万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

木村淡陽さんの書

2011年12月27日 | Weblog
                   

 先月の11/4~6の3日間今治の河野美術館で「書神会織田蘭齋一門展」が開催されました。その書道会の会員の木村淡陽(誠行)さんからご案内をいただき観覧に参りました。
木村淡陽さんは県庁に勤務されていましたが、定年後今治を拠点とされています織田子鵬先生そして蘭齋先生の元で書道の研鑽に励まれています。以前にも一軸頂き紹介いたしましたが、今回観覧に参りましたらその展示の額仕立ての作品と他の軸表装の作品を12/25日にお持ち下さり寺に納められました。
 お話を伺いますと、木村さんは中国の碑文書「張遷碑」(ちょうせんひ)を探求、臨書を続けられて来られた由、「張遷碑」の特徴は優美華麗な書体とは真反対で古朴、古めかしい味と素朴さがある書体であるとのこと、その古朴さにひかれて今日まで研鑽されて来られたとのことです。
 「清浄無為」の言葉については頂いた解説によりますと、「清浄にして無為。無欲無為であること、心が清らかで欲がなく、自然にまかせて作為するところがない態度をいう」とありました。道徳の極みとも云うべき心もちを意味して漢籍に見られる語彙のようです。
 仏典にもこの言葉はしばしば見られる言葉であることは云うまでもないことです。「無為」は「為すべきことを全て為し遂げた」と云うことで「さとり」を意味しています。「さとり」は「清浄無比」である。また、「清浄無比」なるものは「さとり」であると云う意となります。
 この「清浄無為」を誰でも知っている逆の言葉で云えば「いろは歌」の「有為の奥山」の有様のことになるでしょう。為さねばならないことが次から次にあって、奥山(深山)に迷い込んだような状態のことです。

 木村淡陽さんの「清浄無為」の朴として暖かみの感じられる書を拝見しながら様々な思いが込み上げて参ることです。いつまでも保存させていただきます。 多謝
コメント (1)
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