万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

11月のカレンダー法語

2010年11月01日 | Weblog
 本年も残り二ヶ月となりました。暑い暑いとグッタリなっていると突然寒波に見舞われて冬の気候となってビックリしたら、本

年も後二ヶ月しかなくなっていました。

 11月の法語は親鸞聖人のご撰述になる『浄土文類聚鈔』(じょうどもんるいじゅしょう)巻頭のお言葉

    恩を報じ 徳を謝せよ

 と、掲げられています。

『浄土文類聚鈔』は聖人が大著『教行信証』を自らダイジェスト版として要点を撰述されたものなのですが、その冒頭のご文を

揚げておきます。『教行信証』の総序のご文を要略されたものと伺えますが、驚くことに言葉(語彙)を換えて述べられ、『教行

信証』と合わせて読むと一層広く深く受け取られるように思えます。

 それ無碍難思(むげなんじ)の光耀(こうよう)は、苦を滅し楽を証す。万行円備(まんぎょうえんび)の嘉号(かごう)は、障を消し疑を除く。末代の教行、もっぱらこれを修すべし。濁世の目足(もくそく。目となり足となること)、これを勤むべし。しかれば最勝(さいしょう)の弘誓(ぐぜい)を受行して、穢を捨て浄を欣(ねが)へ。如来の教勅を奉持(ぶじ)して、恩を報じ徳を謝せよ。 (「註釈版浄土真宗聖典」p477)

親鸞聖人が29才の折長い苦悶の末に法然聖人のもとでめぐりあうことが出来た本願名号のみ光によって照らし出された自己と

は自我の執着心に塗れた善悪を尺度する、「おさとり」をめざしながら「おさとり」とは遠くかけ離れた自己の発見でありまし

た。その私に遠い遠いいにしえより「あなたよ!あなたのいのちはお浄土へ帰るいのちなのだよ、私と一緒にお浄土へ帰ろう!」

と背を向け続けてきた私に涙し、呼び続けられて来たその本願名号にであいめざめられました。それは、何をしたらとか、どのよ

うになったらお浄土に行けるとかなどの条件、交換条件がまったくいらない次元であります。

 親鸞聖人が各種ご撰述の中で申される「報恩謝徳」のお心は救いの要因として申されているのでは決してありません。

 聖人の85才以降のご制作と云われています『正像末和讃』の最後にもっともよく口にされている「恩徳讃」が挿入されていま

す。『浄土和讃』118首、『高僧和讃』117首、そして『正像末和讃』58首の最後に「恩徳讃」が位置しているところに聖

人のお心が慕われます。

  如来大悲の恩徳は
  身を粉にしても報ずべし
  師衆知識の恩徳も
  骨をくだきても謝すべし

 『教行信証』の行巻末に挿入されています正信偈の前文に

 「しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく」

と、述べられています。(「註釈版聖典」p202)

 また、『浄土文類聚鈔』の「念仏正信偈」の前文はもっと具体的なご恩の世界が述べられています。

 「これによりて曇鸞菩薩の『註論』(上)を披閲するにのたまはく、〈それ菩薩は仏に帰す、孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならずゆゑあるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし〉と。仏恩の深重なることを信知して、〈念仏正信偈〉を作りていはく。」  (「註釈版浄土真宗聖典」p484)

 本願他力の大慈大悲との不可思議な出遇いは報恩謝徳の称名念仏を起こさしめるはたらきが備わっていること・・・・南無

 徳力さんの版画図は「洛陽著述」とあります。奥の部屋で聖人が文机に向かわれて著述に専念しておられます。次の部屋の廊下に童女が一人淋しそうに座っています。この童女は聖人の末娘の「王御前」と呼ばれていた覚信尼さまであろうと思います。聖人は60数才、関東常陸国稲田より京に帰られ、五条西洞院に仮寓しておられた頃の様子だと思えます。その頃は内室恵信尼さまは越後に居住しておられました。

  
 

コメント
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