「対話する社会へ」(暉峻淑子著)を読む

2017-04-02 22:41:10 | 私の愛読書

 新しい年度になりました。先週は、私の母校でもある栃木県立大田原高校の山岳部の高校生と顧問の先生8名が雪崩で死亡するという本当に痛ましい事件もありました。同校の卒業生としても、残念でなりません。心からのお悔やみを申し上げます。

 

 さて、先月から読み始めた本の感想を順次紹介したいと思います。いずれも岩波新書です。

 

 

 いままさに読んでいる本が経済学者の暉峻淑子さんの最新書『対話する社会へ』です。

 暉峻淑子さんといえば、20数年前に『豊かさとは何か』『豊かさの条件』などの著作があります。私も若い時代に一生懸命に読み、深い感銘を受けた思い出があります。暉峻さんも88歳を迎えながらも、この最新書では、知性の衰えもなく、実に含蓄のある文章を書いておられます。

 

 「平和(平穏な生活)を支えているのは、暴力的衝突にならないように社会の中で対話し続け、対話的態度と、対話的文化を社会に根付かせようと努力している人々の存在だということに、私も気がつくようになりました。人類が多年の経験の蓄積の中で獲得した対話という共有の遺産を、育て、根付かせることが、平和を現実のものとし、苦悩に満ちた社会に希望を呼び寄せる一つの道ではないか、と思っています」(まえがき)。

 

 「対話が大切だ」とは言われれば、いわゆる民主的運動に参加している方なら誰でも同意することでしょう。しかし、日常生活で、本当の意味で「対話」ができているのかどうか、ふり返ってみることが必要だと思います。

「対話」とは、日常の「会話」とは違う。ディスカッションともディベートとも違う。日常の常務連絡、一方的な指示、伝達とも違う。私たちもよくいう「意思統一」とも違う。

 

・対話とは、議論して勝ち負けを決めるとか、意図的にある結論にもっていくとか、異議を許さないという話し方ではない。

・対話とは、対等な人間関係の中での相互性がある話し方で、何度も論点を往復しているうちに、新しい視野が開け、新しい創造的な何かが生まれる、両方の主張を機械的にガラガラポンと足して二で割る妥協とは違う。

・個人の感情や主観を排除せず、理性も感情も含めた全人格をともなった自由な話し合い方が対話である。

・言葉の本質は対話の中にある。官の言葉、司法の言葉、政治家の演説、教科書など、いわゆる記述式の言葉が、明治期に標準化されてきた。しかし人間の言葉の始まりは対話であり、市民の言葉は対話である。

・幼児が生れてはじめて聞く言葉は親が注ぎかける対話の言葉であり、子どもは生まれながらにそれに応答する能力を持っている。

 

 本書の中では、「対話」について実に深い考察がなされています。

 私も、暉峻さんの考えにかなり共鳴しました。私も、この年齢になって、本当の「対話」というものが実に楽しく、有意義で、自分の視野を広げてくれるものであることを実感しています。特に、若い人たちとの「対話」から、学ぶことはたくさんあります。単なる会議の議論だけでは知ることのできない、豊かで多様な考えにふれることは実に楽しいことです。最近よく言われる「リスペクト」と通じるものがあります。組織の中では、形式上、上下関係があることはやむを得ないことですが、人間としては平等です。上役だから、人間として優れているということはありません。例え、年齢が離れている年下の相手であっても、私たちの知らない世界を知っており、認識をあらためさせられます。

暉峻さんは、「人々は生の人間との対話に飢えている」と述べています。

「体にビタミンが欠乏すれば、自然にビタミンを含む野菜を食べたくなるように、人間の心もまた、新聞やテレビや講演のように、いつも受け身で、自分の存在価値が影としてしか感じられないような、そういう生活から抜け出したいと思っているのではないでしょうか。自分の存在を確かめたい、あるいは認めさせたいために、ことさらに注意を引き付けるいたずらや非行に打って出る青少年もいます。ぎりぎりの自分という存在を感じたかったのではないかと想像もしてみるのです」

 

 この本には、私のこれまでの認識にはなかった視点がたくさん盛られています。熟読したいと思います。


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