私の愛読書(その6)「同時代のこと」(吉野源三郎著)

2011-05-29 23:03:03 | 私の愛読書

 

 私が青年運動をしていた頃、ある議員の方が紹介していた本で、その後、私の「座右の書」の一つになった本がある。「君たちはどう生きるか」の著者であり、雑誌「世界」の初代編集長であった故吉野源三郎氏の「同時代のこと」(岩波新書)。しばらく、本棚の奥に眠っていたが、今度の震災で本棚が崩れ、片づけをしていたときに「再会」した。

 この本は、多くが1970年代に書かれた「歴史的」文章なので、個々の内容的には訂正しなければならない部分はある。しかし、その思想は、いまでも十分に通用するし、いまだからこそ、光があてられるべきだろうと思っている。

 この本の中では、冒頭の「同時代のこと―序にかえて」と最後の「一粒の麦(1973年4月)―ベトナム再論」は名文であり、私は多くのことを学んだ。

 「序にかえて」は、短い文章であるが、この文章を書くために同氏は、約1年半もの間、熟慮を重ねたと聞いている。

「世界をゆるがすような大きな歴史的事件が足許から起ころうとしているのに、ペトログラ―ドの市民生活は、芝居も音楽会も変わりなく続けられていて、小官僚の妻君たちは、お茶を飲みながら、暮らしにくくなったことをこぼしあっていた。そして、同じ頃日本人は、大戦による好景気に酔いしれていて、ロシア革命をまったく無知のまま迎えた。このことは、半世紀以上前の話とはいえ、いまも笑えないことではないかと思う。ひょっとすると、いつの時代でもこんなものかもしれぬ、とさえ思われることである。現実の私たちについても、現実と私たちとの間には、知らないうちに何かビニールの膜のようなものが出来ていて、現実の真実の姿がなかなか目に映らないのである。形勢が重大になってきて、現実の方がこの膜を破って姿をあらわすまで、私たちは気付かずにいるか、あるいは多少気付いても直視しようとはしない。そして、いよいよ目がそむけられなくなった時には、もはや簡単には処置しようもなくなっている、という段取りは、現に私たちが、1960年代の日本経済の高度成長を経て、深刻な公害・都市問題・インフレーションに直面するに至った過程で、実際に経験してきたことであるが、それは、かつて、5・15事件や2・26事件を経て、日本が完全に軍国主義に制圧され、軍部独裁の体制ができあがっていった過程でも、私たちが痛い思いをもって経験したことなのである。(中略)実際に日常の生活に衝撃を与えるような事件が起こるとか、そのような状況が発生しない限り、大多数の人々は自分たちの日常に直接かかわりのないことに眼を配ろうとはしないのが常である」

 

 私は、今度の東日本大震災に直面して、自分がいかに地震や津波のことに無知であったか、原発や放射能が自分の視野に入っていなかったのかを痛感している。党全体としては、先駆的な問題提起をしてきたわけだが、その成果を私自身がきちんと身に着けていたとはいえない。私が、どう日本の現実に向き合ってきたのか、いろいろな日常業務に埋没していたのではないのか。

 吉野氏は最後にこうくくっている。

 「水に入らずに泳ぎを覚えることができないように、人間的な関心に身を投じないで人間的なものに触れることは、ましてや、これを論じることは不可能である。そればかりか、私の経験では、この関心の強度こそ、いわば人間の人間としての実在性を支える内延量にあたるものであって、社会的・歴史的現実というものも、ほかならぬ、この関心にもとづく私たちの切実な願望や行動に対する非常の抵抗として、はじめてその露わな姿と力とを示して来るのである。与えられた現実を克服しようとする努力も、ここから真剣な現実のたたかいとなる。そして、歴史が同時代のこととして、私たちの前に展開してゆく」

 

 今年も我が家の「家宝」・アンネのバラが咲きました


昨日は、息子の運動会

2011-05-22 13:15:53 | 日々のこと

昨日は、息子の小学校の運動会でした。私は、今年、PTAの5学年委員長になったので、朝7時30分に学校に行って、PTAの交通整理です。

5年生は、高学年ということで、運動会では様々な係を担います。息子は、ほかの学年の徒競争の決勝審判を数人の仲間とともに一生懸命にこなしていました。

自宅で接している息子とは違う面が見られて、だんだん自立していく様子に励まされた一日でした。

 

 


プロ野球交流戦 マー君Vs由規の熱闘

2011-05-20 23:43:52 | スポーツ

今夜は、Kスタ宮城でプロ野球の交流戦を観戦してきました。

仙台市出身のヤクルトスワローズ由規投手と東北楽天田中将大投手が先発。両者譲らない投手戦となりました。

由規投手は、高校時代の先輩が東日本大震災で犠牲となっただけに、なんとしても勝ちたいという気迫が伝わる投球でした。一方、田中投手は、「絶対に負けない」というこちらもすばらしいピッチング。何と奪取三振が15。みていて、ちょっと点が入る気がしない内容でした。


結果は、2対1で東北楽天の勝利!忙しい日々の中で、ちょっとだけ楽しませてもらいました。

ラッキー7のヤクルトの攻撃前。「東京音頭」でライトスタンドは、大騒ぎ。

楽天のラッキー7では、ジェット風船が飛びました。

 

明日は、朝から息子の学校の運動会です。

 

 

 


故庄司幸助さんのこと

2011-05-18 21:46:02 | 日々のこと

日本共産党の宮城県唯一の衆院議員を務められた庄司幸助さんが、5月15日午前5時40分に永眠され、本日、告別式が行われました。93歳でした。

故庄司幸助さんは、1972年12月の総選挙で、宮城県から初めて国会に駆け上り、1979年10月の総選挙で再度、当選を勝ち取りました。残念ながら、半年後の衆参ダブル選挙で僅差で次点となり、86年の総選挙をもって、第一線からは退かれました。

私が、宮城県に来たのは、1982年でしたから、国会議員時代の庄司さんのことは、直接には知りません。

しかし、その後は、民青同盟時代など様々な場面で、庄司さんからいろいろなことを教えられました。

民青同盟の時代には、5月に毎年、「自然探検ツアー」と銘打って、舟形山や泉が岳などに行きましたが、当時、仙台のブナ林と水と自然を守る運動を立ち上げた庄司さんに案内をお願いしました。庄司さんのお宅で、庄司さん自身が撮った写真やビデオを楽しそうに語られていたことが思い出されます。

私が、初めて宮城県の小選挙区の候補者になるとき、庄司写真館でポスターの写真撮りをした後、庄司さんの書斎に呼ばれて、「加藤君は、基礎はできているんだから、候補者をやるならもっと崩した方がいい(?)」というようなアドバイスをいただきました。去年の参院選挙は、ちょっと崩しすぎたかなとも今では少し反省もしていますが、庄司さんの演説は、実にユーモアがあったことが印象的でした。

庄司さんの勉強ぶりにも感心しました。共産党の県委員会で、故服部文男先生を講師に、10年ほど前に、月に1回の資本論勉強会を行なっていましたが、庄司さんは、熱心な受講生でした。今考えると、あのとき、庄司さんは、すでに80歳を超えていましたが、毎回きちんと本文を読んできて、服部先生に質問をしているのには驚きました。

庄司幸助さんをはじめとする党の先輩のたたかいと生き方を受け継いでいけるのか、この大震災の中、さらには地方選挙が目前に迫る中、正直、不安がないといえばウソになります。でも、この大震災からの復興、被災者支援をすすめるにはどうしても大きな共産党が必要であることを多くの方々が感じています。その声に背中を押されながら、前に進みたいと思っています。