学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学校をよりよくするために

2009-02-25 | 教育
学校というところは,昔も今も
いろいろと問題の多いところである。

よい学校,問題のある学校というのも
相対的な話であって,
どんな学校も,多かれ少なかれ,
問題を抱えているものである。

したがって,
よい学校,理想の学校というのは存在しないし,
学校外の人々が,
学校をよくしようと奔走することが,
かえって,学校を悪くすることはよくあることである。

学校の欠点をあげつらうよりは,
その学校の持つわずかな美点をでも認めていくほうが
結果的には,学校をよりよくすることにつながるのである。

その学校の教師の持つ能力で
なし得る最善の教育が,
その学校の最もよい状態なのである。

それ以上に優れた教育を学校に望むことは不可能である。

授業評価の妥当性

2009-02-25 | 教育
学期ごとに学習者による授業評価を行うというのが,
大学ばかりではなく,中学校,高等学校でもはやっている。

多くの場合,
マークシートを利用したアンケート形式になっているようだ。

この授業評価項目というのは,さまざまあるのだが,
ある項目について,その項目の評価を敢えて下げる授業や
上げる授業というのを試みてみた。

ところが,なかなかうまくいかないのである。

評価を下げる授業をしているのに下がらなかったり,
評価を上げる授業をしているのに上がらなかったりするのである。

こうなると,
評価項目に対する評価の妥当性がはなはだ危ういものに
思われてくる。

結局のところ,項目が何であったとしても,
たいして評価の変動はなく,
授業者の人物評価,あるいは授業者と学習者の相性診断に
なってしまっているのではないかと危惧されるのである。

こんなことなら,
教師の人気投票でもしたほうが,
まだましである。

このようなアンケートの結果でもって,
授業評価の眼目であった授業改善に資するという目的を
達成することははなはだ難しい。

これは,自由記述の場合も同じである。
授業について,肯定的な意見を書くか,
否定的な意見を書くか,
あるいは書かないかということは,
その学習者の性格に依拠するところが大である。
したがって,異なる学級で,
全く同じ授業をやっても,
学級の構成員が違えば,
評価は全く異なるということがままある。

このような評価を分析的・客観的にみて
授業改善をしようというのは,
ずいぶん不都合な話である。

授業を受ける姿勢

2009-02-25 | 教育
授業を受けるには
作法というものがあってしかるべきである。

授業の最初と最後には,
きちんと起立してお辞儀をする。

話を聴くときは,
きちんと先生の目を見て,
背筋を伸ばし,手を膝の上に置く。

話を聴くときとノートをとるとき,
作業をするとき,などなど,
動作にけじめをつける。

居眠り,私語,立ち歩き厳禁。

このような授業作法を早いうちから
叩き込んでおけば,
それだけで教室は崩れないし,学力は伸びる。

何も奇をてらうことはないのである。
昔から学校では当たり前とされていたことを
当たり前にやり続ければよいのである。

教師には,その教師の能力を超えた授業はできない。
教師の能力には限界がある。
優れた教師がいつも存在するわけではない。
だとすれば,学習者の側の学ぶ姿勢の有無,
それも外面的にはっきりわかる学ぶ姿勢の有無が,
授業の価値を大きく左右するのである。

つまり,大したことのない授業でも,
真剣に熱心に聴けば,学力は伸びる,
ということである。