TRAVELS WITH A DONKEY IN THE CEVENNES
1879年 ロバート・ルイス・スティヴンソン
スティブンソンといえば『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』ですが
私はどちらも読んだことありませんし、これからもたぶん読まないと思う。
19世紀ぐらいの小説を読んでいると、旅人や旅したい登場人物がよく
『旅は驢馬をつれて』を引き合いにだしているので、どれどれと手に取ってみました。
文字通りロバを連れて山岳部を旅する『旅は驢馬をつれて』と
友人とふたりカヌーで河を下る『内地の船旅』という
フランス田園地帯の紀行文2篇が収められています。
『旅は驢馬をつれて』は、最初はモデスティイヌという雌驢馬をまっすぐ歩かせるために
四苦八苦したり、道草ばかりの彼女(ロバね)を嫌々ムチでたたいたりして
人間ひとりと驢馬1頭の珍道中的な趣があったのですが、だんだん驢馬は忘れられて
ただ荷物を運ぶ道具と化してしまいました。
12日間の旅も終わりが近づき、モデスティイヌの体調が悪いと知るや売ってしまって
(少しは寂しく思ったみたいですけど…)わざわざ題名に “ 驢馬 ” って入れなくても
よかったんじゃぁ…動物がらみだと手に取られやすいという狙いか?
でもたしかに驢馬がいないとこの旅は成立しなかったのかもしれません。
『内地の船旅』は河沿いの村に降りて宿屋を捜し村人たちと語らって…の繰り返しです。
泥水でデロデロに汚れている分、浮浪者に間違われたりして嫌な目に遭うことも
多かったようですが、カヌーを見ると(金持ちだと思って)突然変わる
人々の態度というのが愉快でもあり考えさせられるところでもありました。
船上の荷船で生活する人々のイキイキしたところが素敵でした。
『旅は~』では野宿したり、『内地の~』では早い流れに呑み込まれそうになったりして
多少の危険はあったみたいですが、概ねのんびりすすんでいきます。
2篇とも村の名や宿屋の名が登場して、食事がこうだったとかもてなしがどだったなどと
書かれていて、さしずめミシュランのようになっています。
もちろん一流ホテルだったりゴージャスなレストランなんかじゃなくて
素朴な村と宿屋なんだけど、こんな宿屋行ってみたいかも!なんてところもありました。
当時であれば読者の旅心をくすぐるには充分だったと思われます。
普仏戦争の後でアルザス・ロレーヌを失ったフランス人たちの嘆きや、カトリックと新教の
隔たりなどが色濃くのこっている時代なので、時々議論などが巻き起こりますが
幸運なことに善い人との出会いが多かったみたいですね。
中には腹に据えかねる人もいたようで、ちくりちくりと挟み込まれていますけど…
村上春樹氏の『雨天・炎天』、この本を読んでいてなんか似てるなぁ…と思いました。
もちろん両方紀行文だから当たり前なのかもしれないけど、目のつけどころっていうの?
特に修道院に泊まったあたりがだぶっちゃってダブっちゃって…
人里から離れた土地柄でしょ、物静かな修道士たちでしょ、鐘の音とお祈り
俗人とは違う時間の流れ、異教徒を受け入れる懐の深さ、などなど…
それから最後は文明社会に戻って行く、というところね。
私はどちらの本も好きだからそう思えるのかもしれないけどね。
余談です
訳者は私の天敵吉田健一氏でしたがこの本は大丈夫だったわ!
1879年 ロバート・ルイス・スティヴンソン
スティブンソンといえば『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』ですが
私はどちらも読んだことありませんし、これからもたぶん読まないと思う。
19世紀ぐらいの小説を読んでいると、旅人や旅したい登場人物がよく
『旅は驢馬をつれて』を引き合いにだしているので、どれどれと手に取ってみました。
文字通りロバを連れて山岳部を旅する『旅は驢馬をつれて』と
友人とふたりカヌーで河を下る『内地の船旅』という
フランス田園地帯の紀行文2篇が収められています。
『旅は驢馬をつれて』は、最初はモデスティイヌという雌驢馬をまっすぐ歩かせるために
四苦八苦したり、道草ばかりの彼女(ロバね)を嫌々ムチでたたいたりして
人間ひとりと驢馬1頭の珍道中的な趣があったのですが、だんだん驢馬は忘れられて
ただ荷物を運ぶ道具と化してしまいました。
12日間の旅も終わりが近づき、モデスティイヌの体調が悪いと知るや売ってしまって
(少しは寂しく思ったみたいですけど…)わざわざ題名に “ 驢馬 ” って入れなくても
よかったんじゃぁ…動物がらみだと手に取られやすいという狙いか?
でもたしかに驢馬がいないとこの旅は成立しなかったのかもしれません。
『内地の船旅』は河沿いの村に降りて宿屋を捜し村人たちと語らって…の繰り返しです。
泥水でデロデロに汚れている分、浮浪者に間違われたりして嫌な目に遭うことも
多かったようですが、カヌーを見ると(金持ちだと思って)突然変わる
人々の態度というのが愉快でもあり考えさせられるところでもありました。
船上の荷船で生活する人々のイキイキしたところが素敵でした。
『旅は~』では野宿したり、『内地の~』では早い流れに呑み込まれそうになったりして
多少の危険はあったみたいですが、概ねのんびりすすんでいきます。
2篇とも村の名や宿屋の名が登場して、食事がこうだったとかもてなしがどだったなどと
書かれていて、さしずめミシュランのようになっています。
もちろん一流ホテルだったりゴージャスなレストランなんかじゃなくて
素朴な村と宿屋なんだけど、こんな宿屋行ってみたいかも!なんてところもありました。
当時であれば読者の旅心をくすぐるには充分だったと思われます。
普仏戦争の後でアルザス・ロレーヌを失ったフランス人たちの嘆きや、カトリックと新教の
隔たりなどが色濃くのこっている時代なので、時々議論などが巻き起こりますが
幸運なことに善い人との出会いが多かったみたいですね。
中には腹に据えかねる人もいたようで、ちくりちくりと挟み込まれていますけど…
村上春樹氏の『雨天・炎天』、この本を読んでいてなんか似てるなぁ…と思いました。
もちろん両方紀行文だから当たり前なのかもしれないけど、目のつけどころっていうの?
特に修道院に泊まったあたりがだぶっちゃってダブっちゃって…
人里から離れた土地柄でしょ、物静かな修道士たちでしょ、鐘の音とお祈り
俗人とは違う時間の流れ、異教徒を受け入れる懐の深さ、などなど…
それから最後は文明社会に戻って行く、というところね。
私はどちらの本も好きだからそう思えるのかもしれないけどね。
余談です
訳者は私の天敵吉田健一氏でしたがこの本は大丈夫だったわ!