万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

8月の法語

2014年08月01日 | Weblog
                    

 8月に入りました。台風12号の影響で大三島も夕方から雨が降り始めました。

 今月の法語は東井義雄先生のお言葉です。

   拝まない者も
     おがまれている
   拝まないときも
     おがまれている     
           東井義雄(とういよしお)

 東井先生は兵庫県但馬で小学校の教職にあられ、校長をも勤められましたが、60才の定年をむかえても地域の人たちが止めて貰っては困ると、嘆願書をもって教育委員会に願って留任された程の人間教育に重きを置かれた尊い先生であられました。その先生の中心に常に働いていた心は絶対他力のお念仏の心でした。

 拝む者が救われて、拝まない者は救われないと云うようなことではないのです。拝む者も拝まない者も同じように拝まれているのです。
 拝んでいる時に阿弥陀さまと通じ合うと云うことではなくて、拝まない時も阿弥陀さまはこの私を拝んで下さってあるのです。

 このお言葉を味あう時、山陰の妙好人浅原才市さんの同じようなお歌を思い起こします。

   わたしゃ、あなたにおがまれて、
     たすかってくれと、おがまれて
       ご恩とうとや、なもあみだぶつ  才市

 東井先生のご本にこのようなことが記述されていたことを思い出します。ある夜更けに電話があり受話器を持たれると次のような尋常で無い言葉が聞こえてきたのだそうです。「わしはこれから死んでやるんだ!死ぬるんだ!・・・」と、先生が何を云っても「死んでやる、死んでやる」と彼は云う。先生はこのように云われたそうです。「あなたは死ぬる、死んでやると云っていますが、あなたの心臓も呼吸も・・あなたの体全体があなたに生きて下さい、どうか生きて下さいと、働き続けているのですよ・・・」と伝えるとプツンと電話が切れたそうです。翌朝、その次の朝も気になって新聞記事を探すも自殺者の記事は無くてホッとされたと云うような内容でありました。
 先生のお創りになられた詩やご文には自分が気づいていようがいまいにかかわらず一切の目に見えるもの、見えないものによっていだかれ、生かされ続けていることが溢れています。
 
 
コメント
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