万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

お手紙の中から

2012年09月10日 | Weblog
                   
                   ランタナは可愛い花、ハーブです


 先々月、アーサー・ビナードさんの原爆資料の写真詩集『さがしています』が出版されたことを機縁として被爆死した綜智兄の

最後について小冊子としてまとめてみました。『母の遺したもの アーサー・ビナードさんの〈さがしています〉に寄せて』とタ

イトルを付けて手作りで製本したものです。50冊くらい作り、私の姉弟や姪甥、親戚、そして親友、御門徒で兄とご縁のあった

方々などに送らせていただきました。

 知友の方から感動的なお手紙をいただき有難く読ませていただきました。2、3紹介させていただきます。

長野県R.Tさんから 
 此の度はアーサー・ビナード『さがしています』の詩集とご高著をお送り頂きありがとうございました。広島の被爆遺品に寄せられたビナードの詩、心にしみました。又、貴君のお兄さん綜智さんについての文章、襟を正して読ませて頂きました。
 原爆投下の翌日、叔母さんが常葉橋の下で綜智さんに会われた場面、まさに奇跡的な出会いであったと思います。広島長崎の皆さんが受けた被害を絶対に忘れていけないと思います。戦争でなくても今般福島の原発事故も同じ原子力の被害に直面しています。学生時代貴君からお兄さんのことはお聞きしませんでしたので本当に驚きました。心からお悔やみ申し上げます。
 又、お父上三智さんの歌の中に信仰に徹した心情を拝し感動致しました。
 光陰矢の如し。小生現役を退いて10年、70才に突入し、人生の終焉もそう遠くないものになりました。歴史を勉強して来た結論として思うことは戦争の絶対否定です。殺し合いをしては反省し、又殺し合いをすると云う愚をもう止めるべきです。仲間と「憲法九条を守る会」をつくり、細々ながら活動を続けています。(中略)
 貴重な資料をお送り頂きありがとうございます。

 山梨県M.Tさんから
  今日は長崎の原爆忌となりました。「さがしています」「母の遺したもの」尊いご本を送って頂き有難うございます。大事に読ませていただきました。二度も、
 お兄様のご様子がよく分かり、御両親、叔母様、周りの方々の心情、それを綴られた浅野様のご両親の思いをそのまゝのようなお気持ちに思わず読み重ねました。
 私の兄のことは、早くに「いしぶみ」という本にまとめられていましたが、60数年たって被爆地が分かられたことを知り、こんなに間近かまでと思いました。いまだ分からない方もおありですものね、
 5日の日に兄のいた観音高校合唱部O.Bの方が毎年歌われる「レクイエム碑」の公演会が東京であり、案内をうけてましたのでお寺の親しい方4人で出かける時、本をお持ちし、その方達にも車中で読んで頂き、思いが深まって合唱を聞かせてもらいました。
 翌、6日の記念式の放送を毎年ならし続けてくれる拙寺の梵鐘の音とともに見ながら又、涙をにじませました。
 うちの孫たちもその6日には読ませてもらいました。今日もありますが、寺のいろいろな集まりで大事に読ませていただきます。今原発廃炉にむけて活動されている方々にも見て頂けたらと思っています。ありがとうございました。

 (M.Tさんのお兄さんも広島で中学1年生で被爆され亡くなられました。)

兵庫県M.Hさんから
  (前略)「さがしています」の写真詩集と「母の遺したもの」をお送り下さり、即座に読み通しました。本当に心打つ素晴らしい詩集と兄上様の当時の様子を述べられた冊子に涙があふれました。改めて反核、反戦をしていく気をいただきました。
 丁度若い者(後住、坊守、小5、小2,5才)が8月15日にお盆参りを終えて広島の原爆平和資料館へ行ったようで、私がよかった、よかったと思ったところでしたので、この本と冊子を読んでもらい共感を得ることができて良かったです。

広島県S.Tさんから
  (前略)ご編纂の「母の遺したもの」と童心社の「さがしています」ありがたく拝受いたしました。こゝ数年、戦争体験者の発言が多くなりました。消し難いと思われる経験が、いつの間にか60年も時間を関してみると忘れられ、「いつ戦争があったのですか」「どこの国が相手だったのですか」と問う若者が現れています。これではいけない戦争体験を語ることは自分が悲劇の主人公として同情を乞う姿になりはしないかと考えていた人達も戦争の悲惨さを知らせることは戦争を否定する心を生むのだと思い始めたからだと思いますし、経験者が高齢化し、今云っておかねばと云う想いが強くなったからでしょう。
 綜智さんは昭和8年1月生まれで中学1年生、当時中学3年生以上は男女共に軍需工場等に動員されていましたから中学校には疎開していない1年生と2年生がいるだけでした。それが防空壕堀り、開墾、そして建物疎開等短期動員に当たりました。日本中、都市部の中学校1年生のほとんどがこれです。その結果広島市内の中学1年生は元気な者の全てが被爆者になりました。私は昭和6年8月生まれで2年生でしたが1年生の終わりに東京で建物疎開を経験しています。もし広島の中学に居たらと江田島に帰って被爆の実情を見、年回法要で見る家族の嘆きに接すごとに厳しく思い続けています。私の同級生に高射砲に当たって死んだ者がいます。当時の日本の高射砲は3、4千㍍しか届きません。B29は1万2千㍍上空を飛んで来ますから届くわけがありません。弾はその最高点まで行くと何も当たらなくても爆発するようになっています。ところが不発弾があってそのまゝ落ちて来ました。落ちた所に家があってそこで爆発しました。私の友人はその破片に当たって死んだのです。死の縁無量ですが、その縁をよび起こす戦争こそが「因」であろうと思います。
 「柳行李にあった〈綜智の着衣〉と書かれたビニール袋の下りには胸を締め付けられる思いがしました。父君のお歌は前に歌集で見たと思いますが、あらためて涙したことであります。私も81歳になりました。綜智さんも80の老僧になっておられることでしょう。
 綜智さんの軍手がアーサー・ビナード氏の目に止まって平和への詩となったように、多くの人の指標となって欲しいものです。(後略)


 お電話や口頭でもご感想を聞かせて下さいました。有難く思います。

 兄が存命していたら、丁度80才です。そうすれば私は今どこで何をしているでしょう・・・・、

 この寺の住職を拝命してもう40年近くになります。その間、私なりにいろんなことをして参りました。そんな折、兄さんだっ

たらどのようにしただろうかなどとしばしば思ったことでした。この度の冊子についてもどうでしょう、「まだ、ボクのこと覚え

ていてくれたのー」とでも云うでしょうね、

 あれから67年も経っているのですから。このご縁を有難く思います。ありがとうございます。
コメント
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