まりっぺのお気楽読書

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フランス王フィリプ1世王女 コンスタンス

2011-10-27 22:33:30 | フランス王妃・王女
離婚を勝ち取った王女
フィリプ1世王女 コンスタンス・ド・フランス
シャンパーニュ伯ユーグ夫人/アンティオキア公ボエモン1世妃


1078~1126

ロベール2世のあとを継いだアンリ1世とアンヌ・ド・キエヴには
エンマという王女が生まれましたが幼くして亡くなっています。

アンリ1世の王子フィリプ1世には二人王女がいますが、母親はバラバラです。

長女コンスタンスの母親は、フィリプ1世のいとこの娘にあたるベルタ・ド・ホランドです。
        
15歳~17歳の間にシャンパーニュ伯ユーグと結婚しました。

フィリプ1世はベルタと離婚し、アンジュー伯フルク4世の妻ベルトラドを奪うようにして
再婚したので、アンジュー伯から恨みを買ってました。
そこで対抗措置として、当時最も勢力があったブロワ家の力を得ようとしたわけです。
なんだかひどい話じゃなくて?

けれどもフィリプ1世の思惑通りにはいきせんでした。
ユーグの兄エチエンヌがブロワ家の領地のほとんどを持っていましたし
ウィリアム1世王女アディラと結婚していまして
ほいほいとフィリプの言うことを聞いてくれるわけではなかったんですね。

当時のフランスでは、カペー家が王になっているとはいえ、ノルマン公とか
アキテーヌ公とかブロワ伯とか、王に引けを取らない力を持つ家柄がありました。
ノルマン家は隣国の王になっちゃうし、アキテーヌ公なんて王より広い領土を持ってるし…
王=王侯貴族の班長、みたいなものでしょうか? 国を治めてるってかんじじゃないですね。

結婚から10年後、コンスタンスはいきなりシャンパーニュ伯との離婚を申し立てます。
理由ははっきりしていません。
この離婚、父王フィリプ1世はまったく手を貸そうとしませんでしたが
弟のルイ(後の6世)と、義姉のブロワ伯夫人アディラが全面的にバックアップしました。

離婚申し立ての理由はなんだったんでしょうね? 気になるわ…
その後ユーグはブルゴーニュ伯エチエンヌ1世の娘イザベルと再婚してますが
後にイザベルと息子ウードと縁を切っています。

コンスタンスは1104年に離婚を勝ち取りました。
ちょうどその頃アンティオキア公ボエモン1世がヨーロッパに戻っていました。
ボエモン1世は十字軍の援護とともに妻を必要としていました。

コンスタンスの離婚はグッドタイミング!
フランス王女との結婚で格は上がるし、援軍だって出してもらえるかもしれません。
        
ボエモン1世は結婚後に34,000人の援軍を得てビザンツ(東ローマ)帝国を攻撃しました。
しかしヴェネチアの援護を得たアレクシオス1世は強かった!
ボエモン1世は和平を受け入れたばかりか
アレクシオス1世から報酬をもらう、所謂 “ 臣下 ” になってしまったとさ
コンスタンスはボエモンのいるアプリア(イタリアのプーリア)に移ります。
この間アンティオキアはボエモンの甥タンクレッドが摂政として治めていました。
ちなみにタンクレッドはコンスタンスの異母妹セシルと結婚しました。

ボエモン1世が1111年に亡くなり、1112年に摂政タンクレッドが亡くなると
コンスタンスは5歳の息子ボエモン2世の摂政になりました。
しかしその後バーリ伯グリマルドに投獄されてしまいます。
1120年に摂政を降りる条件で釈放され、1126年に亡くなりました。

成人した子供はボエモン1世との間に生まれた唯一の嫡子ボエモン2世だけです。
孫娘コンスタンチェの娘にビザンツ皇帝マヌエル1世妃マリアと
ハンガリー王ベーラ3世妃アンナがいます。

コンスタンスというよりボエモン1世のエピソードばかりですね。
古い時代にいけばいくほど、女性の記録はあまり残ってないのですね。
余程の偉業が無い限り、美しい(という言い伝え)かものすごい悪女か…
そういう人しか残されてないみたいです。

(参考文献 ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』 Wikipedia英語版)
コメント
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