性の支店長を現場から外すなどの“血を流す”葛藤が生じます。

 この辺の経緯を語る文章は、何か奥歯に物が挟まった感じです。いろいろなことが実際にはあったと感じました。一緒に苦労を共にした女性との葛藤がいろいろあったようです。文章が長くなったので、続きは明日にします。